(小説)池畔のダーザイン13
十月に入っても昼間はまだ気温が上がる日もあったが、家の中にいてもどこからか漂ってくる金木犀の甘やかな匂いを感じた瞬間から、秋の気配や佇まいが急に濃厚になっていくような気がする。
多栄子は周囲の住人たちのように熱心に庭いじりをしたり、ガーデニングに励んだりはしないが、庭に出て周囲の木々を眺めたり、野鳥の囀りに耳を傾けたりと、何をするでもなく、ただ庭で過ごすのは好きだった。
けれどその庭は、隣人たちには、特に庭造りに心血を注いでいるような人々からは、悪しき評判を集めていることだろう。夫はそれなりに庭に手を入れていたものの、夫が亡くなってからは、多栄子が庭の手入れをすることはない。
したがって庭は、今や木も草も無尽蔵に伸び放題となっている。この別荘地一帯が原生林に近い趣きを重視し、森の中に住んでいるような気分を味わえるとはいっても、多栄子の庭の状態はそれを大きく逸脱し、他にも少なくない別荘放棄地と変わらない荒れとすさみを、否応なく放っているかもしれない。
けれど多栄子は、そんなことは全く気にしていない。人にどう思われようが知ったことではない。伸び放題の木々が倒れて、家が壊れるようなことがなければそれでいい、と多栄子は思っている。
庭に出た多栄子が両腕を上げて大きく伸びをしていると、肩ぐらいまで伸びた草の間から人影が見えた。家の前の道に、老妻に逃げられたとの噂のある小倉さんが立っていた。くたびれ毛羽だった灰色のジャージ姿で、いつも以上にしょぼくれて見える。前方を凝視するその横顔には悲壮感が張りつき、必死さが滲んでいるように思える。
小倉さんの視線の先にはあの家がある。多栄子は何度か目撃しているので、彼の飽くなき目的を見通せる。二軒先のその家は、まるでイングリッシュガーデンかと見紛うような美しい庭に囲まれている。その家の老婦人は日々庭の手入れに余念がなく、四季折々に多種類の花が咲き誇る庭は、美しさが途切れることがない。
美しい庭同様、それを生み出し、維持する老婦人もまた美しさを保っている。白髪をふんわりとまとめた姿は上品で、どことなく女優の白川由美に似ている。
きっと老婦人は、多栄子の荒れ放題の庭を迷惑に思っているのだろう。雑草の種や害虫が飛んでくるとか、近くに荒れた庭があると自分の美しい庭の品位に関わるとか何とか……そんなこと、多栄子の知ったことではない。
何も害虫は虫だけとは限らない。あなたは自分の足元の害虫を追い払った方がいいんじゃないの、と多栄子は言ってやりたくなる。
小倉さんにつかまると面倒なので、見つからないように退散しようと身体の向きを変えると、周囲の雑草が擦れ合い音を立てた。小倉さんの目がぎろりとこちらを睨んだ。彼は普段はぼんやりして感覚は鈍磨しているように見えるのに、こういう時は妙に鋭いのだった。
「草取りをする気になったんかな?」
雑草越しに響く彼の声はのんびりしているが、皮肉が含まれている。雑草の中に隠れるわけにもいかず、多栄子は仕方なく応じる。
「そちらはいつものお散歩ですか?」
『いつもの』に込めた皮肉が、彼にどれだけ届いたのかはわからない。
「いつまでやるんかな。あの庭は……」
さっきまでその顔に滲んでいた悲壮感はやや薄れ、彼の視線はあの庭ではなく、さらに遠くを泳いでいる。
「本人に聞いてみればいいじゃありませんか」
「そんな失礼なことはできん」
失礼が聞いて呆れる。彼にとって、多栄子への数々の失礼は失礼ではなく、老婦人への失礼だけが大問題となるのだろう。
「庭のことをきっかけに、いろいろ他の話もできるかもしれませんよ」
「相手にされんよ。馬鹿にされて終わりじゃ」
「あの人は、そんな失礼な人とは思えませんけど……」
「人は見かけによらん。あんたはあの人と親しいんかな。」
「近所だから挨拶ぐらいはしますけど、親しくはないですね」
「そうじゃった。あんたはこの辺りの人間とは交わらん人じゃったな」
どれだけ失礼なことを言っているのかわかっているのか、この爺さんは! 多栄子が返す言葉を失い、話を続ける気力もなくしているのに気付く様子もなく、彼は脈絡なく話題を変える。
「今日は黄緑色のスカートをはかんのかな?」
もうこの爺さんの相手をしたくない。黙っている多栄子を無視して、彼は続けた。
「時々黄緑色のスカートをはいて、池の畔を歩きょーてじゃろう。あの色はよう目立つんじゃ。変人扱いする人もおるけど、わしゃあ、ええと思うで。あんた、かっこええわ」
まさか、彼に褒められるとは思わなかった。しかもあの蛍光黄緑色のロングスカートを。多栄子は意外で仕方なかったが、次の瞬間には、褒める裏には何かあるような気がしてくる。
「あれはとっておきのスカートだから、普段気軽に着るもんじゃないんですよ」
「ふーん、あんたの一張羅なんじゃな」
納得したのかどうか彼は再び遠い目をして老婦人の庭を眺めている。次に言おうとした言葉を多栄子は飲み込んだ。
あなたの一張羅を着て、老婦人に話しかけてみたらどうですか?
彼の老妻の所在もわからないのに、いい加減なことは言えない。大体、どうしてわたしが、ストーカーもどきの老いらくの恋のキューピッドをしなければならないのか。
「やることがあるのでそろそろ失礼しますね」
彼の反応を待たず、多栄子は家に引っこんだ。くたびれきったジャージ姿で、気の済むまで美しい庭を眺めていればいいではないか。それが最も小倉さんらしい。
(続く)