推し、生ひ立つ。✿第5回|実咲
第6話の行成の情報量が多すぎる!!
あまりの怒涛の登場に、うろたえております。
あっちこっちにちりばめられたネタを拾い集めることに大忙しです。
道長、斉信、公任、行成。すっかりおなじみになったこの四人の組み合わせですが、一枚岩ではないようで。
産まれた家、その政治的立ち位置、信条など、それぞれの立場によって思うところが違います。
花山天皇の外戚として、若い貴族を固めたい義懐。
その義懐から酒宴の場に誘われ、行くつもりにしているらしい斉信と公任。
仲良し4人組に見えて、道長にそっと宴席がある旨を耳打ちする行成。
ここに、後年の二人の信頼関係のはじまりが見えてくるかのようです。
花山天皇の叔父にあたる義懐は、行成にとっても父の兄弟です。
しかし、行成はこの叔父に対してはどうにも距離があるように感じられます。
これは、第4回でも述べましたが、行成の父義孝が早くに亡くなっていることに起因します。
そもそも平安時代の貴族の結婚は「婿取り」かつ「通い婚」でした。
妻の家に夫が通ってきて、妻の実家が生活の面倒を見るのです。
そこで産まれた子供も妻の実家で育てられるため、母親の家系や財産は非常に重要でした。
何人か妻がいる場合、子供の数や身分や後ろ盾によって決まった正妻は夫と同居し、後継ぎや後に婿を迎えるであろう娘を育てながら、家を盛り立てていく上で大きな役割を担います。
道長の姉、詮子が産んだ懐仁親王(のちの一条天皇)を実家の東三条殿で育てているのもこのためです。
さきに述べたように、父・義孝は妻の家に通い婚をしており、そこで誕生したのが行成です。
そして義孝は早くに亡くなってしまったため、行成は母親の実家で育ちます。
行成の母方の祖父は源保光という人物で、学問に明るい人でした。
また、行成の書は当時の趣味人として有名であった具平親王(村上天皇の第七皇子)の影響があるといわれています。
父方を見れば確かに行成は藤原氏の人ですが、彼自身は実はかなり皇族や源氏(元は皇族で臣籍降下した人たち)に近しい関係でした。
父方の叔父・義懐のことが話題に出るたびに、どうにも気まずそうな顔をする行成。
作中で行われた、道隆主宰の漢詩の会では、帰りに斉信から「やはり(着くなら義懐様より)道隆様だ」という言葉が出た際にひかえめに頷く姿には、この父方の親戚とは縁遠い生育環境が影響しているのではないでしょうか。
漢詩の会では、一際きっちり姿勢を崩さず座っていて、流麗に筆を滑らせる行成。
やはり生真面目な人というキャラクター造形なのでしょう。
行成役の渡辺大知さんのインタビューも公開されました。
やはり、渡辺さんとしても、行成は決して派手な立ち位置ではないからこそ、周囲をよく見る思慮深さ、という空気で演じられているのではないでしょうか。 今後の行成の立ち居振る舞いにも、ますます期待値が上がってまいりました!
今回の漢詩の会のシーンでは他にも見どころがあります。
集まった若い貴族は、「酒」というお題にあわせて自分の心情に併せて漢詩を書き出します。
今回は自作だけでなく、過去の誰かの作品を選んでもいいようです。
道長、斉信、行成は白居易の作からチョイスしています。
しかし、唯一自作したのが公任。
彼は、当代一の風流のデパートのような人でした。
歴史物語である『大鏡』の中に「三舟の才」という逸話があります。
京都の大堰川で道長が遊覧の際に、漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟にそれぞれの名人を乗せました。
道長にどの舟を選ぶか問われた公任は和歌の舟を選び、素晴らしい和歌を詠んでそれは喝采を浴びました。
しかし、公任は「漢詩の舟を選べばもっと名声が上がったのに」と悔しがったそうです。
管弦も得意だったと言われており、漢詩の会の冒頭のシーンで公任が横笛を吹いていたのにはそんな理由がありました。
行成の得意としても漢詩な方のようで、後年、作文会(自作の漢詩を作る会)によく参加しています。
反面、和歌は本人としてはあまり得意ではないという話も『枕草子』で語られています。
行成の父義孝は、早くに亡くなっていますが和歌の名手でした。
百人一首にも作品が選ばれていますので、ご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「君と出会うまでは惜しいと思っていなかった命だけれども、君と逢った後は少しでも長く生きていたいと思うようになったよ」という意味で、恋の和歌として伝えられている作品ですが、その後の義孝の短い人生を思うと切に感じられる一首です。
もしかして長生きしていれば、行成にも和歌の手ほどきをしていたかもしれませんね。