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特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第18回|井上義和・坂元希美

(構成:坂元希美)
(タイトル写真:山﨑孝泰)

⑱創作特攻文学映画の感動を言語化するということ


坂元
 創作特攻文学映画とは何か、その作品から受ける感動はどこから沸き起こるのかを《ゴジラ-1.0》を軸にして、読み解いてきました。

井上 エンターテインメント作品、とくに特攻エンタメについては、これまで政治的正しさ(特攻を美化していないか)や歴史的正しさ(史実から逸脱していないか)などの基準に照らして批評することはできたでしょうが、その一方で「私たちはどこで・何に感動するのか」を表現する方法はまだまだ洗練させる余地があると思うんです。

坂元 一般的に、ネガティブな感想ほど詳しく書かれている印象がありますね。SNSでは特にその傾向が強いように思います。

井上 おっしゃる通り、ネガティブなツッコミほど雄弁になるのがSNSの特徴です。それに対して、ポジティブな感想はシンプルです。たとえば、《あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。》を観た人のポジティブな感想ポストは、「すごく良かった」「泣けた」というような、感動や号泣の事実をそのまま報告するにとどまるものが多い。中高生など若い方が多いということもありますが、それに加えて、感動をきちんと言語化することは、大人でも難しいのではないかと思い至りました。

 この連載の背景には、そうした問題意識もありました。すなわち、《ゴジラ-1.0》を軸にして、特攻文学映画から受ける「ベタな感動」を分析的に言語化することにチャレンジし、〈この私〉の〈今の感動〉だけではない、普遍性や再現性がある「感動の構造」を見出そうとしてきたわけです。

坂元 そこで、総まとめとして「ベタな感動」がどのようにもたらされるのか、これまでの対話を元に「特攻文学度メーター」をつくり、「未来」「父になる」「自発的な行動」「祖国の想像力」「カタルシス」の5要素の濃度分布を一覧にしてみたいと思います。

井上 いいですね。まずはおさらいも兼ねて、メーターの各要素について理解を共有しておきましょう。

感動を生む「特攻文学要素」5つを再確認

【未来】…命のやり取りが、未来へつながるポジティブな力を与えること

井上 歴史的な特攻作戦の目的は、迫りくる敵に打撃を与え、戦局を好転する(もしくは有利な講和につなげる)ことでしたが、創作特攻文学では、そうした軍事的合理性の文脈よりも、「大切な人たちの未来を守ることに命を使う」(=使命)ところに特別な意味を見出します。倒すべき敵よりも、守るべき未来に意識が向くわけですね。

 山崎貴監督は、「ゴジラを倒すための戦い」である海神作戦を「未来を生きるための戦い」と表現してみせました。目の前の巨大生物よりも、もっとその先にある守りたい未来を見据えることで、自分の命を使う意味が明確になるのです。

坂元 《ゴジラ-1.0》では未来という言葉が効果的に使われていたのでしたね。ところで、いま気づいたのですが、小説版では、典子が生きていたことを知った敷島が病院を訪ねた様子をこのように描写しています。

ドアを開けると、ベッドの上には希望がちょこんと座っていた。

『小説版 ゴジラ-1.0』187頁

 つまり、未来に意味があれば希望が生まれるというポジティブな原動力になる。死を目前にした特攻隊が未来に使命を見出すのは、希望に向かって飛ぶのだということになるのでしょう。

井上 あー、ここぞという場面で「希望」を使ってきましたね。しかも「希望がちょこんと座っていた」なんて、なかなか思い切った表現です(笑)。

 ただ、未来と希望の関係はもう少し丁寧に考えたほうがよさそうです。というのも、「未来」は海神作戦前に何度も使っていますが、「希望」は作戦後のこの典子との再会シーンだけでしょう。ということは、両者を意識的に使い分けていると考えたほうがいい。

 「未来」はいまだ現われていないもの、そこに向けて命懸けの跳躍をするもの、であるのに対して、「希望」はより確かな手ごたえをもって、現実のなかに兆すもの、ということではないでしょうか。

坂元 そうか、未来と希望は連続的につながるわけではない、と。敷島が明子に「未来」を見出したのは出撃前で、典子に「希望」を見出したのは帰還後だった、ということなので……ということは、死を目前にした特攻隊員は、希望を断ち切って、未来に向かって飛ぶのだ――というのが正確ですね。おお、なんだか一気にクリアになってきました。

井上 まさにまさに! そこに特攻文学における「未来」の透明感のある哀しみがあります。来るべき世界に自分を含めていないわけですから。その世界に自分が含まれるときに見出されるのが「希望」なのでしょう。

 また、特攻文学における「未来」には2つの水準があることにも注意が必要です。ひとつは「未来を生きるための戦い」のように、みんなの未来や共同体の未来、人類の未来、地球の未来という抽象的で大きな未来。もうひとつは個別具体的な「大切な人の未来」で、実際に特攻していく際に意識するのは後者なんですよね。野田が「未来を生きるための戦い」と言ったときは、敷島はまだその言葉を他人事のように聞いていましたが、明子の寝顔を見ているうちに、「未来」という言葉が「大切な明子の未来」として自分のものになるのです。

【父になる】…生物学的な父親に留まらず、次の世代に対する責任を引き受ける大人

坂元 《ゴジラ-1.0》では、実際に血を分けた親子ではないけれども、明子や水島といった子ども・若者に大人として示すべき態度や振る舞い、自分が担う責任を自覚したときに「父になる」のだと私は解釈しました。

井上 「未来」は『未来の戦死に向き合うためのノート』のときから注目していたキーワードでしたが、この「父になる」と次に取り上げる「自発的な行動」は、ぼくにとっては今回の《ゴジラ-1.0》を通して気づかされ、他の映画の分析を通して確証された要素です。

 さて、敷島は、偶然出会った拾い子の明子のことを大事に思って育ててきているけれども、父親という役割を引き受けることをずっとためらってきました。それは敷島が過去(生き残りの負い目)に縛られて、未来にコミットできずにいたからです。ゴジラへの特攻を決意したのも、自分を縛る過去を清算する(「俺の戦争を終わらせる」)ためでした。

 でも、海神作戦の直前、初めて明子に「俺はお前のお父ちゃんだ」と言えたときから、敷島のなかでゴジラ特攻の意味が変化します。この子の未来を守るために自分の命を使うのだと初めて思えたのですね。明子の寝顔を前に、それは確信に変わりました。これこそが、われわれが特攻文学要素として「父になる」という言葉を獲得した場面です。

 そして、「父になる」をもっと大きな文脈に置き直して「大人になる」を示してみせたのが、新生丸艇長の秋津です。秋津は、見習いの水島青年を相棒として新生丸の危険な任務を遂行していましたが、ゴジラと戦う海神作戦では連れていかないと冷たく突き放します。ゴジラを倒すことのその先に、この国の未来を守ることを自覚したからです。目の前の危険は自分たちが引き受け、若者に未来を託す。その線引きができるのが「大人になる」ということなのでしょう。

坂元 今の井上さんの整理で気づいたのですが、敷島はたしかに「父になる」自覚は芽生えたけれど、まだ秋津ほど成熟はしていない。「大人になる」にはもう少し経験を積んで、歴史のなかに自分を位置づけられるようになる必要がありますね。

井上 そうだと思います。「父になる」が個人同士の関係性であるのに対して、「大人になる」は共同体レベルの時間軸が関わってきます。そして、「父になる=大人になる」を共同体の未来を守るために命を使ってきた先人たちの歴史のなかで捉え直したのが、「勇敢な父祖」になります(連載第7回)。「勇敢な父祖たち」のおかげで、いまの自分はある。そして、だからこそ自分もまた、未来の子孫にとって「勇敢な父祖」たらん、と。

坂元 「大人になる」ということは、命のタスキリレーの中継者として自覚することでもあるわけですね。「勇敢な父祖」は、さまざまな国の国歌に登場するような建国神話的な存在ですが、そうした歴史上の偉大な先人たちだけでなく、私たち一人ひとりが「小さな勇敢な父祖」の自覚をもつことこそが、「父になる=大人になる」ことだといえますね。

【自発的な行動】…命令や義務を超越した自由意志による行為。Braveの発揮

「兵士たちの夢」(1888) エドゥアール・デタイユ

坂元 特攻というテーマが語られるとき、「自己犠牲」という言葉がよく用いられます。しかし、この一言で物語の何もかもを納得するわけにはいきません。なので、この連載では、敢えて「自己犠牲」という言葉を用いませんでした。

井上 そうですね。「自己犠牲=感動」という短絡を戒めるのが、特攻文学論のそもそもの出発点にありました。「自己犠牲」を使わなくても語れるはずだし、むしろそれを禁じ手にしたほうが、より分析的に語ることができます。

 そこで注目したのが「自発性」でした。歴史的な特攻作戦の場合、いちおう志願の体裁をとっているとはいえ、組織的な作戦行動である以上、自発性は当てはまりません。創作特攻文学では、敗北必至を確信しながら「あえて」出撃する、とか、生還の可能性がありながら「あえて」出撃するといった工夫により、かろうじて自発性を確保します。

 《ゴジラ-1.0》の場合、1947年という時代設定を活かして、自発性を発揮せざるをえない状況を用意しました。まず政府や軍隊、それからアメリカ軍もゴジラに対して動かないという権力・武力の空白状態の中で、民間から「海神作戦」が立ち上がってくるという自発性がある。さらに、敷島が作戦では想定されていなかった、戦闘機でゴジラの口に突っ込むという特攻を秘密裏に計画するなど、「自発的な行動」が何重にも組み込まれています。

坂元 海神作戦の説明会での「これは命令ではありません」ですね。「日本国民ならば」「帝国軍人ならば」という圧力で動員された戦時中とは違うのだ、と。

 ということは、命懸けの作戦に自発的に参加するモチベーションは、一人ひとり異なるわけです。敷島は最初からゴジラに特攻するつもりで参加しますが、それだって、まったく個人的な動機からでしたね。

井上 おっしゃる通り、こうした自発性は2年前に終わった戦争に対するアンチテーゼになっています。もう戦いたくない、というのではない。政府や軍隊に命令され、強制され、嫌々ながらやらされた戦いではなく、この国の未来のためにみんなの力を集めて戦いたい。後悔だらけのまま終わった戦争を、もう一度、納得のいく形でやり直したい。そういう切実な願いが「自発的な行動」を生みだす。

 これは、戦後社会の起源を上書きする、新生日本を立ち上げる建国神話の再演の試みだと思いました(連載第8回)。

坂元 アメリカの映画《インデペンデンス・デイ》と《アルマゲドン》における「自発的な行動」の特攻には、Braveがあることを見出しました。尋常ではない自発性が発揮されるとき、野蛮さを含んだ勇敢さが伴います。命令や義務を超えて、個人の自由意志による命の使い方にこそBraveは宿る。

井上 命令や義務を超越した自発性については、アメリカ映画のほうがわかりやすく表現されていましたね。坂元さんのBraveの指摘にはおおいに啓発されました。
たとえ人類の危機に対処するような任務であっても、「必ず生還できる」前提で考えるのがアメリカです。

 だからこそ、予期せぬ事態に追い込まれたときに任務を超えて発揮されるBraveが究極の名誉とされる。最後の最後に、国家も宗教も超えて、人が持てる力を振り絞って己の命を使うという、究極の自由意志の発露です。自発性に基づく行動に見えても、確率に委ねるくじ引きや、辞退が許されない志願、神との約束の履行などにはBraveは宿りません。

【祖国の想像力】…先人が大切に育んできたものを受け継ぎ、豊かにして次の代に託すという継承の物語と、それを守るために戦った死者の記憶

坂元 『未来の戦死に向き合うためのノート』から要所に出てくる重要ワードです。国や共同体のレベルで命のタスキリレーを意識することが「祖国の想像力」ですね。

井上 はい。ここまでの「未来」「父になる」「自発的な行動」の3つは、命を使う場面について「目的」「自分の位置づけ」「行動の条件」といった異なる角度から切り出される要素でした。祖国の想像力は、それらを一貫してつなげる物語です。未来のために自発的に命を使ってきた勇敢な父祖たちが織りなす物語、といってもいいでしょう。

 自分たちの共同体の神話的起源なので、必ずしも歴史的な事実とは一致しません。しかし有事の際には、この想像力にスイッチが入り、自分たちもまた勇敢な父祖たらんとして立ち上がるわけです。

 《ゴジラ-1.0》では、2年前に敗れて終わった戦争は「勇敢な父祖」としての戦いではなかったという深い後悔がある。だから、ゴジラとの戦いは勇敢な父祖としての戦いをきちんとやり直したい、それによって、傷ついた祖国を再建したいという意味があったのではないか、というのがわれわれの議論でした。海神作戦の主体は、未来のために(命令ではなく)自発的に命を使おうという民間人(元軍人)たちでした。

坂元 勇敢な父祖たちの物語をリスタートすることで、死んだ仲間たちもこの勇敢な父祖たちの物語に包摂し得るのではないか、という議論も出ました。これは宙づりになったままの先人の命のタスキを、改めてつなぎ直すことになります。

井上 もう少し補足しておくと、有事の際に機能するという意味では、愛国心とよく似ていますが、祖国の想像力は「心の状態」や「感情の強度」ではなく、自分たちを歴史のなかに位置づけ、命のタスキリレーの中継者としてコミットさせる物語なのです。それぞれの国に固有の歴史性とともに、どんな国にも当てはまる普遍性があります。

坂元 祖国の想像力は、「未来」「父になる」「自発的な行動」の3つをつなぐ物語ということですが、祖国の想像力というのは、有事に活性化されるものであって、普段は半ば眠った状態にある、と。

井上 その通りです。祖国の想像力が感動と結びつくのは自明ではありません。けれども、特攻文学的なエンターテインメント作品においては、この3要素をストーリー展開のなかで半ば強引に——しかし必然性と説得力をもたせながら——串刺しにすることによって、感動の爆発(カタルシス)を引き起こすのではないかと考えました。その配列がもたらすインパクトを強調するのに、連載では「惑星直列」と表現しましたね。

【カタルシス】…日常でわれわれが大切にしているものが明らかになる爽快感、感動の爆発

坂元 映画というメディアの性質上、華々しく大団円で終わる、いわゆるハッピーエンドは大きなカタルシスを観客に与えますよね。しかし、特攻文学においてカタルシスは突然沸き起こらない。特攻文学は、誰か(みんな)のために自分の命を使う物語ですから、本来悲しい気持ちのほうが大きいはずなんです。でも、「未来」「父になる」「自発的な行動」の物語が「祖国の想像力」で串刺しになることで、悲しさを上回る感動の爆発がもたらされる。

井上 冒頭で申し上げた「私たちは特攻エンタメの何に・どこで感動するのか」という問題に戻ってきました。おっしゃる通り、人が死ぬのは本来悲しいはずなのです。にもかかわらず――いや、それゆえにこそ――感動の爆発が起こるとすれば、なぜか。

 カタルシスは一見、個人的な好き嫌いに左右されそうですが、そこに向けて周到に設計されているのが特攻エンタメ作品です。なので、その多寡についても分析的に語ることができるわけです。取り上げてきた「未来」「父になる」「自発的な行動」は、いずれも私たち自身が日常のなかで大切にしている価値観に根差しています。それは、いわば共同体に埋め込まれた、集合的な本能のようなものです。普段は半ば眠った状態にあっても、戦争や大災害や人類滅亡などの危機的な場面で、これが覚醒する。特攻エンタメ作品では、極限状況に置かれた人間に「誰か(みんな)のために自分の命を使う」という究極の行動をとらせることで、それをわかりやすく見せてくれるのです。

 もちろん、「あえて」カタルシスで終わらせない作品もあります。例えば《シン・ゴジラ》は、ヤシオリ作戦は成功したものの、ゴジラは固まったまま首都東京のど真ん中にいますから、これからさまざまな困難が待ち受けていることが想像できてしまうので、あまりカタルシスを感じなかったですね。《ターミネーター》にも感じなかったなあ。

坂元 次回作があるかどうかは別として、「To be continued…」となっているラストはスッキリしないから、カタルシスを感じにくいのかも。やっぱり「危機は去った、この後に続くのは希望に溢れた未来です」と明示されてこそスッキリして、カタルシスを感じるのでしょう。

 最近、どうも伏線をたくさん用意し、それをいかにうまく回収するかでカタルシスをもたらす構造のドラマが増えている感じがします。ミステリーが得意とする謎解きの要素もありますが、どうやって読者や視聴者をラストまで引き留めておくかに重きを置いているのではないか。これは、作品の価値をユーザーの行動の数値化によって測るようになったことが影響しているのかもしれません。

 複雑に配置された多数の伏線が見事に回収されたら、スッキリして、カタルシスを得られる。逆に、伏線がひとつでも宙吊りにされたままだと、カタルシスを感じないどころか「ラストまで見たのに、損した!」とネガティブな感情が沸き、あったかもしれないポジティブな感動も忘れ去ってしまうのではないか――。そういったカタルシス、あるいは感動の構造も、これからの創作特攻文学映画では重要になるかもしれませんね。

井上 ああ、伏線回収論的に捉え直してみるのも面白そうですね。それでいえば、この連載でやってきたことは、「いまだ回収されざる伏線」の発見(創出)と、それを回収するための方法論の提示、なのかもしれません。通常、伏線というのは作品制作のなかで意図的に仕込むものですが、この「いまだ回収されざる伏線」は、制作側にとっては意図していなかったのに特攻文学論的には伏線になっている、という可能性もあります。

 「泣ける」「刺さる」映画作品を、たんに泣いてスッキリするだけではなくて、自分の感動の理由がわかってスッキリすれば、一粒で二度美味しいんじゃないでしょうか(笑)。


 《ゴジラ-1.0》の読み解きから始まった本連載も、いよいよ次回が最終回です。総まとめとして、これまで取り上げてきた映画の【特攻文学度】を発表します。

 どうぞお楽しみに!


◎著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。


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