「森鷗外、最期の言葉はなんだったのか」

1、はじめに


 「note」を始めてみることになった。

「書く」ことからしばらく遠ざかっていたが、色々と縁があり最近は書くことに恵まれている。

そこで、書き始めるにあたって、まず第一にはっきりさせておかねばならないと思うことが出てきた。

これは文学好きの知人達に話していただけで、書き言葉によって残していなかったことだからである。

といっても今から語ることは、おそらく多くの方にとって「大発見」というものでもあるまいと思う。
自分の中で、大きな発見だっただけのことである。
それも高揚感を伴う発見ではない。
ただただ安堵した、そういう種の発見であり、そのレポートである。

それは森鷗外という明治・大正を生きた巨きな知性の死に関わることである。
鷗外の死といえば、「森鷗外遺言書」がその名文と共によく知られ、改めて紹介・分析の機会を持ちたいが、今回、上記遺言書に関しては僅かに触れるに留まるだろうと思われる。

2、鷗外、死に際の叫び


 本記事において、鷗外の死のイメージに大きく寄与するのは、危篤直前の鷗外を看ていた「看護婦によるある証言」である。
以下の発言をご覧頂きたい。

  意識不明になつて、御危篤に陥る一寸前の夜のことでした。枕元に侍し  てゐた私は、突然、博士〔鷗外〕の大きな声に驚かされました。
 「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」
 そのお声は全く突然で、そして大きく太く、それが臨終の床にあるお方の声とは思はれないほど力のこもつた、そして明晰なはつきりとしたお声でした。

伊藤久子「感激に満ちた二週日文豪森鷗外先生の臨終に侍するの記」
(『家庭雑誌』(1922年11月、博文館))

「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」
この叫びは、死に際して、鷗外が自らの生を回顧する最後の「声」として象徴的に語られ続けてきた。
死の直前の発話であることもあり、この些か暴言めいた吐露こそが、鷗外の人生を象徴している、そう語られることもしばしばであった。

 確かに、ある面において鷗外の生は「馬鹿らし」かった。
超一級の医学者となり得るべき頭脳と才に恵まれていながら、医学の学びは西洋医学・漢医学とを跨り、さらに文学にさえ魅せられてしまった。
それのみならず、哲学、美術、演劇など様々な分野の啓蒙に関わることで、巨大な知性は多分野への関与によって均されてしまったことは否めない。その点を取ってみれば、鷗外の人生はある種の〈悲劇性〉を帯びており、またその回顧として「馬鹿らしい」と認識されていてもおかしくはない。
後に見ていくように、「何にもなれなかった自分」という自己意識は後年の鷗外に確実に帯同していたと思われる。
「何者かになれる」期待を自他共に抱きながら、死の床にあって「何にもなれなかった自分」は「馬鹿らしい!」と総括され得るとも考えられる。

しかし、である。
冒頭で述べた「森鴎外遺言書」をもう一度開いてみたい。
この遺言書では「宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス」と断じられており、ここには地位や肩書きのない、ただ1人の「役割を持たぬ人間」(加藤周一『日本人の死生観』p.150)として死に臨みたいという切なる希求が刻まれている。
ここに表された「何者でもない人間として死にたい」という願いは人生に対する「馬鹿らし」さにまで跳躍し得るものなのだろうか。
鷗外が死の直前に発した「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」という発話の位置付けと、場合によってはその真偽をここで考えてみたいと思うのである。

3、「Resignation」という心持


 鷗外はかつて、自らの境地を「Resignation」と語っていたことがある。

  私の心持を何といふ詞で言ひあらはしたら好いかと云ふと、Resignationだと云つて宜しいやうです。私は文芸ばかりではない。世の中のどの方面に於ても此心持でゐる。それで余所の人が、私の事をさぞ、苦痛をしてゐるだらうと思つてゐる時に、私は存外平気でゐるのです。勿論Resignationの状態といふものは意気地のないものかも知れない。其辺は私の方で別に弁解しようとも思ひません。

森林太郎(談)「予が立場」(『新潮』1909年12月)

通常、上述された「Resignation」は「諦め、諦念」と訳出される。独語の正確なニュアンスまで拾い得た訳ではあり得ないだろうが、鷗外は、死の約12年前、この「Resignation」の心境に至り、そして当人はその心持に「存外平気でゐ」た。 鷗外の人生(半生)はその天賦の才に比して、ある種「馬鹿らし」かったのかもしれない。

 そして、多分野に亘りながらも、特に傾注してきた文学の領域において、自らの実作が当時の文壇の中心部とは遠く位置付けられていた状況は、歓迎すべき環境であるはずもなかった。時代は明治42(1909)年。自然主義が文壇の中心を担っており、鷗外はそこに与せず、彼らが表現してきた文学性とも意識的に距離を置いた。
それでも彼は、自らの胸中に芽生えた「心持」が怒りや憤りではなく、「Resignation」であることを発見した。「諦め、諦念」。
受動的だが、悲観的ではなく、「存外平気でゐる」ような、ある種「心の均衡」が取れた状態。
それは外部に憤怒を喚呼するような激情とは程遠い心境であることをこの時点で確認しなければならない。

この鷗外が12年後、死に瀕して「馬鹿らしい!」と外部に向かって叫ぶだろうか。

4、「死を怖れず、死にあこがれずに」

 では、鷗外の「死生観」自体は如何なるものであったか。

「老い」については、「なかじきり」という随筆で「前途に希望の光が薄らぐと共に、自ら背後の影を顧みるは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフ〔回顧的〕の境界に入る」と綴られている。

この「老い」に対する沈着な受け容れ方も押さえておきたいが、より重要なのは、「自ら背後の影を顧み」たものとして、下記のような「回顧」がなされている点である。

  然るにわたくしには初より自己が文士である、芸術家であると云う覚悟は無かった。また哲学者を以て自ら居ったことも無く、歴史家を以て自ら任じたことも無い。ただ、塹留の地がたまたま田園なりし故に耕し、たまたま水涯なりし故に釣った如きものである。約めて云えばわたくしは終始ジレッタンチスム〔道楽者〕を以て人に知られた。

森林太郎「なかじきり」(『斯倫』1917年9月)

鷗外の自己認識としては、本作執筆時の56歳(数え年/死の約5年前)という年齢にあって、どの分野の専門としても大成し得なかったという無念の思いが伺えもする。先に鷗外の人生の〈悲劇性〉と名指したのは、この事態のことを指している。

 そして、こうした「回顧」に関し、「しかし中為切(なかじきり)があるいは即ち総勘定であるかも知れない」と記されている1行は見逃せない。「総勘定」。
つまりこの時、あくまで彼の自己定義の中で、
「何者にもなれず一生を終えるかもしれない」という見通しが、鷗外の胸中に確実に存していた。
そのことに抗うのではなく、受け容れていくスタンスは、先の「Resignation」の心境と相通ずるものを感じさせる。

「なかじきり」において「然るにわたくしには初より自己が文士である、芸術家であると云う覚悟は無かった」と語った鷗外だが、その約6年前にもほぼ同様の内容を記している。

そして既住を回顧してこんな事を思う。日の要求に安んぜない権利を持っているものは、恐らくはただ天才ばかりであろう。自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云う境地に立ったら、自分も現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかった。

鷗外「妄想(もうぞう)」(『三田文学』1911年3、4月)

この明治44(1911)年に発表された「妄想」という名品は、フィクションという体裁である為、早くからそこに「自伝性」を見出す姿勢が問題視されてきた。本作の主人公である「翁」と「鷗外」その人とを同一視することを問題化する指摘である。
(ご関心のある方は、重松泰雄「「妄想」の自伝性をめぐる妄想」『文学論輯』1963年3月などをご参照のこと)

但し、本作があくまで「虚構」であり、作中の「翁」が鷗外その人でないとしても、本作に鷗外の自伝的要素が多く盛り込まれてあることは揺るぎない事実である。
そして、自伝的要素と作中との齟齬があるにしても、いや、そうであるからこそむしろ事実の意図的な改変(虚構化)にこそ重要な意味が宿り、本作は「フィクション」という装置を敢えて借りつつ、「ノンフィクション」では描き切れない鷗外の深い心境までが綴られ得た重要な作の1つと私は捉える。

そしてこの「妄想」に、「死」に関する叙述がある。

 これまで種々の人の書いたものを見れば、大抵老が迫って来るに連れて、死を考えるということが段々切実になると云っている。主人は過去の経歴を考えて見るに、どうもそういう人々とは少し違うように思う。

鷗外「妄想(もうぞう)」(『三田文学』1911年3、4月)

当作の主人公「翁」は、老が迫ってきても死を切実に考える人々とは「少し違う」と違和を示す。

 自分はこのまま人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知って居る。
 しかしその死はこわくはない。人の説に、老年になるに従って増長するという「死の恐怖」が、自分には無い。
(中略)
 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデル〔独の哲学者〕の「死の憧憬」も無い。
 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く。

鷗外「妄想(もうぞう)」(『三田文学』1911年3、4月)

「死を怖れもせず、死にあこがれもせずに」。これが「翁」の「死」に対する価値観である。そして本作は下記のようなエピローグを以て閉じられて行く。

 かくして最早幾何もなくなっている生涯の残余を、見果てぬ夢の心持で、死を怖れず、死にあこがれずに、主人の翁は送っている。

鷗外「妄想(もうぞう)」(『三田文学』1911年3、4月)

「死を怖れず、死にあこがれずに」余生を送って居る「翁」。そこには、「諦め」を表明しつつも「存外平気」であった鷗外の「Resignation」の静的な心境と通底するものがある。
「妄想」が仮に、虚構性の高い一作だとしても、こうした「死生観」を著し得た鷗外が、その約11年後、死の床で「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」と叫ぶ。そんな騒々しい幕引きになっていたとの証言は、私には俄かに受け入れ難く胸の中に仕舞われ続けていた。
一言で言えば、鷗外らしくないのである。

5、次回にむけてー「家庭の中の森鷗外」

 ここまで、鷗外の実作を通じて、死の間際の一言と、創作で表された「自己認識」や「死生観」との大きな落差を見てきたが、当の「馬鹿らしい!」という言葉が〈家〉という空間で吐き出されている(と証言されている)以上、プライベートにおける鷗外の姿も一瞥しておく必要があるだろう。
次回はそのプライベートの鷗外=「夫・父としての森林太郎」の姿と、「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」という極めて〈鷗外らしくない〉怒声の真偽について探っていきたい。

(つづく)


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