第9回|はるホエーヌを卒業する①
ボクが部屋からいなくなっても、家を数時間留守にしても、吠えずに一人で寝て過ごせるようになったはるだったが、それでもまだ吠えることがあった。はるの食事のとき、ボクが食事をしているとき、家に誰かがやって来たとき、クレートに入れられたときである。
食事は朝夕の散歩から帰ってから与えることに決めていた。そうすれば散歩中が一日で最もお腹が空いている時間帯になり、リードを引っ張らずに歩く練習や見知らぬ人に近寄る練習におやつを効果的に使えるからだ。
散歩から帰り、お風呂で脚を洗い、はるを居間に戻してから、ボクは台所で食事を準備し始める。お皿を食器棚から取り出したり、フードを袋から出してお皿へよそったり、ヨーグルトを入れてかき混ぜたりする。2分もかからない作業だが、少しでも手間取ると、はるが吠え始める。「早くして」と言わんばかりに。
吠えているときに食事を出してしまうと、次からも吠えるようになる。だから吠えなくなるまで待つのだが、これがなかなか落ち着かない。どんどん大きな声で吠えるようになる。それでも我慢して待ち、3分くらいしてようやく静まる。よしと思って台所からお皿を持っていくと、また吠えだす。何も言わずに台所へ戻る。吠える、吠える。吠え続ける。ボクはそれが収まるのを台所で待ちながら山本央子先生のお話を思い返す。
いつの頃からか、山本先生、ボクの先輩で山本先生と長年の友人である杉山尚子先生、行動分析学会でよくお会いしてお話することがある奥田健次先生の4人は「神楽坂怪談」と自称する会合を開くようになっていた。名前の由来は初回開催地がボクが勤務する大学の近くにある神楽坂だったから。なぜ「会談」ではなく「怪談」なのかはご想像にお任せするが、この会合がきっかけで、2014年には日本行動分析学会が「体罰」に反対する声明を発表することになる (1) 。
その頃から奥田先生が主催される行動コーチングアカデミーが毎年夏に行動分析学の宿泊式研修会を開催するようになり、ボクたちはその講師を務めることになった。ボクははる、山本先生は察子さんを連れて参加し、奥田先生一家の愛犬、ハッピーくんと集うことが年中行事になった。
山本先生は犬、奥田先生は人を対象とした臨床家であり、お二人ともこの分野の第一人者である。関西出身で喋りも軽快。杉山先生がボクに山本先生を紹介してくださったときに「奥田先生の双子みたいな方です」とおっしゃっていたのは決して大げさな比喩ではなかった。ただし似ているのは外見ではなく、臨床の技術や発想だ。どのような行動を、なぜ、どうやって変えて、だれを、どのように支援するのかという考え方と、その伝え方である。
山本先生が最近関わった事例について、こういう犬とこういう飼い主の行動をこうやって支援したと話せば、奥田先生が、それと類似した行動と支援方法を、今度は子どもと親の例で話してくれる。杉山先生とボクはふむふむと頷きながら、質問したり、納得したりする。そんな楽しく贅沢な時間だ。
山本先生のお話には犬業界の有名人のお名前や専門用語がぽんぽんと飛び交う。業界に明るくないボクと奥田先生はそのたびに、〈いまのわかった?〉〈わかりまへん〉と目配せし合う。いちいち話を止めて尋ねるのも野暮なので、ボクらは想像しながら話を聞くことになる。「ホエーヌ」や「カミーユ」がフランスやイタリアの犬ではなく「吠え犬」と「噛み犬」、「たいこーけん」がライバル意識丸出しの「対抗犬」ではなく、散歩中に反対側からやってきてすれ違う「対向犬」のことだとわかったのは怪談を3回以上重ねてからだった。
ホエーヌが吠えるのには理由がある。不安、警戒、要求が主な3つ。ボクが部屋からいなくなると吠えるのは不安が原因だが、吠えてボクが戻ることで吠えが増えるなら、要求の要素も加わっていることになる。留守番の練習では、ボクの不在が不安を生まないように不在時間を徐々に伸ばした。そして吠えているときには部屋に戻らないようにすることで要求の要素が加わらないようにした(第7回)。
はるは散歩中に他人や他犬に対しては吠えないが、家に宅配の配達員や友達が来ると吠える。これは警戒吠えだろう。ただしこの場合も、吠えたときにボクが「吠えないで」とか「シー」などと声をかけたり、視線を向けたり、まして抱きかかえたりすれば、ボクのそういう反応に対する要求が叶うことになり、吠えは増える。吠えている間に配達員が仕事を終えて帰ればやはり要求は叶うことになるから、これも吠えを増やす要因になる。
食事場面で吠えるのは純粋に要求だろう。吠えればフードやおやつがもらえるなら吠えるようになるのは、考えればあたりまえのことだ。その対処法は早起き防止のためにやった「消去」になる(第6回)。いくら布団を噛んで引っ張ってもボクが起きなければ、時間がかかってもいずれ諦める。いくら吠えてもフードやおやつがもらえなければ、やっぱりいずれ諦める。
そんなこんなと考えているうちにホエーヌと化したはるが吠え止む。5秒、10秒と数えて待ち、もうちょっと、もうちょっとだけ待っててねと心の中でささやきながら、猛スピードで台所からお皿を運ぶ。そして吠えていないことを確認してお皿を床に置く。はるは一瞬で完食する。
消去を徹底する一方で他の工夫も始めた。まずは食事の準備時間の短縮である。犬は匂いに敏感だ。匂いが漂い始めてから食べ始めるまでの時間を短くすれば要求する理由もなくなる。散歩前に食事の準備をしておき、帰ったらすぐに出せるようにした。
「おすわり」と「まて」も教えた。どちらも最初は食事の後におやつを使って教えた。茹でた鶏のささみをちぎって見せ、はるの頭上から少し後ろに動かすだけで、すとんと座ってくれたので、そのまま掌に乗せてあげた。これを何回か繰り返すと、ささみを見せるだけで座るようになった。「おすわり」と声にだして座るように練習したのはもっと後のことだ。
ささみのおやつで「おすわり」ができるようになると、食事のときにお皿をすぐに床に置かずに、はるの頭の上で少し止めるだけで座るようになった。抱きしめたくなる気持ちを抑えて、冷静にお皿を置く。
「まて」は「おすわり」ができるようになってから教え始めた。座ったらすぐにささみをのせた掌を口の近くへ持っていき、同時に「まて」と言う。最初はそんなことは無視して食べようとするので食べられないうちに掌を引っ込める。こういうとき、はるは教えてもいないのに首をかしげる。ほんと、抱きしめたくなる。
立ち上がってしまったらもう一度「おすわり」から始めて、同じ手順を繰り返す。今度は「まて」の声に不審そうな表情を浮かべてすぐには食べない。そこで「よし」と言って掌を少しはるの口に近づける。はるはちらっとこちらを見てから食べ始める。
これを一日10回くらい、毎食後に繰り返した。食前よりもお腹が減っていなくて待ちやすいと考えたからだ。次に「まて」から「よし」までの時間を少しずつ長くする。1秒から2秒、2秒から3秒、3秒から4秒というように小刻みに、はるの様子をよく観察して、座ったままで吠える素振りも見せないことを確認しながら時間を伸ばしていった。
おやつを5-6秒待てるようになった頃から、食事でも同じように「まて」をしてみた。待っている間、こちらを見たり、きゅんきゅんと鼻をならすこともあったが、こちらも繰り返し練習することで10秒以上待てるようになった。
「おすわり」と「まて」ができるようになると、食事の準備に手間取ったときも、落ち着かない様子や鼻をなさす素振りを見せたら、「おすわり」「まて」と言えば座って待てるようになり、1-2か月くらい経つと、何も言わなくても伏せて待つようになった。
to be continued…
(1) 日本行動分析学会 (2014). 「体罰」に反対する声明 http://j-aba.jp/data/no-taibatsu.pdf
(2) 2018年に撮影した写真からたにさんにイラストを描いていただきました。察子さんは2020年、ハッピーくんは2022年に天国に召されました。
今でも時々この写真を見て当時の想い出にひたっています。