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(小説)がらんどうのあなた①

 わたしはそんなに騙されやすいのだろうか。自分ではよくわからない。そう思わないこともある。
 あの時こうだったじゃない。あんなことしたじゃない。痛い目にあったじゃない。覚えてないの? 手ひどく騙されて、身ぐるみ剥がされて、身も心もぼろぼろになったでしょうに、あんな目にあって覚えてないなんてことあり得ないでしょう。まだ懲りないの? と目の前で激しく唾を飛ばしながら言い募った友人もいたけれど、わたしの中でははっきりしないまま、曖昧模糊としたまま、薄ぼんやりと蹲っているだけの記憶だから、何とも言いようがないというのが正直な気持ちだった。
 いつもぼんやりしているからつけこまれるんだよ、と母は見透かしたようによく言ったものだ。
 子どもの頃からふと見やるとぼーっとした顔をしていることが多くて、何を考えているんだかわからない子どもだったよ。それが間抜けのような、人の良さそうな顔に見えることもあれば、得体の知れない空恐ろしい表情に見えることもあって、我が子ながら不思議だったよ。
 仮にも母親なのに、自分の娘のことをよくそんなふうに言えるものだ。いや、あの母親だからこそ言えるのだろう。どれだけ娘を罵倒しようが、何の痛みも後ろめたさも感じていない。娘を罵倒するとき、母親の歪んだ唇の端には薄笑いが浮かぶ。
 母には弟がいればそれでいいのだろう。母は弟ばかり可愛がった。それは容赦ないほどあからさまな態度だった。子どもだからこそ、わかりすぎるぐらいわかる。
 自分の勘違いかもしれない。本当はわたしのことを愛しているけれど、気恥ずかしくてそう見せないだけだ。弟は小さくて手がかかるし、家事に追われて忙しいから、お姉ちゃんのわたしにはかまってくれないだけだ。そういう願望を抱く余地を一切許さないきっぱりとした態度で、母は弟ばかりを可愛がった。
 いつしか大きくて重い諦めが、わたしの全身を覆い尽くした。
 弟は母の愛情の偏りを負担に思うでもなく、姉に後ろめたさを感じるでもなく、受け取れるものは受け取れるだけ受け取り、大人になった。それでも母の性格がそのまま遺伝したというわけではないのだろう。ことさら姉に意地悪をしたり、無視したり、喧嘩ばかりするということもなかったから。
 どこにでもいる凡庸な社会人に成長した弟のことを、わたしは好きでも嫌いでもない。同じ親から後に生まれた男の子だから、弟だと思うだけだ。感覚的には、友人や知人との繋がりより薄いかもしれない。母のような悪意や理不尽さがないだけましといったところだ。家族が一番大事と当然のように言われても、ぴんとこない。家族がどういうものなのか、わたしにはわからない。

「いつまでぶらぶらしているつもりだい」
 何度も母に嫌みを言われるのにも慣れたけれど、さすがに何とかしなければと自分でも思い始めていた。
 父が亡くなった後、この家の専制君主と化した母の世話になりたくないし、実家にもいたくないのに、仕事も貯金も経済力もないわたしは、嫌いなものに頼らざるを得ない。
 勉強は嫌い、スポーツは苦手、不器用で覚えが悪く、人間関係では躓くことばかり。高校は何とか卒業したものの、就職した先ではトラブル続きで、一つの仕事が長続きしたことがない。仕事を変える度に働く条件も給料も悪くなるばかりで、先が見えない。
 先が見えないまま、気づけば四十を過ぎ、結婚もしておらず、無職の状態がもう数ヵ月続いている。焦らないわけがない。先が見えず、不安は大きいけれど、こんななけなしの自分の力でどうにかできるとも思えない。諦めというより、気力が湧いてこない。
 こんなことは母には言えない。情けない、能無し、穀潰しとさんざん罵倒されたあげく、家を追い出されるかもしれない。それは避けたい。今は困る。仕事を見つけて働いて、ある程度の貯金ができれば、こんな家はすぐに出ていきたい。その見通しさえつかないから、困っている。
 世間は花見だ何だと浮かれているけれど、わたしはそれどころではない。人々が愛でる美しい桜を、濁った目で虚ろに眺めているだけだ。
 そんな鬱々としたある日、昔の知り合いから突然電話があった。短期間一緒に仕事をしただけの間柄で、それほど親しくはない。もう十年近く連絡を取り合っていないというのに、どういう風の吹き回しだろう。
「お久しぶり。今はどうしてるの?」
 忘れた頃に突然電話してきて、随分馴れ馴れしい口振りだなと思った。返す言葉を考えてみても、なかなか浮かんでこない。
「ひょっとして休職中だったりする?」
 と見透かしたように語尾を上げながら言い、さらに畳みかけてくる。
「だったら仕事してみる気ない? ちょっとしたアルバイトのつもりで」
「アルバイトですか?」
 感情の伴わない声しか出せなかったが、相手は勝手にその気ありと受け取ったらしい。
「知り合いからの紹介なんだけど、楽な仕事よ。ちょっと風変わりだけどね」
「風変わり?」
「ただ話を聞いていればいいんだって。批判したり意見を言ったりせずに、ひたすら話を聞くんだって。話を聞いてるだけでお金をもらえるなんて、楽でいい仕事じゃない」
「そんな仕事、あるわけないですよ」
 いくら愚かで世間知らずな人間でも、それぐらいわかる。
「それがあるのよ。信じられないかもしれないけど」
「そんなに楽でいい仕事なら、山本さんがやればいいじゃないですか」
「あたしは駄目よ。堪え性がないから。いくらお金をもらっても、そんな退屈な仕事、五分ももたないわ」
「わたしだって嫌ですよ」
「そんなこと言わないで、話を聞くだけ聞いてみて。一回やって嫌だったら辞めればいんだから」
「そんなことできるんですか? いいかげんな仕事なんですね」
 少し間があったので、諦めたのかと思いきや、彼女は意外なことを言い出した。
「ただねえ、決めるのは先方なのよ。先方とウマが合うというか、先方のOKが出ないと駄目なんだけどね」
「面接試験か何かあるんですか?」
「きっと、あなたなら大丈夫だと思うわ」
 どこからそんな確信が湧いてくるのかと呆れ、無視してだんまりを決めこんでも、彼女は諦めようとしない。わたしは了解したわけでもないのに、いつの間にか面接を受けることになっていた。詳細は後で連絡するからと捨て台詞のように言うと、彼女は電話を切った。
 後味が悪い。彼女の意図がわからない。まるで騙し打ちのようにして人を自分のペースに引きこんでしまうのが、彼女のやり口だった、と今頃思い出しても遅い。
 時間が経つほどに腹が立ってくるけれど、きっと彼女の言いなりになるのだろう自分の未来の姿が浮かんできて、わたしは半ば諦めのため息をついた。
                             (続く)
                 




             
                            


       

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