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(小説)池畔のダーザイン⑤

 冷蔵庫を開けると、中段に魚たちが鎮座している。忘れていた締切を思い出した時のように、俺は一瞬ぞくりとした。
 数日後、腐りかけた魚を池に投げ入れる自分の姿が浮かんだ。散りかけた桜の陰から、蛍光黄緑スカートの婆さんがそれを見ている。あの婆さんはその瞬間を見逃しはしない。腐る前の、まだ幾分新鮮さを残した魚を捨てるのであれば、婆さんはほくそ笑む程度で見逃してくれるだろうか?
 昼間っからビールを飲んでいるのを見られるのは平気の平左でも、善意の魚をドブならぬ池に捨てるのを見られるのは、怖いと思った。どうして恐怖を感じるのかわからない。
 俺は魚を見なかったものとして、ビロードの闇の向こうへ押し込めるように冷蔵庫の扉を閉めた。

 朝日を浴びる大山は逆光の中に沈んでいるが、駐車場から眺める姿は、四階の外廊下から見るより雄大さが増す。廊下から見るより見上げる角度が大きくなる分、自分がちっぽけで頼りない存在になったような錯覚に陥る。
    燃えるゴミの日の朝、俺は駐車場の隅にあるゴミ置き場に、ゴミ袋を一つ置いた。香坂すまんと心の中で謝り、気持ちだけもらっておく、と都合のいい呪文を付け加えた。
 意図したわけではないが、住人には誰にも会わなかった。リゾート目的の所有者が多く、定住者は三割ぐらいか。土日や夏、冬のシーズン以外は、人は少ない。何人かの通勤、通学者も、七時過ぎには車で出かけていく。高校生の娘を車で送っていく母親に初めて気付いた時には、ご苦労なこったと驚いた。どこの学校なのか知らないが、こんな山の中から毎日通うのは、さぞかし大変だろう。
 八時前には管理人が出勤してくるから、そろそろ部屋へ戻ろう。エレベーターに乗ろうとして、その横にある住人用のポストに目がいった。俺の部屋番号のポストの口から、白い紙がのぞいている。
 俺は白い紙を引っ張り出した。
 不要不急の外出を控え、自粛して下さい。
 手書きの整った文字で、そう書いてあった。反射的に俺は周囲を見回した。誰もいない。朝出かけるべき人は出かけ、ゴミ捨ての間も誰にも会わず、管理人もまだ出勤していない。
 誰が、いつ、こんな物を、俺のポストに入れたのか? 今朝なのか、昨日からあったのか? どうして俺なのか? 俺を狙い撃ちしているのか? それとも、すべてのポストに無造作に投げ入れたのか?
 玄関のガラス扉越しに、管理人がこちらに歩いてくるのが見えた。俺は逃げるようにエレベーターのボタンを押し、のろのろとしか動かない扉が開くやいなや飛び乗った。
 部屋に戻ると、角張った手書きの文字をしばらく眺めた後、くしゃっと握り潰してゴミ箱に捨てた。ウイルスではなく、取り返しのつかない見えない染みを消そうとするかのように、俺は必要以上に石鹸を泡立て、両手に擦りつけた。
 午前中は新聞を読んだり、ラジオを聴いたり、テレビを見たりしたが、どうにも集中できない。心が泡立ったように常に落ち着かず、何をしていてもそれとは無関係なことが頭に浮かぶ。
 産直市場に野菜でも買いに行くか、大山寺まで短いドライブに出かけるか、池畔を散歩するか、自分に問いかけてみるものの、そんな気にならない。本もCDもDVDも触る気になれない。
 かといって身体を動かすのは、もっと億劫だった。今日は洗濯物もないし、風呂掃除もトイレ掃除も昨日やった。天気はいいが、布団を干すほどの気力はない。心も身体も空っぽになったかのように、何もする気がしないのだった。
 こういう時は胃袋を満足させた方がいいだろうと、昼は冷凍室にある牛丼を湯煎して食べた。インスタントの卵スープも飲んだせいか、胃が膨れ、むしろもたれて不快になった。半ば不貞腐れ気味に昼寝でもするしかないか、とベットに寝転がっても、これがなかなか眠くならない。
 それでもいつの間にか眠っていたようで、目が覚めると三時を過ぎていた。喉が渇いたので麦茶を飲み、そのグラスを持ったまま、東側の和室の窓から駐車場と大山を眺めた。残念ながら窓の上枠が大山の頂上をすぱっと切り取り、中腹の一部しか見えないのだが。それでも俺はぼーっとする頭を持てあましながら、ぼんやりと眺めていた。
 何かが駐車場を過っていった。女と白い犬。いつもの散歩か? もうそんな時間なのか? まだ四時になっていないだろう。俺が時計の時間を見間違えたのか?
 俺は時間の確認もせず、弾かれたように鍵だけを持って部屋を飛び出た。携帯さえ持たずに。エントランスに降りていくエレベーターの中でさえ、自分が何をしようとしているのかわかっていなかった。
 目標の匂いを見失うまいとする犬のように、俺は駐車場を抜け、別荘地への坂を駆け上がっていった。俺の体力では息切れするはずの傾斜なのに、不思議と苦しくない。
 女と白い犬の姿はない。匂いと気配も一切ない。幻か白昼夢のようなものだったのか? 俺が寝ぼけていただけというお間抜けな結末なのか?
 俺は頭を何度か左右に振ってみるが、頭の中を漂う白濁した靄が晴れることはない。その時初めて降雨を意識したかのように、頭上から鳥の声が降ってきた。何種類もの鳥の声が大音量で赤松林を震わせている。鶯やヒヨドリの声はわかるが、それ以外は混ざり合い、重なり合うと、得体の知れない恐ろしいほどの音量となって、全身に降り注ぐ。
 立ち止まっていたのか、歩き続けていたのか定かでないまま、気付くと目の前に、ヨーロッパのおとぎの国の家のような別荘があった。俺の貧弱なイメージでは、白雪姫に出てくる森の家が浮かんでいた。
                         (第二部へ続く)

                

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