(小説)面倒くさい人②
目を足元に戻したら、木漏れ日の上でふつふつと記憶が揺れ始めた。
「主任って、いつもそういう話し方してるんですか? 面倒くさがられません?」
目の前にいる入社三年目の舌足らず女が何を言っているのか、言おうとしているのか、素子にはわからなかった。
「本人はそれが正しいと思ってて、良かれと思って言ってるんでしょうけど、違うんですよね。的外れっていうか、大外れ。言われた方は強制されてるような、馬鹿にされたような気がして、気分が悪いんだよね」
まだタメ口という言葉も聞かれなかった、二十年以上前の、いつもじめじめしていた窮屈な給湯室の映像が浮かび上がる。ろくに仕事もできず、さぼることしか考えていないような舌足らず女に嘲笑される方が、何倍も気分が悪くなる。
「一方的にいろいろ押し付けられると面倒くさいんですよ。しかもどうでもいいような細かいことばかり。周囲は、面倒くさく人だなあと思いますよ。言われませんか? あっそうか、言われたことがないから、気がつかないんですよね」
勝ち誇ったように憐れむように言い放つこの女は、いったい何様? 何者なのだろう?
何か言い返したいのに、何も言葉が出てこない。言われたことが、思った以上に深く鋭く自分の心を抉っているのがわかる。
濃いピンクのマニキュアをした彼女の指が、来客用湯呑みを弄ぶようにその藍色の唐草模様の上で蠢くのを、素子はただ呆然と眺めているだけだった。
今だったら真っ先にネイルアートに飛びつくタイプの女は、当時の素子の年齢をとっくに超え、生意気盛りの中学生の息子に「くそババア」と罵られているのだろうか? 舌足らず女の今など、素子は知ろうとも思わない。
登山道に揺れ動く木漏れ日の陰影が、やや薄くなった。後味の悪い過去の記憶から完全に覚めていない素子は、胃の奥に燻る黒い腹立ちをぶつけるように、爪先に触れた小石を蹴った。道は緩い上り坂なので、思ったほど石は跳ね上がらず、遠くへも飛ばない。
一定程度整備された登山道は基本的には歩きやすいけれど、しだいに上りの傾斜が強くなってきた。素子の体力にはまだ余力がある。今日は頂きにたどりつき、往復できるかもしれない。けれど無理をするつもりはない。頂上制覇にこだわらなくなってから、少しでも天候や体調、体力に不安を感じたら、登山の途中で引き返すのも躊躇しなくなった。
鳥の声や風が木々を揺らす音ではなく、前方から若い女の甲高い声が響いてきた。最初に見かけたお気軽ウェアの二人だろう。若いのに随分ゆっくりとしたペースで登っているのか? 山の中では自然由来の音しか聞きたくない。人の声や人工的な音は聞かされたくない。というのが素子の本音だが、時期により自然の中でも密になるほどの混雑もあり、残念ながらそれは望めない。
二人の女性は登山道の脇に立ち止まったまま、小休止しているようだった。道幅は狭いので、はっきり言って邪魔になる。マスクをつけ、「こんにちは」と声だけかけて通り過ぎるつもりだったが、彼女たちの会話が耳に入った。
「……さんが山でソロキャンプしたんだって」
「うっそー、信じらんない」
「やってみる気ある?」
「むりむり絶対無理ー」
「だよね。夜が耐えられないよね」
「彼氏とだったら考えてもいいかも」
勝手にやってくれと内心で吐き捨てながら、挨拶もすることなく素子は彼女たちの脇をすり抜けた。
自然の中とはいえ、マスクもつけずに大声で話すんじゃない。ああいう輩が無自覚に無神経に、無症状のままウイルスを撒き散らしているかもしれないのだから。
彼女たちの声がしだいに間遠となり、素子の背に届かなくなった頃、ふいに脳裏に思い浮かんだことがある。
あの子たちは美夏より若い。一回り以上年下だろうか? 自分の人生がこの先どう転がっていくかまだわからず、夢も希望も期待も膨らめば、不安や恐れや不運も待ち構えている。羨ましいような、気の毒なような気もする。若かろうが老いていようが、大抵の人の人生は願ったようには運ばない。所詮、それぞれがどう折り合いをつけていくかという忍耐と調整の日々の違いにすぎないのだろうか。
美夏という名は、元夫がつけた。初めての子の妊娠を告げた秋の日に交わした会話を、素子は今でも覚えている。古ぼけたアパートの日に焼けた畳の奥まで西日が差し込み、濃い金木犀の香りを纏った風が、開け放った掃き出し窓から吹き流れていた。予定日は八月と聞くと、夫の目が輝いた。
「子どもの名前はみかがいい。美しい夏と書いて美夏。真夏に生まれてくるんだからぴったりだよ」
「まだ女の子かどうかわからないわよ」
「子どもができたと聞いた瞬間に閃いたんだ。女の子に違いないって」
「あなたは夏が好きよね」
興奮を抑えられない様子で、夫は未来の我が子美夏の名前の素晴らしさを語り始める。こんなに目を輝かせて熱く語る夫を見たのは、それが最初で最後だった。
夏が好きな夫には言わなかったが、素子は子どもの頃から暑い夏が大嫌いだった。動けば動くほど汗びっしょりになるのが不快だし、蚊やゴキブリに悩まされるし、海水浴もプールも花火もかき氷も、それほど好きではない。長い夏休みは暑くて何もする気がせず、宿題の山とうんざりするほどの時間を持て余していた。
最初から正反対だったのだ。一事が万事か……。こんな二人が合うはずもないのに、どこで何を間違え、どう錯覚してしまったのか、自分でもよくわからない。
(続く)