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(小説)池畔のダーザイン③

 この間と変わりばえのしないレンチンつまみと、ポテトチップスやピーナツといった乾き物をテーブルの上に並べた。香坂は持参したポリ袋から手土産を披露していく。のどぐろや鯵のてんぷらの盛り合わせと、大きなスルメとサキイカが出てきた。境港の魚市場で買ったのかもしれない。
「美味しそうだな。ご相伴に預かるよ」
「といっても、僕は飲めませんけど」
 香坂の前には、ノンアルコールビールが置かれている。
「今日中に車で帰るんだったな」
「泊めてやるから飲んでもいいぞ、とは言ってくれないんですね」
「言わない」
「まあ、いいですけどね」
 香坂の唇の両端が僅かに歪んだ。
「隣のホテルに泊まるという手もあるぞ」
「そんな無駄なお金は使いません」
 俺の姑息な提案は、即座に却下された。まあそれは当然だろう。
 引っ越して一年目は、息子が数回泊まりにきたが、最近はご無沙汰だ。二、三年会わないとそれが普通になり、顔を見ない期間が長くなっても、そのうち特段会いたいとも思わなくなる。幼い孫は、祖父の顔などもう忘れているかもしれない。
 念のため昨日ルンバに働いてもらったので、部屋は綺麗だとはいえ、香坂を泊める気にはならなかった。彼に限らず、誰も泊める気はない。息子でさえ、泊めてくれと言ってきたら、今は面倒だと感じる。娘は申し訳程度にたまに電話してくるだけで、気持ちは元妻の方にあるから、ここに寄りつくこともないだろう。
 あの部屋は名実共に俺の城、俺だけの空間になりつつある。誰にも邪魔されたくない。能天気な幸せの居城の手の内を明かせるわけがない。
 香坂はのどぐろのてんぷらを齧りながら、今日の釣り果について話していた。結構釣れたらしい。そのうちの何匹かは、俺の冷蔵庫に眠っている。俺は魚はさばけない。ネットで調べれば何とかできるかもしれないが、調べるのもさばくのも、そういう手間や労力が面倒で仕方ない。誰がさばくんだ? あの魚。香坂ならさばくのもお手のものだろうが、部屋に上げたくない。
「釣りはいつからやってるの?」
「まだ数年ですけど、山陰の海はやっぱりいいですね。瀬戸内海でちょこちょこ釣ってるだけじゃあ、満足できなくなります」
「わざわざ山陰の海まで車で来て、釣りして日帰りなんて、大変なんじゃないの?」
「楽しいですよ。これ以上の楽しみはないですね」
 俺が言う「池畔で昼間からビールを飲む幸せ」と同程度の軽々しさで彼が言ったので、反射的に俺は驚いた。俺に言わせれば、そんなことして疲れるだけじゃないかということになる。
「池畔だな」
 発語した意識もないまま、俺の口から言葉が漏れていた。
「チハン? 何ですか?」
「池の畔だよ」
「ああ、ここがってことですか? なんか響きが卑猥ですね」
「湖畔の方が響きはいいかもしれないが、残念ながらここは湖じゃないんでね。でも池もいいもんだよ。春には周囲にこれだけ桜も咲いてるし、鳥も来るし、池には鴨やら鯉やらいて飽きないから」
「鴨ですか?」
 香坂は遠くへ視線を飛ばすような不思議な表情を浮かべた。
「鴨は面白いよ。澄ました調子で水面を滑っていたかと思うと、突然素っ頓狂な声で鳴き出したり、水中に潜るし、水面を離発着するのも見ていて面白いよ。どの動きにも愛嬌があるのがいい。俺は、こましゃくれた小賢しい動物は嫌いなんだよ」
「へー、そうなんですか。何か意外ですね。全然知りませんでした。二十年ぐらい同じ会社で働いていたのに、わからないものですね」
「まあそんなもんだろう。親子でも夫婦でも長く一緒にいたからといって、すべてがわかるっていうもんでもないだろう」
 一缶目のノンアルコールビールを飲みほすと、香坂はふうーと大きく息を吐いた。
「僕、今住んでいるアパートで、コロナウイルスに感染して入院していたと疑われてたんですよ」
「どうしてそんなことになるんだ?」
 突然何を言い出すかと思ったら、想定外の内容に俺もどう反応していいかわからない。このことを話すために、彼は今日ここまで訪ねてきたのか?
「まあすべてがバッドタイミングだったというか……。三月下旬に母が入院することになって、父親の世話をするために二週間程実家に帰ってたんです。父には軽い認知症の症状があって、それ以前から家事をするタイプの人間じゃありませんから、一人じゃあ日常生活が成り立たないんです。介護サービスの手続きをして、ヘルパーに来てもらったり、食料品や弁当の宅配を頼んだりで、何とか日常生活を回すようにしました」
「そりゃあ大変だったなあ」
「何にも知らなくて初めて経験することばかりでしたけど、やってみれば何とかなるもんですね。母も短期間で退院できて、回復に向かってますし。で二週間振りにアパートに帰ってみると……」
 そこで香坂は言葉を切り、二缶目のノンアルコールビールを開けると、一口飲んだ。
「なんか違うんですよね。よそよそしいというか、駐車場や廊下で顔を合わせても挨拶が返ってこなかったり、露骨にこっちを避けるような素振りを見せる人までいて。いったい何なんだと思いましたよ。住人同士はそれなりに仲が良くて、全員じゃないけど、釣ってきた魚を刺身にして持っていくと喜んでくれてたのに……。訳がわかりませんでした。ある時、一番仲の良い隣の部屋の男性が、実は……と教えてくれて、初めてわかったんです」
「何を根拠に、誰がそんなことを言い出すんだ?」
 香坂は枝豆の皮を吐き出した。吐き出されたのは皮ではなく、怒りと熱を帯びた呼気のような気がした。
「三月下旬に、こっちの市で初めて感染者が出て以降、何人目かの四十代男性会社員が、僕じゃないかと疑っていたみたいです」
「何なんだそれ。四十代男性会社員なんて、腐るほどいるだろうが。何を根拠にそんなことを言うんだ?」
「あきれますよね。でもこれが現実なんですよ。駐車場に二週間ずっと車が停まってなかったから、もしかして…‥そうかもしれない……かなり疑わしい、と疑惑が大きくなったらしいです。二週間というのもバッドタイミングで、疑惑を裏付ける結果になったのかもしれません」
「疑惑、疑惑って。下手なB級映画じゃあるまいし。そんなもの何の根拠にもなるもんか。そもそも入院するんだったら、車はアパートに置いていくんじゃないのか」
「僕は、信用されていなかったんですかね」
 語尾が風に流されるように寂しげに震えた。
                                                                                                      (続く)


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