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(小説)がらんどうのあなた③

 彼女はわたしの目を見ているようで見ていない。虚空を見つめ、わたしの顔を眺め、また虚ろに壁の上に視線を泳がせる。そして再び話し始める。
「もう宣言してるのよ。自分の中ではね。家族や周囲に言っていないだけ。家族にはなかなか言えないわね。どうしてかしら? あなたのような無関係の第三者にはこうして話せるのに……」
 そういうものかもしれませんね。不意に浮かんだその言葉をわたしは飲みこんだ。そんなことは言えない。そんな無責任なことを言われたら、彼女がどんな反応をするか、想像するのも恐ろしくなる。余命半年と宣告されている彼女のことを、わたしはまだ何も知らないのに等しいのだから。
「家族には家族の思いがあって、死生観も違う。それは尊重しないといけないけれど、私は自分の思いを諦めたくない。うーん……家族のことは、もう少し考える時間が必要ね」
 彼女はカップに口をつけたまま、窓の向こうではなく、正面に座るわたしの背後の壁に視線を彷徨わせていた。わたしは窓の下に広がる川や遊歩道や緑を見たい欲求に駆られたけれど、腰を浮かせるか、立ち上がるかしないと外の景色は見えないので諦めた。
 何か思いついたという様子で、彼女は再び口を開いた。
「そもそもの所から話した方がいいわよね。私がどうしてこんなことをしようと思ったのか。人間の心理に興味があって、心理学やカウンセリングの勉強をしていたことがあるの。約十年あるグループで傾聴の勉強をしたけれど、今思うとカウンセリングの真似事にすぎなかったような気がするわ。
 十年やって、自分の心に寄り添って聴いてもらえたと思ったことが一度もないの。傾聴の勉強をしていたはずなのに、自分の話を傾聴の姿勢で聴いてもらったと実感したことがないのよ。話してよかったという満足感は全くないどころか、不満や不信、嫌な気持ちばかりが積み重なっていったの。
 そんな所にどうして十年もいたのかって思うでしょ? 自分でもよく続いたなと思うけど……。嫌なのに、断ち切る踏ん切りがつかなかったり、勇気がなかったりで、ずるずる引き延ばしてしまうことってあるじゃない?
 でもさすがに嫌気がさして、三年前にそのグループは辞めたの。辞めたら物足りなくなるかと思ったけど、そんなことはなかった。自分でも怖いぐらいきれいさっぱり切り捨てることができた。そんなものなのね。
 そして何にも縛られない、気持ちの面での自由を満喫してたんだけど、去年、余命宣告を受けたってわけ。それはさすがに、人生こんなものなのねとは言えないけどね」
 彼女は自嘲気味にふっと笑いを漏らした。わたしは彼女の顔から視線を外し、カップが置かれたテーブルの木目調の模様を見ている。
「余命宣告されたら、家族には話せないけど、無性に誰かに話を聴いてもらいたくなったの。不思議なものでしょ? もちろん先入観だらけの手垢のついたグループのメンバーなんて絶対嫌だから、全く関係ない赤の他人がいいと思ったのよ。私のことを何も知らない、何一つ予備知識もない、だから偏見もない、真っ白なというよりがらんどうの第三者の方が、私の本当の声が伝わるんじゃないかって。そういう人に聴いてほしいって。だから、あなたがよかったの。少なくとも安心して話せるから」
 嫌だけど、断ち切る勇気がなくてずるずる引き延ばしてしまう。がらんどうのあなたがいいーー彼女の言葉の余韻が、奇妙な生き物のようにこの部屋のどこかにぬるぬるとした気配を漂わせている。それは彼女が今放ったものではなく、これまでも、いつでもそこにいるかのように当たり前の顔をして佇んでいる。急に寒気を感じ、わたしは身を震わせた。
「コーヒー、冷めちゃったわね。お代わり入れましょうか。紅茶の方がいいかしら?」
 即座に返事ができず、曖昧な表情を浮かべるだけのわたしを彼女は静かに見ていた。わたしの顔は、おそらく強張っていただろう。
 しばらくして、痺れを切らしたというのではなく、何気ない調子で彼女は言った。
「紅茶にするわね。頂き物の美味しいクッキーがあるの」
 彼女がキッチンで紅茶を入れている間、わたしはただ音を聞いていた。お湯の沸く音、ポットにお湯を注ぐ音、やがてかすかに紅茶の香りが漂ってくる。音も香りも、まるで消えいりそうな雨音を聞いているように、自然現象を眺めているだけのような遠い感覚の中にあり、わたしは何も考えていなかった。わたしの頭は空っぽだった。
 気づくと、紅茶のカップの横に白い封筒が置かれていた。数枚のクッキーが入った透明の小袋が添えられている。
 わたしには紅茶を飲んだ記憶も、クッキーを食べた記憶もなかったが、彼女の唇が「どうぞ」と動くのを即興の読唇術のごとくに飲みこみ、白い封筒に手を伸ばした。思いの外素早く動く自分の右手を、他人の手のように見ていた。手の動きは素早いのに、封筒の白さが妙に際立ち、膨張し、白がバックの中に収まるまでの間は異様に長く感じるのが、不思議だった。
 彼女の部屋を出るまで、わたしは封筒の中身を確かめなかった。薄暗い外廊下の途中で足を止め、封筒の中を見た。五千円札が一枚入っていた。高いのか、安いのか、割りのいいバイトといえるのかどうか、わたしにはよくわからない。話を聞くだけで五千円もらえたんだからいいじゃない、と山本さんのねちっこい声が耳の奥の方で響いたような気がした。
 帰り道、遊歩道を歩いていると、さりげない佇まいのフランス料理店が目に入った。あそこでコース料理を食べよう、と唐突に思いついた。ワインも飲もう。今までそんな贅沢をする余裕もなく、一人でそういう店に入ったこともないのに。
 でも、なぜか今日は平気だった。何でもできそうな、何をしても許されるような気さえした。店のガラス越しにオレンジ色のキャンドルの明かりが揺れるのを眺めていると、そこにいる自分の姿がするりと浮かび上がった。
 赤ワインのグラスを傾ける唇には笑みが滲んでいるけれど、その目は何も見ていない。見えていない。ガラスに映る痛々しいほどのがらんどうの目が、わたしには見えた。
 そのがらんどうの奥で囁くものがいる。一週間後、彼女が生きている保証はないーーと。最初で最後のアルバイトの報酬は、最初で最後の優雅な晩餐と化す……のかもしれない。
 わたしの両足は、アスファルトに貼り付けられたかのように動かない。振り向けば彼女のマンションが見えるだろうが、今それはできない。
                             (了)

 小説に頭の中を占領される日々がもうすぐ四ヵ月。既に息切れ状態ですが、自分が決めた夏休み(八月)まで、あともう一踏ん張りします。次回作は、「がらんどうのあなた」から繋がっていく物語にしたいと思っています。
                                                みちくさ創人

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