【随筆】大切なものとか、譲れないものとか、なんとかかんとか

現代社会において、目的とか目標を明確に示して、自身の価値観や世界観を端的に明示することが好まれるのは、なんとなく一神教の世界観、西洋的価値観から来るもののような気がしなくもない。

例えば、将来の夢とかキャリアを考えるうえで、譲れないものとか最も大事にしたいこととか、考えさせられる。そういう自身の価値観や世界観に対して基準や順位を設けることで、より具体化する作業をする。それによって選択をより合理的に出来るように仕向けているのだと思う。

しかし、それは本当に合理的なのだろうか。というより、合目的的合理性というのは真に合理的であるのだろうか。つまり、実利主義が蔓延っているのだ。そしてこれは、個人的な目的に対する実利主義だ。それは社会全体の利益ではない。つまり、功利主義にはならない。

実利主義が蔓延ると、多分、インフラを軽んじ始める。この場合のインフラとは、道路や電気ガス水道などの社会インフラに加えて、地球環境などのより低次のインフラも含む。今日の環境問題とは、化石燃料とか温室効果ガスとかそういうのも原因ではあるけれど、要するに四大公害のときのように因果関係がはっきりしている話ではなく、もっと複雑な社会構造の問題なのだ。

話がそれてきたので、本題に戻すと。実利主義は現代社会に馴染むことにおいては非常に有効的な価値観だ。実利主義のもとで、自分の意思決定を行える者は、少なくとも主観的には幸福なのではないだろうか。

しかし実利主義のために、大事な物や価値観に順位を付けることになんの意味があるのだろうか。本来そんなことに意味などないのだと思う。極論や思考実験の上で産まれる価値観を現実に持ち出して幸福なふりをするのは結構虚しいような気がする。


競争原理なんてものは幻想だと思う…

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