【短編】 街路を走る 【小説】
バババッ、ババババッ、ババッ。水をなみなみに注いだ風呂桶をひっくり返したような大雨が、しきりに背中を叩いてくる。その不規則な刺激が、今の僕の心を慰める。今は、街路の両側に整然と規則正しく並んでいる建物を、視界に入れたくない。
「寒い。冷たい」
今肌で感じていることを口に出す。そうすることで、さっきの出来事で感じた恥ずかしさや惨めさが、心から追い出されてくれる気がしたから。
彼女は数学が得意である。
いつも教室の自分の席で、数学の難しい本を読んでいる。ある日、彼女が読んでいる本を覗き込んでみた。いくつもの一度も見たことがない数式が、そのページの上に規則正しく並んでいた。
「こんなに難しい数式が書いてある本をよく読めるね。こんなの読むなら国語の教科書を読んでいる方がまだマシだ」
「あら。どうして?」
「そりゃあ、数式なんかより、日本語のほうがずっと分かりやすいからだよ。本は理解できないとおもしろくない」
「数式は一つの言語なのよ。日本語に訳すことだってできる」
「それは嘘だろ」
「どうしてそう思うの?」
「もしそうなら、数学の教科書に数式は必要ないじゃないか。全部日本語に訳してしまったほうが分かりやすくなるだろう」
すると彼女は、一枚のルーズリーフと高そうなペンを机の上に出し、スラスラと文字と記号を書いていった。彼女がペンを置いたとき、机の上のルーズリーフには、『1+1=2 1に1を足した数は2に等しい』と書いてあった。
「ね? 分かるでしょう?」
僕は、なんとなく悔しくなって、話をやめてしまった。
これが彼女との初めての会話であった、と思う。
僕は国語が得意である。
いや別に、国語という教科が他の教科と比べて特別好きだというわけではない。ただ、物語を読むのが好きなのだ。そんな話を彼女としたことがある。
「へぇ、じゃあ一番好きな物語とかはあるの?」
「一番好きな物語って聞かれると難しいけど……、楽しい物語が好きだよ」
「そうなんだ。なんか君らしくないね」
「どういうことだよ」
「なんか、君って、悲劇を好みそうだもの」
「なんでそう思うんだよ。普通にハッピーエンドの物語が好きだよ」
「へぇ。例えば?」
「有川浩とかよく読むよ」
「なんか、普通だね」
「だから、普通の人なんだよ。僕は」
「普通ではないでしょう」
そう言って笑うと、彼女はその細長い指が掴んでいる本の、数式が並んでいるページに目を落とした。
本当は、シェイクスピアの四大悲劇が好きだということは、とうとう言えなかった。
さっきの出来事。
僕は彼女のことが好きだ。いつからだったかはよく分からない。初めての会話の時にはもう好きだった気がするし、そうでない気もする。とりあえず、僕は彼女が好きなのだ。
今朝の天気予報では夕方から大雨が降ると言っていた。しかし、今日はすべてのことがうまくいくと思っていた僕は傘を持たなかった。昼下がりに家を出た。待ち合わせをしている駅の近くの喫茶店へと続く街路を歩く。最近舗装されたきれいな街路の両側には整然と賑やかな店が規則正しく並んでいる。「まるで、彼女みたいだな」と、変なことを考えていた。空はなんとなく暗くなってきていた。
喫茶店には彼女が居た。窓際の席であった。ガラスの向こう側にいる彼女に手を振るが、彼女は本に夢中であった。彼女の横には真っ赤な一本の傘があった。
「ごめんなさい」
彼女の日本語を理解するには時間が必要だ。いつもそうだ。この世界を知り尽くしたような口ぶりで話してくる。しまいには僕の心まで見透かしてくる。そして、こちらから彼女に近づこうとすると、ヒラリとかわして何処かへ行ってしまう。まただ。
僕の視界には、テーブルと、空のコーヒーカップ2杯しか残らなかった。