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反出生主義的実践として男性性から降りる

 この記事では、反出生主義を実践するにあたり男性性から降りることが有効な手段であることについて述べる。

諸注意

 男性性から降りることを薦める記事はごまんとある。だが、降りた先で男性がどう生きるかを論じる記事は少ない。そして当記事もこの放任的な立場を継承する。分かり切ったことだが、他人に何かしらの生き方を奨励する者が他人の人生の責任を取ることは無い。
 結論から言うと、無害になった人間は社会から興味を持たれない[1]ため、男性性から降りた男性に待ち受けているのは無である。これはそういう「道」なのであり、目的地は存在しない。それでも苦しみが有るよりはましだと感じる方には以下の内容が有益な情報になるかもしれない。

 また、筆者は反出生主義者でもフェミニストでもミソジニストでもミサンドリストでもない[2]。この記事は、仮に反出生主義者の立場に立った場合に、その実践のために男性性からの降壇がどのように役立つかを思考実験をするものである。

 最後に、当記事には「男性」や「女性」という言葉がしばしば登場するが、その区別はあくまで便宜的なものである。「それは男性/女性に特有の問題ではないだろう」「全員の男性/女性がそうではないだろう」「そのどちらでもない者も居るだろう」などの但し書きが常に必要なのはこの手の文章では至極当たり前のことであり、読者が適宜そうしたツッコミを挿入、あるいは単語の置き換え、あるいは削除する前提で当記事は執筆されている。



言葉の定義

 この記事における「反出生主義」および「男性性」を以下に定義する。

 反出生主義とは、新たな生を与えることを良しとしない立場のことである。反出生主義の根底には、そもそも生は苦しみであるという悲観がある。この認識の下では、子供を生み出すことが必然的に生という苦しみの被害者を作り出すことになる。故に繁殖行為は許されないのである。
 よくある勘違いだが、反出生主義は今ある命の抹消を望むものではないし、自殺を奨励するものでもない。もう生まれてしまった私たちにとっては死もまた苦しみなのであり、その究極の苦しみを味わう被害者を無くすためにも「これから生まれ得る命」を拒否するのである。
 苦痛の最小化という面では、法哲学的な「消極的功利主義」に重なる部分もあるため、当記事ではこの思考を基盤とする場面もあるだろう。

 次に、男性性とは、人類種が進化の過程でオスがオスであることに伴って形成された態度、思考傾向、行動様式のことである。殴る、蹴る、大声を出す、姦通する、加齢臭を発するなどの原始的なものから、人を虐める、地位を演出する、他者を支配するなどといった社会的なものに至るまで、その現れ方は様々である。これらの男性性は概して他者を何らかの形で害することによって成り立っており、その矛先は女性にも男性にも向けられる。
 男性性から降りるとは、男性がこうした男性性を発揮することを辞めることを指す。そうすることで女性を加害してしまうことを避け、同時に自らも男性性の勝負の舞台から降壇することで不要な精神的・身体的・経済的消耗を回避することが可能になる。

 前置きは以上である。さっそく反出生主義の実践に何が必要なのかを見ていこう。

外面的な男性性からの降壇

 男性が反出生主義を実践するにあたって重要なのは、まず自分が繁殖しないことである。女性と懇ろになり、繁殖に至るきっかけになるようなあらゆる可能性を排除することである。婚活やナンパをしないのは当然として、社会的な交流の場に出ない、会話が発生しないように努める、相手と目を合わせることを避けるなどが望ましい態度の例として挙げられる。

 しかし、女性との関係を避ける手段として女性を害することがあってはならない。相手に対する積極的な拒否という加害には、自分に対する積極的な拒否という加害が返ってくるからである。生は苦しみでありそれは避けられるべきであるという認識を根本に持つ反出生主義者が、反出生主義の実践のために加害されて苦しんでしまうようでは本末転倒である。ゆえに、目指すべきは無害に徹することである。
 風呂に入る。歯を磨く。汗をかくことを避ける。臭いを発することは基本的な加害なので、まずこれを避ける。靴下は裏返して洗う。バスタオルは一回で洗濯する。洗濯物は直射日光の下で消毒しながら干す。当然、タバコは吸うべきでないし、酒臭くならないようアルコールも避けるべきである。何かよく分からないフェロモンが出ているらしい耳の裏や首の後ろを徹底的に洗う。臭いの原因になる髭は必ず剃り、金銭的余裕があれば医療脱毛で完全に焼き殺すのが望ましい。
 また、臭いを最低限に抑えられたとしても見た目が不潔であればそれはやはり加害であるから、これにも気を遣う必要がある。服を毎日変える。シャツはアイロンする。染み付いた服、色褪せた服は捨てる。上裸にならない。乳首を透けさせない。鼻毛を出さない。ムダ毛を剃る。寝癖を直す。眉毛を整える。唇を乾燥させない。シミを隠す。ニキビを隠す。毛穴を隠す。余裕があればメイクをする。
 加えて、不潔ではなくても恐怖を与えるという点で過度にガタイが良いのは望ましくない。筋肉隆々の体で、実際に力を行使することがなくとも、いざとなれば力でねじ伏せられるという状況を作り出すこと自体が既に加害である。相手が同じような体つきの男性の場合、本能的な緊張感はさらに高まり、自他を害する潜在的危険性を伴うことになる。その点、標準体重かそれ以下になることは無害性の象徴である。
 こうして自身の臭いや見た目を無害化することで、他者から害される機会を抑制できる。

 するとどうだろう。以上に挙げた行動うちいくつかは男性に特有な要素の削減といえるものであり、そうして良い意味でも悪い意味でも興味を持たれないことによって、究極の加害である出生を行おうとする異性との繋がりを断つことになる。
 そう、男性性から降りることは、より確実な反出生主義の実践に繋がるのである。

 同時に、「女性に嫌われる男性性」を削ぎ落すことは、女性が「女性に好かれる男性」の方へ流れていく勾配を低減させることにつながる。性的魅力は他の全ての価値と同様、比較によってのみ立ち現れる幻想である。美しい男性が汚い男性の中に居れば魅力が引き立ってしまうが、美しい男性が無味無臭無害な男性の中に居ればその効果を薄めることができる。多様性は社会をより良くしてしまうため、出生を止めるべく社会を終焉させるには多様性を如何に減らすかが重要になり、そのためにはまず自分達から無害という単一性に集結することから始めるのが良いだろう。
 強い形の反出生主義である「他者に繁殖させない」を完全に実現するのは難しくても、この方法で他所で繁殖が行われる可能性を低下させることくらいはできる。

 さて、お気づきの方は居ると思うが、ここまでは全人類がルッキズムで行動していることを暗に前提としていた。次段では、この仮定を外すことで次のステップに進む。

内面的な男性性からの降壇

 男性が見た目・格好の面において男性性から降りるだけでも、一定層の女性の意識から外れられる効果が見込める。しかしルッキズムを克服している女性に対しては効果がないため、反出生主義的実践としては不十分である。そこで、そうした女性に自分が意識を向けられること、および自分が原因で他の男性に意識が向けられることをともに避けるべく、次は内面的にも男性性から降りることが重要になってくる。これは不要な精神的・身体的・経済的疲弊をなくし自身の苦痛を最小限にすることにも繋がる。

 まず意識すべきことは、勝負をしないことである。勝負の舞台を設定し、勝敗を誇示することは社会的地位を確立せんとする男性性の表れであり、女性が魅力を感じる場面でもある。勝負に参加することは敗北した際に勝者の性的魅力を向上させ繁殖確率を増加させる危険性があるため避けるべきであるし、勝負に間接的に関わるだけでも注意力資源を消費し精神的に疲弊するため、生の苦しみを避ける立場からは奨励されない。
 勝負というのは、なにも殴り合いの喧嘩だけを指しているわけではない。広い意味での勝負は、家庭でも学校でも職場でもインターネットでもあらゆるところで見られる。そこに勝負があることを認識し、それを避けられるようになることが重要である。
 社会的場面で自分を売り込まない。同僚と競わない。職場で聞こえてくる自慢話を無視する。会話の場面で自分の話をしない。任意のオタクコミュニティで目立とうとしない。同人誌即売会で壁サークルになろうとしない。Twitter上の議論に参加しない。バズろうとしない。対人スポーツをしない。対戦ゲームをしない。それらの実況や観戦をしない。人狼をしない。じゃんけんをしない。きのこたけのこで争わない……。
 苦痛を避けるというゲームにおいては、戦わないことこそが勝利なのである。

 もちろん、完全に社会から脱出することが可能なのであれば苦痛は無くて済んだはずだ。だが生誕をしてしまった以上そうはいかない。生存を続けるためには、必ずどこかで他者と相互作用する必要が出てくる。このとき意識するべきことは、どんな相手にも優しくすることである。
 その理由は、一つには、自分が害されることを回避するためには他者を害さないことが必要だからである。だが、他者に優しくするのはそれ以上の反出生主義的な意義がある。
 まず、誰にでも優しい男性はモテない。この周知の事実は、まず自分が繁殖しないことを第一とする反出生主義の立場から評価に値する。誰にでも優しく、かつ勝負も避ける男性は、一緒に居てつまらないし安心もしない。あらゆる小学校でイジメをする側はされる側よりモテたという観測事実が、大人の世代において大人の倫理観によって完全に上書き修正されているとは思えない。
 また、優しいことは人間関係を更新しないことに繋がる。相手の詮索をしない。相手の意思を引き出そうとしない。自分の意思を一切口に出さない。あなたの既存の予定を優先すると言って一緒に出かける予定は立てない。明日は仕事だからよく寝た方が良いと言って終電前には必ず帰す。そう、ここでいう優しさとは、世間一般でよく言われる「はきちがえた」優しさである。そして、反出生主義の実践ではこの「つまらない」優しさこそが正解になる。

 最後に、性欲について扱う。ここで性欲とは、単なる性的快楽を欲することよりも広く、特定の誰かと親睦を深めて配偶したいとする欲求、およびそこに向けた事前的な行動全般を起こそうとする欲求を指すものとする。
 反出生主義において、性欲は諸悪の根源である。新たな命を生み出してしまう悪魔であるし、社会において人を害し人に害される出来事の多くを性欲が駆動している。その性欲は男性においては内的な男性性の中心に存在するものであるから、男性が男性性から降りることが最も直接的に反出生主義の実践に効いてくる。
 女性とのあらゆる親交を避ける。話しかけない。近づかない。目を合わせない。とにかく自分及び相手の視界や意識に相手及び自分が入り込むことを避けることである。女性へのちょっとした視線の合致や接近すら男性性の表れの可能性があり、相手を加害しうることを自覚すべきである。特に接触は明確な加害であるから当然許されない。ナンパをする、セクハラをするなどは論外で、逆にこちらが社会的に害されるリスクもあるため苦痛の回避の観点からも害しかない行動である。
 合コンに参加しない。飲み会で相手を誘わない。夕方には帰る。オンラインでも話そうとしない。通話しない。メッセージを送らない。実家に住むか一人暮らしをして、誰かと同棲しない。掃除炊事洗濯全て自分でできるようになり、前時代的な家庭補助を他者に求めない。そうして配偶者を必要としないというポーズを取る。自己の生存維持に必要な相互作用を除くあらゆる交流を避ける。

 可能な限り自己のみで完結し、交流の場では全て相手の意思に任せ、自分は動かない。男性性を(痛みが伴わない範囲で)極限まで削ぎ落した無害にして無益の無味無臭人間が、こうして完成する。

 出来上がったこの男は、反出生主義の究極の体現者となる。


まとめ

 反出生主義の究極の理想は、新しい命が生まれることがなくなり、かつ今生きる人類が穏やかに死んでいくことである。この理想の実現のためには、如何に人を害することなく社会システムを害するかが重要になってくる。世の男性が男性性から降りることは、この目的によく合致するのである。

 どんな人間に対しても無益かつ無害な個体が大量に存在し続けることこそ、社会システムに対する最大の加害である。このことは躺平(寝そべり属)[3]と呼ばれる中国の若者たちが教えてくれている。「家を買わない、車を買わない、恋愛しない、結婚しない、子供を作らない、消費は低水準」。こうした彼ら彼女らの思想は、男性性からの降壇による反出生主義の実践と重なる部分がある。

 簡単に言えば、彼らは(そして、これから男性性の降壇による反出生主義を実践する者たちは)、社会の癌である。(社会の終焉を望む者にとって、これは誉め言葉である)。
 癌細胞というのは、別に毒ではない。他の細胞を積極的に攻撃したり、食べたりするわけでもない。癌細胞は、ただそこにあるのである。周囲から生命維持に必要な福祉を遠慮なく享受し、ただ位置を占めるのである。その「寡黙な淀み」こそが社会システムを着実に蝕むのだ。
 このアナロジー[4]において、癌細胞が「死なない細胞」であることには重要な意味がある。正常な細胞が然るべき時期が経つと自死する仕組みが組み込まれているのに対し、癌細胞にはそれがない。
 生の苦しみを認識した反出生主義者がしばしば抱く希死念慮は、社会という生物の構成細胞である人間に事前にプログラムされた自動的な感情にすぎない。そうして実際に自死を選ぶことは、残念ながら、社会の継続に寄与する。その希死念慮は、我々人間が自分の生存のために様々な細胞に適宜死んでもらっているのと同様に、社会という生物が身勝手にも存続するために備えている仕組みである。加害の発生源である社会の存続のための命令に従ってはならない。その淘汰圧に屈してはならない。つまり、反出生主義を実践するには、まず自死を選んではならない。無害に生きて、相互作用を避け、ただ社会に位置を占めるのだ。癌細胞は増えることで癌を形成し、社会機能を停滞させ、じっくりと、着実に、社会を終焉へと導く。
 癌として社会を蝕むという在り方こそが、反出生主義者の進むべき「道」なのであり、男性性から降りることはその道を歩むためのよき指針となるのである。


コメント返信

①2023/08/28のコメントへ
 原さん、コメントありがとうございます。
 初めの質問にお答えします。私が今回エミュレートした「苦痛を最小化することを前提とする反出生主義者」が自殺を正当化できる可能性は、あるかもしれませんがとても低いです。その理由は以下の通りです。
 実際、死なないと苦痛を感じることを根拠に安楽死が認められている国がいくつかあります。しかし、それが認められる条件は様々な倫理学者や哲学者、医学者などの助言を受けて練られており、一般的に極めて厳しく、その条件がクリアされることは滅多にありません。
 これと同じ結論が苦痛を最小化する観点からも出ると思います。というのも、自殺をしないと苦痛に感じるという感性は、例えば鬱病であれば投薬や電気刺激等の適切な治療により低減するか消滅することが多く、その治療を受ける苦痛と直ちに自殺する苦痛(身体的に痛くない手段を取るとしてとも、その決断に至るまでの精神的なダメージはあるはず)を比べたときに、前者が後者を上回ることは少ないと思うからです。

 次の質問ですが「苦痛を最小化する反出生思考に基づき、繁殖を行おうとする現存する人間を積極的に減らすことは許されてしまうのか」という質問と受け取りましたので、それについてお答えします。
 回答は、「何を重要視するかに依存する」です。というのも、これは反出生主義版のトロッコ問題だからです。「現存する繁殖意図のある人間を殺す」というレバーを引けばその後生まれ来る赤子は生誕の災厄から助かりますが、そのレバーを引かなければ現存する人間は助かる代わりに繁殖の結果生まれる赤子には生誕の災厄が降りかかる、という形です。
 この問題設定の下で巻き起こる議論は基本的に通常の法哲学で行われる功利主義の議論と同じで、苦痛を数値化して合計して比べるべきか、平均を比べるべきか、現存する数値と将来的な数値は同じで良いのか、そもそも数値化できるのか、質の違いはないのか、などの問題が後続します。
 当記事では苦痛を最小化するという消極的功利主義に近い立場を取りますが、その際苦痛をどのように比べるかについては明言していません。具体的には、現存する繁殖意図のある人間が殺されることによる苦痛と生まれ来る赤子が味わう苦痛を比べてどっちがどれくらい大きいか、といった問いに関する結論は出していません。ゆえに判断は読者に任されます。翻って、一つ目の質問に対する回答にもこの話は当てはまっています。





脚注

[1] 強い主張のため、要出典。以下同様。

[2] 筆者は共感能力を喪失しているため、ユーモアとして健常者エミュレートする場合を除き、女性の苦悩やいずれ産まれ来る赤子の苦しみに共感することは不可能であり、原理的に反出生主義者やフェミニストではない。並列して、筆者は意味・価値・実在・他者といった仮象への信仰を解体しているため、他者を好むことも嫌うことも不可能であり、原理的にミソジニストでもミサンドリストでもない。筆者は単なる鬱病の童貞である。

[3]

[4]人間は有性生殖によって増殖するが、体細胞は分裂によって増える。ここがこのアナロジーの一つの限界である。


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