芸大生没落日記(3)
2023年5月。私は立派にフリーターとなってバイトと練習室を行き来する日々を送っていた。
大学院に進学する以外に選択肢はなかったので、とりあえず院試で使えそうな曲を探しつつ、好きでもない宗教曲や歌曲を適当に練習した。
この頃の私には歌うということに何の情熱もなく、好きな曲もなく、歌いたい歌もなく、ただ音楽は辞められないという我執だけで日課をこなしていた。親友はもうすぐドイツに行ってしまうし、仲が良かった先輩はオーディションで急にすごい舞台の主役を取ってしまった。
惨めで情けなくて、頭がおかしくなりそうだった。
院試は早くても9月だし、それまでに何か受けられるコンクールやオーディションはないだろうか。
「声楽 オーディション 2023」「ソプラノ オーディション 2023」「声楽 ソプラノ 2023」
適当な単語を並べてGoogleに尋ねまくった。私をどうにかしてくれないか?
期待なんてしていなかったけれど、そうすることで自分が未来のために何か働きかけているような気になれた。前に進んでいるという錯覚は、学校を出て勉強を続ける間の精神安定剤だった。
不真面目でだらしがない私にも蜘蛛の糸というのは降りてきた。
むしろ蜘蛛の糸は不真面目でだらしがない人間にだけ降りてくるものではあるのか。
Googleが提示してくれたのは、東京にあるオペラアカデミーの募集要項だった。
2年に一度しかないオーディションが、今年の7月に行われるというのだ。
試験に必要なのは自由曲3曲だけ。受験費無料。合格すれば授業料も無料。
調べれば調べるほど魅力的な場所だった。
オーディションに落ちたら落ちたで別に大学院を受ければいいだけなのだから、一度チャレンジしてみよう。
すぐに学部の頃から師事していた先生に連絡した。
返事はこうだった。
「自分の勉強量、意欲、成績。冷静に考えて。周りを巻き込んでやる価値があるの?今の状況で受かるとは思いません。場所が変われば評価が変わると願う気持ちはわかりますが。もし受かったとしてもどうせすぐクビになって終わりだと思います。」
もし受かったとしてもどうせ、というフレーズは、大学院受験の時も、その後も、レッスンの度に聞かされた。何度も何度も刷り込むように。
あなたは二流なの。主役なんて一生張れないんじゃない?
一個下のあの子の方があなたよりよっぽど真っ当に歌ってるけど。
友達だから、先輩後輩だから今はあなたに優しくしてくれるかも知れないけれどね、ここにいる誰もあなたと仕事をしたいとは思ってないわよ。歌に向いていないのかもね、就職活動したら?
あなたはどこの大学院を受けたって受け入れられることはない。
声だけは良いのにね。残念だわ。
大学に入った時から自信がなかった私は、先生が仰る言葉は全て「本当にそう」だと思っていたし、そんな私を見放すことなく週に3回も4回もレッスンをしてくれてめちゃくちゃありがたいな、申し訳ないな、と思っていた。
また、この人に見放されたら終わりだと思っていたので、先生の言うことに反抗したことはなく、先生を怒らせないように思考を巡らせ続け、呼び出されればいつでも先生の元に飛んで行っていた。割とよく頑張ったと思う。
それでも、もう完全に限界になってしまったので、早くどこかに行って逃げてしまいたいという気持ちが勝ち、人生で初めて泣きまくりながら先生に反抗してオーディションを受けることにした。
今思い返せば、すごく熱心に指導していただいたなとは思う。補講もたくさん組んでくださって、入学時よりずっと声が出るようになったと思うし、演奏以外の振る舞いや礼儀についても教わったし、学校の試験以外での演奏の機会を与えてもらってとてもよくしてもらったと思う。
でも、そういうことをそう感じられないくらいに、私は疲れていた。
どんなに頑張っても結果が出なくて、いつもいつも怒鳴られて、努力を認めてくれたことなんてなくて、否定ばかりされて、それがありがたいわけないだろうが。ふざけるな。
オーディションまでの間、その先生がお忙しそうだったので大学受験の時にお世話になった先生にオーディションの曲を見てもらおうとレッスンに伺ったところ「現実を見た方がいい」などという有難いお言葉を頂戴することになったりして、泣き面に蜂という諺の意味を知ったりしたが、人生というのはよくわからないのものなので、何が何だかわからぬままにオーディションに受かってしまった。2023年7月のことである。
そして東京での生活が始まった。
続く