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(小説)池畔のダーザイン④

「会社に休みをもらって、後先考えずに慌てて実家に帰ったのがよくなかったんですかね。何だか人間不信に陥りますよ。今までアパートにしては仲が良いと思っていたのは、何だったのかなあって……」
「お前は悪くないよ。悪いのは……」
 悪いのは、アパートの住人だ。と言おうとして、俺ははたと考え込んだ。
 本当にそうなのか? 悪いのはアパートの住人だと単純に言い切り、断罪できるようなことなのか? 
 確かに、何の根拠もないのに一方的に香坂を疑い、決めつけたアパートの住人は悪い。多分彼らは見えないウイルスへの不安や恐怖から逃れたくて、的外れに生じた疑惑をできるだけ早く確定し、解消し、安心したかったのだろう。
 その場合の確定の振り子は、大抵黒の方に振れる。根拠は必要ない。白より黒に振れる方が、むしろより安心感は増すのかもしれない。不安や恐怖は、容易に悪意や鬱屈やその爆発を引きずり寄せ、黒と確定したら最後、その対象を徹底的に排除しようとする。知性も理性も関係なく、それまでの人間関係の蓄積や信頼も踏みにじられる。
 ある日突然、香坂の身の上にそういう理不尽なことが起こったということなのか?
「腹が立つな。腹が立つけど、誰しも自分の身が一番大事で、人のことなんか考えてないっていうことか」
「似たようなことが日本全国、いや世界中で起こってるのかもしれませんね。鳥取県はまだ感染者が一桁だけど、これが増えてきたら、がらっと様子が変わるのかも?」
 香坂の顔が達観し、諦念の滲む老人にそれに変わったような気がした。
「恐ろしいことを言うなよ。人間は馬鹿だな。学ばない、反省しない愚か者なんだな」
「愚かというより、弱いんですよ。感染者を排除し差別するのも、ネットで誹謗中傷するのも、弱いからです」
「弱い犬ほどよく吠えるってやつか」
「犬猫より、スズメより、メダカより、人の手を切ることもある紙より、薄っぺらで弱くてペラペラなんですよ」
「メダカときたか。まあ、この話はこれぐらいにしておこう。それより、帰りに近くの産直市場に寄らないか? 土産のお礼に産直品をプレゼントするよ。野菜も果物も何でも美味いぞ。白ネギにブロッコリー、今の時期ならキウイもあるぞ」
 キウイの所で、香坂の目に微かに光が差したように見えた。そうだ、それでいい。キウイはビタミンCが豊富で、免疫力も上がるに違いない。身体の要求が満ちれば、自ずと心の安寧も保たれるだろう。
 つまみをすべて食べ尽くし、持参したビールも飲み尽くし、香坂の土産のスルメやサキイカの残りをポリ袋に入れていると、何かの気配を感じた。俺は周囲を見回した。
 飲み食べしている間は全く気付かなかったが、池畔の道沿いに咲いている桜の陰から女性がこちらを窺っていた。いつかの大阪の古狸に似た体型の老女で、紫のスパッツではなく、鮮やかの黄緑色の引きずるほどに長いスカートを身につけている。
 ふらっと散歩をしているような気軽さはなく、明らかにこちらを注視している不穏な気配を漂わせていた。気配を消すつもりは毛頭なく、むしろ視線の強さと、己の主張をこちらに届け置きたいというような狂気じみたものを感じる。
 俺の視線の先に気付いた香坂が言った。
「あれ、ひょっとして自粛警察じゃないですか?」
「何だ、それ? あんな婆さんが警察なわけないだろう」
「まあ、自粛警察もどきっていうか……。まだここは緊急事態宣言が出てるわけじゃないですけど、首都圏や関西で感染者が増えているこの時期に、感染を広げるような不用意な、不届きなことはするな、慎みなさい、自粛しなさいって言いたいんですよ」
「あんな婆さんに言われる筋合いはないよ。余計なお世話だ。それにここは森の中で、人も少ないし、ウイルスとは無縁と言っていい場所じゃないか」
「まだわからないことだらけだから、科学的な根拠なんてどうでもいいんですよ。自粛しろって言われてる時に、昼間っから外で楽しそうにビールを飲んでるのが気に入らないだけじゃないですか?」
 俺は猛烈に腹が立ってきた。
「自粛警察だか何だか知らないが、陰から陰湿な視線を送りつけるより、言いたいことがあるなら、面と向かって言えばいいじゃないか。向こうに正当性があるなら、いくらでも聞いてやるよ。まあ、そんなものあるもんか。それより気に入らないって言えば、あの蛍光色の黄緑スカートは何とかならんのか。悪夢のようなセンスだ。目が腐る! あんな醜悪な物を引きずって森の中を歩くんじゃない! 人に自粛を強いる前に、お前が色の自粛をしろ。どぶ鼠色のモンペがお似合いだよ」
「言い過ぎですよ。可哀想に、顔が引きつってるじゃないですか。あのおばあさん」
「そんなとこまで見えるもんか。どうせ耳が遠くて、聞こえやしないよ。それより、美味しい土産を買いに行こう」
 俺は本当に自粛警察もどき婆さんなんてどうでもいいし、ウイルスのことは、今はもうこれ以上考えたくなかった。
 閉店間際の産直市場で、俺は売れ残っていた六個入りのキウイを三パック買い、「食べきれませんよ」と言う香坂に、ニパック押しつけた。
「アパートの住人に配ればいいじゃないか。キウイを食べて、免疫力を上げて、ウイルスを撃退しましょう、とか何とか言って」
「それ、皮肉に聞こえませんか?」
  と苦笑を浮かべた香坂の顔は、いつもよりいい男に見えた。彼は外見より中身の方がさらにいい男なのに、なぜか女性に縁が薄く、いまだに独身だった。世の女性に本当の意味でいい男を見抜く目がないのか、もったいないことだと思う。でも俺は、「早く結婚しろ」とか、「一度は結婚した方がいい」とか、彼に言うつもりはない。
 香坂の車が遠ざかっていくのを見ながら、俺なら三日でキウイを完食する、とぼんやり考えていた。
 マンションに戻ると、マスクを外し、すぐに丁寧に手を洗い、うがいをした。こんな俺でも既に習慣化している。自粛、自粛と騒ぎ立てられなくても、これぐらいのことは今や誰でもしているだろう。
                             (続く)


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