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異世界転生と「逃げるが勝ち」になりそうな僕たちの社会の話

異世界転生ものは、現実社会の新しい生き方のヒントを提示していると思う。

異世界転生ものとは、近年アニメやライトノベル界でもてはやされまくっている一代ジャンルである。転生ものの流行自体はすでに10年以上が経過していると思うが、その人気はいまだに衰える気配もない。最近でも『盾の勇者の成り上がり』、『転生したらスライムだった件』などの作品が続々とアニメ化され続けているし、小説家になろうなどの創作系サイトでは、日々生まれ変わりから始まる小説コンテンツが恐ろしいペースで生産されている。

行きっぱなしと俺TUEEE

もちろん、主人公が生まれ変わる、新しい世界に迷い込むといった話は、この転生ものブーム以前にも、山ほど存在してきたわけだが、近年の転生ものと、それら過去作品を明確に分ける特徴が二つある。

ひとつは「行きっぱなし」であるということ。もうひとつは主人公が転生により最強になること、いわゆる「俺TUEEE」である。

まず行きっぱなしについて。小説であればプロローグ2ページ目で転生し、アニメであれば1話目の冒頭5分で転生する。そして二度と帰ってこない。

そして新しい世界(たいていはゲーム的なファンタジー世界)では、俺TUEEEが待っている。主人公は特殊な能力を身に着けている、レベルが高いなどの事情から、苦労せずに大活躍することができる

「転生は逃げである」という批判fromおっさんa.k.a俺

ところが、30代男性である自分の生活圏内では、この転生ものというジャンルに対する視線はたいへんに厳しい。典型的な批判として、主人公が異世界に旅立ち戻ってこないことを「単なる現実逃避ではないか」と指摘するものがある。

辛い現実をあっさりと捨てて、ファンタジー世界に「つよくてニューゲーム」状態で新しい人生を始めることに歯がゆさを覚えるのはわかる。私もそういう考えをもっていて、このムーブメントについてずっと冷笑的に見てきた。

現実世界での問題を解決しようとせずに、妄想にまみれた、俺が最強の新しい世界に逃げ込む。「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……」とつぶやきながら絶望に飛び込んでいくシンジ君と自分を重ね合わせて育った我々世代には、その主人公の姿が、女々しく、情けなく映るのだ。

裏を返せば、90年代以前に生まれた人間には、「逃げずに立ち向かってこそ勝利を手に入れられる」という、心の底に刷り込まれた大きな価値観があるのだ。

しかしある時ふと気づいたのだ。転生ものはは今の社会の在り方をただ示唆しているだけなのではないかと。僕たちはこれから「逃げるが勝ち」の時代を生きていくのではないかと。

逃げられない時代の思い出

一昔前の「社会」はとても小さく、狭かった。

学生であれば、それは学校と家庭がほぼ同義で、あとはバイト先やら塾やらがちょっとあるくらい。それで社会は完結してしまう。だから、学校でいじめられ、家では怒鳴られる子供の逃げ道はほとんどなかった。

で、そういう子供たちはどうしたかというと、仮想世界に逃げた。ビジュアル系音楽を聴き、深夜ラジオにかじりつき、映画を見て、ネットゲームに没入して、現実から目を逸らして、つかのまの、仮初めの、魂の安息を得た。

だけれど、残酷な朝がまたやってきて、また腕を掴まれて引っ張られて、現実に引きずり戻された。学校に行き、虐げられ、うわの空で先生の声を聞きながら、校庭を横切る野良犬をぼんやり見て、その奔放さに憧れたりして、辛い一日にひたすら耐えた。ひどく打ちのめされて帰り、そしてまた仮想現実に逃れる。その繰り返しが延々と続いた。

そういう狭く限定的な社会は、大人になっても変わらなかった。学校が会社に置き換えられる。結婚して家庭を持つ。会社と家庭の往復、そこに趣味のサークルや町内会が加わって完結する。そんな社会だった。世界は物理的には広い。でも人間の社会といわれるものは、あまりにも狭かった。

サードプレイスがファーストプレイスになる時代

でも、インターネットが広まり、世界は広がった。Twitterでサブ垢をいくつもつくり多重人格的にふるまいながら、様々なコミュニティを渡り歩くことすらできる。Showroomやミラティブといったライブ配信サービスでは、自分の考えや趣味を配信しながら、リアルタイムで、どこかの誰かと新しい関係を結ぶことができる。今や複層的なコミュニティを泳ぐようになる時代が訪れた。

何よりより重要なのは、収益化やコミュニケーションインフラの充実によってこれらのサブコミュニティが、メインのコミュニティすら凌駕することがあるということだと思う。

かつて、趣味の世界はサードプレイスでしかなかった。家庭がファーストプレイス、学校や職場がセカンドプレイス、そしてそれ以外がサードプレイス。その地位は低く、永遠に逃げ込めるほどの強度も安定性もなかった。

でも今や、サードプレイスは下克上を起こせる。学校を休みながらYoutuberとして多くのフォロワー数を持ち、食えるだけの広告収入がある高校生A君がいたとした場合、彼のメインコミュニティは、もはや学校でも家庭でもなく、Youtube上にあることになるのだ。

そのような世の中では、逃げちゃ駄目だ、の精神はどれほどの意味をもつのだろうか。戦うことより逃げることがより効果的な選択肢になるなら、迷わず逃げればよいのではないか。

辛かったら現実でも転生できる(かもしれない)

主人公たちが異世界へと転生し、新しい人生を歩むように、現実世界でも転生が可能であると考えるのはどうだろうか。

会社がつらければ、転職を考えればいい。日本企業の古臭さが嫌なら、中国でもアメリカでも行って働けばいい。副業で一発逆転を狙ってもいいし、フリーランスを選んでもいい。結婚がうまくいかなければ離婚すればいいし、結婚が嫌ならしなくてもいい。あるいは事実婚ですませればいい。性別が違うと思うのであれば転換すればいい。

そうやって自分の価値で自由に生きる場所を選び、付き合うべき相手や仕事を自分で決める。そういう自由な社会がもうやってきている、かもしれない。

かもしれない、と断定せずに、ちょっと弱気な結論になってしまうのは、まだ世の中が、完璧に逃げられる社会にはなりきってないということだ。

社会制度は古く硬直していて、現実の自由さに全く追いついていない。僕たちは結婚や慣習や国籍や税金や社会保障費でがんじがらめだ。そして何より、僕たちが上手く逃げるための能力や、リスク管理に関する意識や、ノウハウをまだ持っていないことも問題になってくるだろう。

よく逃げるためには、実はしっかりとした準備が必要なのだ。言葉や職能といった各種スキルを磨き、資金を集めながら、雌伏の時を経て、新しい世界へと飛び込んでいく。それがないと、強くてニューゲームどころか、また何もアドバンテージの無い状態からのスタートになってしまう。これではいつまで経っても俺TUEEEにはなれない。

よく逃げるための準備をする時代

伝統は強く、因習は根深い。だからもしかしたら、変化はじれったいほど遅いかもしれない。だけれど、世の中は徐々に、「逃げるが勝ち」の時代に変わっていくだろう。失敗したら全てをチャラにしてやり直す。あるいは二重三重に人生を生きる。そんな時代がいつの間にかやってきたときに、しっかりと自由を謳歌し、泳げるだけの体力と知恵は、今からちゃんと身につけておきたいなと思う次第である。

※この話、コルク佐渡島さんの記事と内容思いっきりかぶってしまい、どうにもパクリ感もあるのですが、僕自身前から考えていたところでもあるので、誠に不躾ながらこの際便乗して公開させていただきます。

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