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推し、建立す。✿第29回|実咲
長保3年(1001年)12月から、いきなり寛弘元年(1004年)7月にかっとぶ時系列。
この時期、日照りが続いており、安倍晴明が祈祷を行ったことにより雨が降ったと『御堂関白記』に記載されています。
もうすでに放送は8月ですが、ようやく作中でまひろ(紫式部)が『源氏物語』の執筆をはじめるようです。
なお、安倍晴明はこの翌年85歳の高齢でこの世を去ります。
長生きすぎることが、安倍晴明伝説のはじまりの一つなのでは……?
ちょっと怖いですよね、めちゃくちゃ長生きの伝説の陰陽師。
この時期というか、行成は常に忙しい人なので、この3年の間ももちろん東奔西走の皆勤っぷりです。
本業以外にも、あっちこっちで書をしたためてくれだの、門に掲げる額字を書いて欲しいだの、書家として大人気。
そのさなか、第8回でお話しした、行成の最初の妻が亡くなったのはこの頃(長保4年)のことです。
さて、第29話の中で亡くなった一条天皇の母詮子。彼女の最後の地が行成の邸だったことは前回お話しました。
この行成の邸は、京都市中の三条にあったものでした。日常的には、こちらを主に使用していたようです。
出勤もこの三条第からが多かったようです。
しかし日常に使用しているこの三条第とは別に、もう一つ行成には大事な屋敷がありました。
平安京の北の外側に位置する、桃園というエリアに「桃園邸」と呼ばれる屋敷を持っていたのです。
元々は内膳司(宮中の食事担当)の農園があった場所で、桃が植えられていたことから「桃園」と呼ばれていました。
桃は当時、薬や邪気払い等に効果がある食べ物とされていました。
当時この辺りは、醍醐天皇に連なる皇族や源氏が多く住んでいた、いわゆるちょっとした高級住宅街になっていました。
この桃園の地は、行成にとっては思い出深い地でもありました。
元々桃園邸は父方の祖父である藤原伊尹が買い入れた場所で、父義孝などを経由して当時行成が所有していました。
途中母方の祖父源保光が管理していた時期もあるようで、保光は「桃園中納言」と呼ばれていたこともあります。
行成が若き日に元服をしたのもこの桃園邸で、亡き血縁者の思い出が残っていることでしょう。
行成は、この桃園邸を長保3年(1001年)に寺院に改めています。
当時、自分の屋敷を寺にすることは、貴族でなくてもよくあったことのようです。
寺を創建するにあたって行成は、高僧や公卿を招いて大規模な供養を行い、官寺に準ずる扱い(定額寺と言います)にするように願い出て、許可されています。
ただの寺ではなく、いわば天皇からお墨付きを得た寺ということです。
行成の純粋な信仰心を元に建立されたお寺ですが、大変立派なものが出来上がり、定額寺にすることもできました。
これにより、言わずとも行成の力を宮廷社会に知らしめることにもつながったのです 。
この寺は「世尊寺」と名付けられ、後世行成の子孫が「世尊寺家」を名乗る根拠となるのです。
残念ながら、行成の子孫は室町時代に断絶しており、世尊寺の場所は今では詳しくは分かりません。
世尊寺で行成は、何を思い何を願っていたのでしょうか。
(「光る君へ」は来週お休みのため、本noteもお休み。次回更新は再来週を予定しております)
書いた人:実咲
某大学文学部史学科で日本史を専攻したアラサー社会人。
平安時代が人生最長の推しジャンル。
推しが千年前に亡くなっており誕生日も不明なため、命日を記念日とするしかないタイプのオタク。