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織田作之助『競馬』初出翻刻版(最終節)▶杉本竜氏による〈競馬ニ関スル注釈〉付

敗戦後間もない昭和21年、雑誌『改造』の4月号に掲載された織田作之助の短編小説「競馬」。ここでは、仮名遣いを初出のままに翻刻します。加えて、『近代日本の競馬―大衆娯楽への道』(創元社刊)の著者である杉本竜氏に、競馬に関するオリジナルな注釈を付けて頂く、その最終回です(太字が注釈のある部分)。

 そして八日目の今日は淀の最終日[20]であつた。これだけは手離すまいと思つてゐたかずのかたみの着物を質に入れて来たのだ。質屋の暖簾をくぐつて出た時は、もう寺田はかずの想ひを殺してしまつた気持だつた。そして、今日この金をスツてしまへば、自分もまたかずの想ひと一緒に死ぬほかはないと、しよんぼり競馬場へはいつた途端、どんより曇つた空のやうに暗い寺田の頭にまづ閃いたのは殺してしまつた筈のかずの想ひであつた。女よりもスリルがあるといふ競馬の魅力に惹かれて来たといふ気持でもなかつた。この最後の一日で取り戻さねば破滅だといふ気持でもなかつた。かずの想ひと共に来たのだといふことよりほかに、もう何も考へられなかつた。そしてその想ひの激しさは久し振りに甦つた嫉妬の激しさであらうか、放心したやうな寺田の表情の中で、眼だけは挑みかかるやうにぎらついてゐた。
 だから、今日の寺田はかずの一の字をねらつて、1の番号ばかし執拗に追ひ続けてゐた。その馬がどんな馬であらうと頓着せず、勝負にならぬやうなバテ馬であればあるほど、自虐めいた快感があつた。ところが、その日は不思議に1の番号の馬が大穴になつた。内枠だから有利だとしたり気に言つて見ても追つつかぬ位で、さすがの人人も今日は一番がはいるぞと気づいたが、しかしもうそろそろ風向きが変る頃だと、わざと一番を敬遠したくなる競馬心理を嘲笑するやうに、やはり単で来て、本命ほんめいのくせに人気が割れたのか意外な好配当をつけたりする[21]。寺田ははじめのうち有頂天になつて、来た、来た! と飛び上がり、まさかと思つて諦めてゐた時など、思はず万歳と叫ぶくらゐだつたが、もう第八競走レース[22]までに五つも単勝を取つてしまふと、不気味になつて来て、いつか重苦しい気持に沈んで行つた。すると、あの見知らぬ競馬の男への嫉妬がすつと頭をかすめるのだつた。
 第九の四歳馬特別競走レース[23]では、1のホワイトステーツ号が大きく出遅れて勝負を投げてしまつたが、次の新抽優勝競走レース[24]では寺田の買つたラツキーカツプ号が二着馬を三馬身引き離して、五番人気で百六十円の大穴だつた。寺田はむしろ悲痛な顔をしながら、配当を受け取りに行くと、窓口で配当を貰つてゐたジヤンパーの男がふと振り向いてにやりと笑つた。皮膚の色が女のやうに白く、凄い程の美貌のその顔に見覚えがある。穴を当てる名人なのか、寺田は朝から三度もその窓口で顔を合はせてゐたのだ。大穴の場合は配当を取りに来る人もまばらで、すぐ顔見知りになる。やあ、よく取りますね、この次は何ですかと、寺田はその気もなくお世辞で訊いた。すると、男はもう馬券を買つてゐて、二つに畳んでゐたのを開いて見せた。1だつた。寺田はどきんとして、何かニユースでもと問ひ掛けると、いや僕は番号で買ふ主義で、一番一点張りですよ。さう言つたかと思ふと、すつとスタンドの方へ出て行つた。
 その競走レースは七番の本命ほんめいの馬があつけなく楽勝した。そしてそれが淀の最終競走レースであつた。寺田は何か後味が悪く、やがて競馬が小倉に移る[25]と、1の番号をもう一度追ひたい気持にかられて九州へ発つた。汽車の中で小倉の宿は満員らしいと聴いた[26]ので、別府の温泉宿に泊り、そこから毎朝一番の汽車で小倉通ひをすることにした。夜、宿へつくとくたくたに疲れてゐたので、寺田は女中にアルコールを貰つてメタポリンを注射した。かずが死んだ当座寺田はかずの想出と嫉妬に悩まされて、眠れぬ夜が続いた。ある夜ふとロンパンの使ひ残りがあつたことを想ひ出した。寺田は不眠の辛さに堪へかねて、つひぞ注射をしたことのない自分の腕へこはごはとロンパンを打つてみると、簡単に眠れた。が、眠れたことより、あれほど怖れてゐた注射が自分で出来て、しかも針の痛さも案外すくなかつたことの方がうれしく、その後脚気になつた時もメタポリンを打つて自分で癒してしまつた。そしてそれからは注射がもう趣味同然になつて、注射液を買ひ漁る金だけは不思議に惜しいと思はず、寺田の鞄の中には素人にはめづらしい位さまざまなアンプルがはいつてゐたのだ。注射が済んで浴室へ行つた時、寺田はおやつと思つた。淀で見たジヤンパーの男が湯槽につかつてゐるではないか。やあと寄つて行くと、向うでも気づいて、よう、来ましたね、小倉へ……とおこさうとしたその背中を見た途端、寺田は思はず眼を瞠つた。女の肌のやうに白い背中には、一といふ字の刺青が施されてゐたのだ。一―――――かず。もしかしたらこの男があの「競馬の男」ではないか。一の字の刺青はかずの名の一字を取つたのではないかと、咄嗟の想ひに寺田は蒼ざめて、その刺青は……ともうたしなみも忘れてゐた。これですかと男はいやな顔もせず笑つて、こりや僕の荷物ですよ、「胸に一物、背中に荷物」といふが、僕の荷物は背中に一文字でね、十七の年からもう二十年背負つてゐるが、これで案外重荷でねと、冗談口の達者な男だつた。十七の歳から……? と驚くと、僕も中学へ三年まで行つた男だが……と語りだしたのは、かうだつた。
 生れつき肌が白いし、自分から言ふのはをかしいが、まア美少年の方だつたので、中学生の頃から誘惑が多くて、十七の歳女専の生徒から口説かれて、到頭その生徒を妊娠させたので、学校は放校処分になり、家からも勘当された。木賃宿を泊り歩いてゐるうちに周旋屋にひつ掛つて、炭坑へ行つたところ、あらくれの坑夫達がこいつ女みてえな肌をしやがつてと、半分は稚児苛めの気持と、半分は羨望から無理矢理背中に刺青をされた。一の字を掘りつけられたのは、坑夫長屋ではやつてゐた、オイチヨカブ賭博[27]の、インケツニズサンタシスンゴケロツポーナキネオイチヨカブの内、この札を引けば負けと決つてゐるインケツの意味らしかつた。刺青をされて間もなく炭坑を逃げ出すと、故郷の京都へ舞ひ戻り、あちこち奉公したが、英語の読める丁稚と重宝がられるのははじめの十日ばかりで、背中の刺青がわかつて、たちまち追ひ出されてみれば、もう刺青を背負つて生きて行く道は、背中に物を言はす不良生活しかない。インケツの松と名乗つて京極や千本の盛り場を荒してゐるうちに、だんだんに顔が売れ、随分男も泣かしたが、女も泣かした。面白い目もして来たが、背中のこれさへなければ堅儀の暮しも出来たらうにと思へば、やはり寂しく、だから競馬へ行つても自分の一生を支配した一の番号が果して最悪のインケツかどうかと試す気になつて、一番以外に賭けたことがない……。
 聴いてゐる内に寺田は、なるほどそんな「一」だつたのかと、少しは安心したが、この男のことだから四条通の酒場も荒し廻つたに違ひないと、やはり気になり、交潤社の名を持ち出すと、開店当時入口の大硝子を割つて以来行つたことはないがと笑つて、しかしあそこの女給で競馬の好きな女を知つてゐる。いい女だつたが、死んだらしい。よせばいいのに教師などと世帯を持つたのは莫迦だつたが、しかしあれだけの体の女は一寸めづ……おや、もう上がるんですか。
 部屋へ戻ると、女中が夕飯を運んで来たが、寺田は咽喉へ通らなかつた。直ぐ下げさせて、二時間ばかりすると、蒲団を敷きに来た。寺田は今夜はもう眠れぬだらうと、ロンパンを注射するつもりで、注射器を消毒していると、蒲団を敷き終つた女中が、旦那様注射をなさるのでしたら、私にもして下さい。メタポリンは脚気にいいんでせうと腕をまくつた。寺田はむつちりしたその腕へブスリと針を突き刺した途端、ふとかずの想ひがあつた。針を抜くと、女中は注射には馴れてゐるらしく、器用に腕を揉みながら、五番の客が変なことを言ふからお咲ちやんに代つて貰つていいことをしたといふその言葉を聴いて、はじめて女中が変つてゐたことに気がついたくらゐ寺田はぼんやりしてゐた。男前だと思つて、本当にしよつてるわ。寺田の眼は急に輝いた。あの男だ。あの男がこの女中を口説かうとしたのだ。寺田は何思つたか、どうだ、もう一本してやらうか。メタポリン……? いや、ヴイタミンシーだ。シーつていいんですか。ビーよりいいよと言ひながら、しかし注射器にはひそかにロンパンを吸ひ上げた。……
 女中は急に欠伸をして、私眠くなつて来たわ、ああいい気持、体が宙に浮きさう、少しここで横にならせて下さいね。蒲団の裾を枕にすると、もう前後不覚だつた。二時間許り立つて、うつとりと眼をあけた女中は、眠つてゐた間何をされたかさすがに悟つたらしかつたが、寺田を責める風もなく、私夢を見てたのかしらと言ひながら起ち上ると、裾をかき合せて出て行つた。寺田はその後姿を見送る元気もなく、自責の想ひにしよげかへつてゐたが、しかしふとあの男のことを想ふと、僅かに自尊心の満足はあつた。
 翌日、小倉競馬場の初日が開かれた。朝からスリ続けてゐた寺田は、スレばスル程昂奮して行つた。最後の古呼得ハン競走レース[28]で、寺田はあり金全部を1のハマザクラ号に賭けた。これを外してしまへば、もう帰りの旅費もない。
 ぱつと発馬機がはね上つた[29]。途端に寺田は真蒼になつた。内枠のハマザクラ号は二馬身出遅れたのだ。駄目だと寺田はくはへてゐた煙草を投げ捨てると、スタンドを降りて、ゴール前の柵の方へ寄つて行つた。もう柵により掛らねば立つてをれないくらゐ、がつくりと力が抜けてゐたのだ。向ふ正面の坂を、一頭だけ取り残されたやうに登つて行く白地に紫の波型入りのハマザクラ[30]を見ると、寺田の表情はますます歪んで行つた。出遅れた距離を詰めようともせず、馬群から離れて随いて行くのは、もう勝負を投げてしまつたのだらうか。ハマザクラはもう駄目だ! と寺田は思はず叫んだ。すると、いや大丈夫だ、あの馬は追込みだ[31]。と、声がした。ふと振り向くと、ジヤンパーを着た「あの男」がすつと向ふ正面を睨んで立つてゐた。白い顔が蒼ざめてゐる。自分と同じやうにスツて来たのだと、見上げてゐると、男は急ににやりとした。寺田はおやつと正面へ振りかへつた。白地に紫の波型がぐいぐいと距離を詰めて行く。あつと思つてゐる内、第四角[32]ではもう先頭の馬に並んで、はげしくり合ひながら直線に差し掛つた。しめたツと寺田が呶鳴ると、莫迦ツ! 追込馬が鼻に立つてどうするんだと、うしろの声も夢中だつた。鼻に立つたハマザクラの騎手は鞭を使ひ出した。必死の力走だが、そのまま逃げ切つてしまへるかどうか。鞭を使はねばならぬところに、あと二百米の無理が感じられる。逃げろ、逃げろ、逃げ切れ[33]と、寺田は呶鳴つてゐた。あと百米。そうれ行け。あツ、三番が追ひ込んで来た。あと五十米。あツ危い。並びさうだ。はげしい競り合ひ。抜かすな、抜かすな。逃げろ、逃げろ! ハマザクラ頑張れ!
 無我夢中に呶鳴つてゐた寺田は、ハマザクラが遂に逃げ切つてゴールインしたのを見届けると、いきなり万歳と振り向き、単だ、単だ、大穴だ、大穴だと絶叫しながら、ジヤンパーの肩に抱きついて、ポロポロ涙を流してゐた。まるで女のやうに離れなかつた。嫉妬も恨みも忘れてしがみついてゐた。〔終わり〕

「競馬」初出最終頁(『改造』昭和21年4月号)

杉本竜氏による注釈(最終節)

織田作之助の短編小説『競馬』の初出は昭和21年(1946)4月ですが、戦後の競馬は同年10月から再開するため、本作で描かれている競馬の風景は戦前のものです。

★20八日目の今日は淀の最終日
 第二節で触れましたように昭和6年(1931)の競馬法改正に伴い

第二条 競馬の開催は年二回を超ゆることを得ず。但し主務大臣の許可を受けたるときは年三回開催することを得。
競馬開催の期間は毎回八日内とす。

とされたため、八日目が最終日となります。本作は物語終盤の舞台に最終レースを選んでいますが、最終レースの持つ特別な魅力(あるいは魔力)が物語のラストに相応しいと考えたのかも知れません。個人的にも最終レースを終えた後の、人がまばらなスタンドは何とも言えず好きな風景です。それが「つはものどもが 夢のあと」のような虚無感を感じさせる風景だからでしょうか。
 
★21しかしもうそろそろ風向きが変る頃だと、わざと一番を敬遠したくなる競馬心理を嘲笑するやうに、やはり単で来て、本命のくせに人気が割れたのか意外な好配当をつけたりする。
 競馬心理を熟知した織田作ならではの描写です。「本命」とはもともとは易学上の言葉で、そのレースの人気馬、あるいは賭け手が中心とする馬のことです。ここでの使用例は人気馬という意味で、当然勝つであろうと思われる馬を指します。
 当時の払い戻しは手計算ですので、現在のように刻々と動くオッズを確認することは出来ません。ですので、安いだろうと思っていたのに「え、こんなにつくの?」と思うことも、またその逆もあったと思います。そうした情景を織田作は巧みに物語に織り込んでいます。
 
★22もう第八競走レース
 『昭和十七年秋季 競馬概定番組』によると1日の競争は概ね11競争が組まれていました。残り4レースです。
 
★23四歳馬特別競走レース
4歳は馬の年齢(馬齢、といいます)で、当時は数え年の旧年齢表記ですので、現在の3歳にあたります。平成13年(2001)に国際化の一環として満年齢に変更されました。おおむね2歳から競争をはじめ、3歳で同世代同士のクラシックレース(皐月賞・日本ダービー・菊花賞・桜花賞・オークス)などを目指していくことになります。
 
★24新抽優勝競走レース
 「新抽」とは抽籤新馬競争の略称です、抽籤馬とは、公認競馬における各競馬会会員が抽籤で引き受けた馬のことで、これに対し会員個人が購入した馬を呼馬よびうまと言います。この抽選新馬で勝った馬同士のレースが「優勝競争」となります。
 
★25やがて競馬が小倉に移る
「小倉」とは小倉競馬場(現在の福岡県北九州市)のことです。昭和10年代における競馬場は、
 
 札幌・函館・新潟・中山・東京・横浜・福島・京都・阪神・小倉・宮崎
 
の11場でした。前述したように開催は年間原則2回、各8日間でしたので、東西それぞれの競馬場ごとに土日を中心に開催していました。この場合、京都開催が終わり小倉競馬場での開催に移った、ということになります。
  戦後に横浜・宮崎での開催がなくなり、愛知県に中京競馬場が新設され現在につながる中央競馬10場となります。
 小倉競馬場は明治41年(1908)に戸畑町で開催されたのがその始まりです。第一次大戦勃発に伴い製鉄所を中心とする北九州地方の工場が活況を呈すとその敷地を所望されたため、土地売却した資金で小倉郊外の三萩野に大正8年(1919)11月に移転します。大正12年の競馬法成立でファンが増加したため敷地が手狭になり、昭和6年(1931)現在の地・北方に移転します。

小倉競馬場馬場略図

★26汽車の中で小倉の宿は満員らしいと聴いた
 小倉の宿が満員と聴いた寺田は隣県の別府に宿をとり、通うことにします。これは福島競馬の例ですが、

◇福島市内の旅館は満員となるのは勿論、最近ではファンも考えてか、素人下宿などに泊るので正確な数は不明だが、二千人は下らないだろう。
◇飯坂温泉なども同様で、七十余軒の旅館で平素二、三〇〇人の宿泊人届を出しているのが、一躍千数百人から二千人になる。

と記されているように、競馬開催時は全国各地から一獲千金を夢見る勝負師たちが来場し、周辺地域の宿は潤いました。競馬は馬券の売上だけではなく、地域経済にも一定の貢献をしていたのです。
 
★27坑夫長屋ではやつてゐた、オイチヨカブ賭博
 小倉で再開したジャンパーの男には「一」という刺青がありました。一代の「一」かと思えばそれは数字の「一」で、オイチョカブ賭博に由来するものでした。オイチョカブとは、1から9の札を配り、親と子で2枚ないし3枚の数字を組み合わせ一桁の数字が9に近いほうが勝ちという賭博です。たとえば4と5のカード2枚なら足して「9」なのでもう一枚は引かず、「4」「6」であれば10で一の位が「0」なので「もういっちょ」となります。こうした賭博はもちろん非合法です。ただし、労働者にとって「酒、女、ばくち、いれずみ」が「職工につきもの」と、主たる娯楽でもあったため、さまざまな形で行われていたようです。本作『競馬』にはいわゆる「飲む、打つ、買う(酒・博打・女)」のうち酒以外が出てきます。自身が下戸であった織田作にとって、見知った競馬という世界へ未知の〈酒〉を描くのは躊躇われたのかも知れません。
 
★28古呼特ハン競走レース
 「古呼」とは新呼馬競争への出走を終えた二回目以後の呼馬のことで、「特ハン」は「特殊なハンデキャップ競争」を意味し、特別な登録料を徴収したため賞金が高額でした。ハンデキャップ競争は馬券の妙味を生み出すため勝ちそうな馬に負担重量を多くしたり疾走距離を長くすることで競走力を平均化する競走です。
 昭和17年(1942)の例ですが、

小倉第4日 第10競走 古呼馬特殊ハンデキャップ競走 1着賞金4,200円
小倉第6日 第10競走 古呼馬ハンデキャップ競走 1着賞金2,640円

『昭和十七年秋季競馬概定番組』(日本競馬会、188・194頁)賞金は本賞・副賞・生産者賞込み

と「特ハン」には約1.6倍の賞金が充てられていました。
 
★29ぱつと発馬機がはね上つた。
 現在の競馬では電動式で前の扉が開くスターティング・ゲート方式が使用されていますが、当時の競馬のスタートは、スターティング・バリヤー(発馬機)を用いたものでした、これは、競走馬の胸の高さに網を張り、バネで斜め上方にはね上げるものです。大正14年(1925)にオーストラリアを視察した「日本競馬の父」安田伊左衛門(「安田記念」としても名を残しています)がこの発馬機に注目し、日本に導入しています。

当時の競馬のスタート地点

★30白地に紫の波型入りのハマザクラ
 馬が紫なわけではなく、騎手の勝負服の模様のことです。波型は現在の勝負服の柄にはありませんので、山型で代用してみました。現在と違い当時は中継映像がありませんので、レースは肉眼か双眼鏡で見るしかありませんでした。ゼッケン番号はなかなか見えづらいので、帽子の色と騎手の勝負服が馬を見分ける手がかりとなります。

白地に紫の山型入り勝負服

★31あの馬は追込みだ。
 馬にはそれぞれ逃げ、先行、差し、追い込みなどといった得意な脚質があります。追い込みとはレース中は最後方に位置しながら文字通り直線走路で一気にごぼう抜きする脚質です。個人的な追い込みベストレースは平成3年(1991)NHK杯(勝ち馬:イブキマイカグラ)です。小倉のような直線走路が短い競馬場であれば、頭数・ペースは不明ですが四角先頭というのは悪い展開ではないと思います。
 
★32第四角
第4コーナーのことです。ここを回ると最後の直線走路に入ります。小倉は右周りですので、右側から馬が直線に入ってきます。4コーナーで先頭に立ち、「残せっ!」「逃げろ!」と絶叫の中、直線走路に入ってくるハマザクラの情景が思い浮かびます。
 
★33逃げろ、逃げろ、逃げ切れ
 競馬場ではこの「逃げろ」と「差せ!」という声援が交錯します。私見ですが、関東の競馬場では「あああ何やってんだよお前は本当にぃ」という嘆き節系、関西では「いけ!こら!差せ!!差せ!!!!差せー―――――ッ!!!」という絶叫系の声援にそれぞれ味があるように思います。最後の直線走路でハマザクラは見事四角先頭から逃げ切りますが、「逃げろ」と声をあげる寺田、そしてジャンパーの男と一緒に声援をしているような錯覚を思い起こさせます。競馬を舞台にした文学作品はいくつかありますが、戦前の競馬場の雰囲気を眼前に蘇らせるかのような臨場感は、まさに競馬を愛した織田作ならではの筆致といえましょう。
 
■参考文献
長森貞夫編『東京競馬会及東京競馬倶楽部史 第一巻』東京競馬倶楽部、1941年
『福島競馬の弐拾年』帝都日日新聞福島支局、1936年
藤野裕子『民衆暴力』中央公論新社、2020年

<織田作之助が人気声優により令和の舞台に召喚される!>

無頼(ぶらい)

大大阪下のいちびり――人呼んで「オダサク」

出演:速水奨・木島隆一・堀江 瞬・今井文也/サックス演奏:佐々木晴志郎
《会場》
クレオ大阪中央 ホール
(大阪市立男女共同参画センター中央館)
《開催日時》
2022年9月25日(日)16:00開演(15:30開場)
★☆チケット絶賛発売中☆★
※詳しくは下記をご参照下さい。