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(小説)面倒くさい人③
夏生まれなのに、美夏は夏が好きではなく、自分の名前も気に入っていない。未来の美夏にあれほど目を輝かせた夫は、子育てには非協力的で仕事に逃げ、美夏もあまり懐かなかった。
逃げたはずの仕事もうまくいかず、犯罪紛いの行為に手を染めるようになった夫を、素子は責める気にも弁護する気にもなれなかった。自分を追い込み、自滅していく夫を憐れむ気さえ起きなかった。
ただ間違えたのだと思った。結婚するべき相手の選択をーー。そう感じる自分は、心の芯が冷たい人間なのかもしれない。
二十年足らずの結婚生活で、夫にも何度か言われた。面倒くさい人間だと。そう言われた時の嫌悪感は、舌足らず女の比ではない。
犯罪者もどきの人間に貶められる謂れはない。長年降り積もっていくばかりの夫への怒り、憤り、恨み、憎しみ、蔑みがごった煮となって炙り炙られ、頂点に達し、膨らみきった風船が破れるように何か決定的なものが弾けて、その後は夫に対して無感動、無感覚となり、心が動かなくなっていった。
上りの傾斜がきつくなっていく分、歩くスピードは落ちていくはずなのに、薄れ忘れたつもりの夫への憎しみの記憶はしつこく燻り纏わりつき、それを振り払うかのように素子の足はどんどん速くなっていく。
このまま続けられるわけがない。素子の体力はもたないと直感的にわかるのに、まるで別人の意思が宿ったかのように足は止まらない。
どうすればいい? 立ち止まればいいだけなのに、なぜかそれができない。心臓の鼓動が速くなり、息苦しい。両腿の筋肉が鉛と化したように重い。顔や上半身に不自然に汗が吹き出してくる。少し前から勢いを増した木々を揺らす風も、冷たいと身構える感覚の予想を裏切り、生暖かい。自分の身体が危険な領域に踏み入れようとしているのを感じる。
誰か助けて! と叫びたいのに、声が出ない。美夏の冗談メールの文面が脳裏を過った。
美夏、迷惑をかけることになったら、ごめんねーー。
その瞬間、キーキーと上空を切り裂くようにけたたましい鳥の声が響き渡った。
驚いた素子は反射的に立ち止まった。両膝に両手を置いた状態で荒い息を吐き続けながら、助かった、鳥に助けられた、と素子は思った。ヒヨドリだろうか? 名を知らない鳥は、下方で蠢く人間に常ならぬ霊気のような異変を感じ、本能的に反応したのだろうか。
素子は顔の汗を拭い、呼吸が落ち着くのを待った。急激に喉の渇きが押し寄せ、リュックから水筒を出してお茶を飲んだ。持参したチョコレートを立て続けに三粒食べ、またお茶を飲んだ。
ようやく身体が落ち着いてきたところで、引き返した方がいいかとも思ったけれど、素子はそうしなかった。素子にはある予感があった。今日はそれが訪れるかもしれない。
素子は前だけを見つめ、再び歩き出した。空を隠すかのように周囲の木々の茂みが濃く分厚くなっていくので、登山道は薄暗く心許ない。上る人にも下る人にも出くわさない。麓の駐車場にあれだけ車が停まっていたのに、人はどこへ消えたのか? 早朝から登り始めた人々はとっくに頂上に到達し、今頃は熱いコーヒーを片手に美しい眺望に酔いしれているのだろうか?
それは何でもない顔をして、いつの間にかすぐそこにするりと現れる。歩くことへの集中を怠ると、他のことを考えていたり、過去の良くない記憶に引きずられる時間が増え、容易に足元を掬われかねない。これまでも素子が陥りやすい失敗や危険は、ぽっかりと大きな見えない口を開けてすぐ側で待ち構えていた。それはこれからも変わらないだろう。
気付くと、通せんぼをするかのように細い幹の木々が林立する中、道が二手に分かれている。表示や目印もない。地形図を持ってはいても、それを正しく読む自信が素子にはない。
どちらも正しい道のように見えるし、誤った方を選べば、道に迷って自力では抜け出せなくなる恐怖も感じる。
どっちなんだ? 素子は目を閉じ、何かに縋るようにどこかから声が聞こえてくるのを待った。踏み跡が残る上りの道か、踏み跡のない細く下っていく道か。
固く目を閉じても、いっこうに声は聞こえてこない。見放された、見捨てられたような気分になる。
こっちにおいでーー。
目を閉じた素子の脳裏に、手招きをする複数の人物が浮かび上がる。見覚えがある。一般人ではない。誰もが知っている有名人だ。若い男が一人に、彼より年上の女が二人。三人とも美しい顔立ちをしている。
えっ、まさか。目を閉じたまま素子は叫んだ。彼らが、その年の夏以降に相次いで自殺した俳優たちだということは、芸能界に疎い素子でも知っている。順風満帆といえるキャリアを重ねていたトップ女優や、将来を嘱望される若手俳優の自死は、その理由や原因が見当たらず、世間の傍観者たちを茫漠とした不安の中に落としめた。誰もが推測したに違いない。世界中に恐怖の種を撒き散らしているあのウイルスのせいだとーー。
素子はその場で足踏みをする。両腿を交互に上げ下げできるのに、今度はなぜか閉じた瞼を開けられない。どうなっているんだ?
閉じられた瞼の裏に、さっきまで現実に見ていた分岐点の映像が浮かぶ。輪郭が仄青く滲んでいた三人の姿は、もうない。足元には黒みの強い土が緩く盛り上がり、長い間に踏み固められた道らしきものが左右に分かれている。違いは新しい踏み跡があるかないかと、左の盛り上がった土の方に枯枝や枯葉が多いということぐらい。
山の中ならどこにでもあるありふれた光景にすぎないのに、素子の瞼には奇妙で不穏で不可解なものとして映っている。
頂上も分岐点も不穏な感じもあの予感も、全てを振り切り振り捨て、今すぐに引き返せばいい。それが最も賢明な最善の選択だとわかっている。今すぐ下山して、麓のホテルのカフェで美味しいコーヒーを飲めばいい。何ならおすすめのパンケーキをつけたっていい。
けれど神出鬼没のあの予感が、向こうから訪れたというのなら、向き合わないわけにはいかない。悲しいかな、素子はそういう性分なのだ。
理由や原因が見当たらなくても、人にはある瞬間、その境をひょんと越えてみたくなる時がある。手招きをする人がいなくても、甘い蜜で誘われなくても、苦く重く苦しい記憶の堆積物に強いられなくても、ひょんとは軽く無自覚で痛みもない。だから実際にひょんと実行する。そういう人がいても不思議ではない。
素子はそっと瞼を上げてみた。思ったよりすんなりと視界が戻り、瞼の裏で見ていたのと同じ光景が目の前に広がった。
どこかから答えてくれる声もなく、自分の選択が見えているわけでもない。それでも素子は背を向けるのではなく、一歩を踏み出した。
細く下っていく道に自分で新たな踏み跡をつける。燻っていた気持ちがすっと晴れ、吸い込んだ空気が喉の奥をひりりと震わせる。ヒヨドリはもう鳴かない。木々の間から息を潜めて素子の背を見つめる気配だけが揺れ惑う。
(了)
②から少し間があきましたが、何とか完結させることができました。
次は、今までとはまた違ったタイプのものを書いてみたいと思いますが、どうなるでしょうか……?
みちくさ創人