田舎道の水溜まり
自由に書きたいことを書き並べてみるのもいい。
伝わらないことを承知の上で、好きに書かせてもらおう。
人に読んでもらうことよりもただ、書きたいことを今、書いておきたい。
ということで?、湯浅学さんの「てなもんやSUN RA伝」を手にいれた。
なんと!本人から直接、しかも「指紋のはんこ」というツグミ工芸舎の商品と物々交換してもらったのだ!
小さな木のはんこが370ページの分厚い本に化けた!しかも「ボブ・デュランの21世紀」までおまけでつけてくれたのだ。
高校生の頃、ジャズを手当たり次第に聞いていた。
さまざまなミュージシャンがいるなかで、SUN RAは謎だった。
いっちゃてる感があまりにも強い印象で、近寄りがたいものがあった。
まだ、この本を読み始めたばかりだが、僕が初めてSUN RAの曲を聞いてから30年の月日が流れ、時代は変わり、各アルバムをネットで探して聴きながら、解説を読むことができる。素晴らしい!
今、もう一度、じっくりSUN RAの世界を深く知る機会に恵まれた。
これは偶然ではない、と思う。
各記事の出だしがたまらなくスピリチュアルだ。
私たちと私たちではないモノという線引きのない世界で、私たちそれぞれの中に大なり小なりあるこのいっちゃてる感がSUN RAの曲や衣装や言葉と響き合う。
各記事の出だしの言葉は湯浅さんの中のいっちゃてる感とSUN RAのいっちゃてる感の響き合いが生んだ、実はどこにもいっちゃっていないこの宇宙のリアルだ。
この広い暗闇で、思考という明かりをこれっぽっちも頼りにしない宇宙が舞台です、っていうスタンス。
キノコを見ても、花屋の前を通っても、木の根っこを見てもサン・ラを想う。この感覚。この隔たりの無さ。
SUN RAがジャズメンを装ったキノコ、ジャズメンを装った木の根っこなら、自分はクラフトマンを装った田舎道の水溜まりがいい。匙や箸を作りながら、時に晴れ渡った空を写し出す鏡のようでありたいと思った。
大人が嫌がる水溜まり、服を汚し、車を汚す水溜まり、子供が泥んこになってはしゃぐ水溜まりでありたいと。
読み進めることのもったいない本にまた、出会ってしまった。
読み進めながらこの続きを書きたいと思う。