(小説)池畔のダーザイン⑦
あの時の直感的な決断があればこそ、今がある。そしてその決断は間違っていなかった。
わたしはコーヒーを飲みほした。風が吹き抜け、大山の頂きに灰白の雲がかかり始めた。そろそろ帰ろうか。自然の中で十分リラックスできた。その前に池の鴨を眺めよう。
池の畔に向けて歩き始めた時、わたしは何か違和感を感じた。辺りを見回すと、池から別荘地へつながる緩やかな坂道の途中に、女性が立っていた。鮮やかな黄緑色のロングスカートが目を引く。ツバの広い帽子をかぶっているのでよくわからないが、年配の女性のように見える。立ち姿にどこか心許ない印象がある。別荘地に住むお金持ちの奥様だろうか?
少し距離があるので軽く会釈だけして、わたしは池畔の道へ歩いていった。勢いよく雑草の伸びた遊歩道は、獣道に近い状態となりつつあり、歩きにくい。池の周辺や広場、別荘地内の道路の修繕管理は、専門の業者がやっているはずだが、何らかの事情で滞っているのかもしれない。
時折目の前に現れる蜘蛛の巣を手で払い除けながら、わたしは歩いた。できるだけ気配を消すように静かに歩いても、野生の鴨はとても敏感で、岸に近い茂みの中にいてもすぐに離れていってしまう。敏感というより臆病なのかもしれない。でもそれが身を守り、生き延びる最大の術だろう。池の真ん中辺りでのんびりと泳いだり、潜ったりしている様は、優雅にさえ見える。
鴨の写真を撮ろうとスマホを向けたわたしは、画面の左隅に黄緑色のシミを見つけた。改めて自分の目で見ると、やはりあの女性だった。池の対岸の道に立って、こちらを見ている。
何か目的を持って出かけているとか、ただ散歩をしているだけではないのか? 蛍光色の黄緑色が目立ちすぎるせいか、普通ではない不穏なものを感じてしまう。
女性は立ち止まったまま、立ち去る様子はない。野鳥の観察をしているかのようにわたしを凝視している。一体何なのだろう? 彼女は何をしているのだろう? 意図がわからない。ひょっとして尋常ならざる精神の持ち主なのだろうか?
蛍光黄緑色が、禍々しいものを象徴しているように思えてくる。お金持ちの奥様か何か知らないが、あの蛍光色は趣味が悪すぎる。何を着ようが自由とはいえ、彼女の服装は年齢や体型と全く合っていない。あんなスカートを引きずりながらよたよたと歩かれた日には、悪夢にうなされそうな気さえする。
まだまだ鴨を見ていたかったのに、一刻も早く彼女から遠去かるため、わたしは帰路を急いだ。リラックスした気分や満足感が儚い泡となり、無残に消えていく。
それから一週間もしない内に、四月半ば、「緊急事態宣言」が全国に拡大となった。それまでは大変なのは東京や関西、北海道だけで、こちらにはそれほど影響はないだろうと思っていたが、急激に緊張感や閉塞感が強まってきた。鳥取県の感染者はまだ三人なのだから、怖がらなくてもいい、むしろ他県に比べたら危険性は低い、と安心したい気持ちはあるが、一方で、感染者の多い関西からこっちに来られるのは困るというのが本音だったりする。
三日後には瀬戸内の町に帰るつもりだった。今回も、十日も大山にいられないのか。本当は二週間以上滞在したいと思いながら、すぱりと切り捨てられない関係性絡みの用事があるので、瀬戸内に帰らないといけない。この半年では、まだ瀬戸内の比重の方が大きい。そのうち少しずつ変えていきたいけれど……。
朝、起きる前から鳥の声が聞こえてくる。日中は雨が降っている時以外は、ずっと鳥の声が響いている。何種類もの鳥たちが、途切れることなくそれぞれの囀りを思う存分披露している。まるで偶然かつ必然でもある自然のシンフォニーを聴かせてもらっているような気分になる。
鶯の囀りは一週間前より随分上手になっているし、ホトトギスも負けていない。たまに聞こえてくるキツツキらしき硬質な打音に気付いた時には、本当に驚いた。一番元気がいいのはヒヨドリで、澄んだ甲高い声を響かせながら赤松林を飛び渡っている姿をよく見かける。
雀や燕、カラスももちろんいる。六階のエレベーターホールのガラス壁越しに、羽ばたく雀たちを上から見ることもできる。窓枠の外側数センチの部分をちょこちょこ歩いている雀は、愛らしい。
わたしは鳥にはそれほど詳しくない。一般的な鳥の鳴き声しかわからなくても、ここなら十分楽しめる。赤松林に面しているベランダに出ればもちろん、室内にいるだけでも、いつでもバードリスニングを満喫できる。詳しくなくてもそうなのだから、野鳥好きの人には絶好の場所だろう。わたしなんかが独り占めしているのが申し訳ない。
いつの間にか、ベランダに出て鳥の声を録音するようになった。もうかなりたまっている。いつか誰かに聞いてほしいと思っている。できれば野鳥に詳しい野鳥の会に入っている人に聞いてもらって、鳥の名前を教えてもらいたい。そういうアプリがあるのだろうが、それではつまらない。元同僚のおばちゃんたちには一ミリも近づいてほしくないが、野鳥の会の人は招待してもいいかもしれない。と考えている自分に驚く。
心当たりがないこともない。去年の春、瀬戸内の里山で行われたバードウォッチングに気まぐれで参加したことがある。その時説明してくれたご夫婦が、とても感じが良かったのだ。説明は的確かつ詳細で、何より鳥への愛に溢れていた。あのご夫婦とこのベランダでバードリスニングをしたら、どんなに楽しいだろうーー。そう想像しただけで、わくわくしてくる。
どうして彼らはここにいないのか? ここにいるのが相応しいのは、わたしではなく彼らの方だろう。
ベランダに立つ足元がぐらつき始める。ひび割れが目立つベランダの隅にカメムシがいる。ここに来るまで見たことがなかった。カメムシは死んだように動かない。薄灰色のコンクリートに緑色のシミがこびりついているように見える。
触ってはいけない。潰してはいけない。臭いから。と聞くけれど、わたしはその臭いを知らない。臭くても、その身体を覆う緑色には艶があり、むしろ瑞々しいくらいだ。化学染料で人工的に染めた色には、命の力を体現するような瑞々しさはない。そういう色を森の中に置けば、禍々しさが募るだけだろう。
(続く)