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織田作之助『競馬』初出翻刻版(第二節)▶杉本竜氏による〈競馬ニ関スル注釈〉付

敗戦後間もない昭和21年、雑誌『改造』の4月号に掲載された織田作之助の短編小説「競馬」。ここでは、仮名遣いを初出のままに翻刻します。加えて、『近代日本の競馬―大衆娯楽への道』(創元社刊)の著者である杉本竜氏に、競馬に関するオリジナルな注釈を付けて頂く、その第2回目です(太字が註釈のある部分)。

 寺田は細君の生きてゐる間競馬場へ足を向けたことは一度もなかつた。寺田は京都生れで、中学校も京都×中、高等学校も三高、京都帝大の史学科を出ると母校の×中の歴史の教師になつたといふ男にあり勝ちな、小心な律義者で、病毒に感染することを惧れたのと遊興費が惜しくて、宮川町へも祇園へも行つたことがないといふくらゐだから、まして教師の分際で競馬遊びなぞ出来るやうな男ではなかつた[14]、といつてしまへば簡単だが、ただそれだけではなかつた。
 寺田の細君は本名のかずといふ名で交潤社の女給をしてゐた。交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所の連中や贅沢な学生達が行く、京都ではまづ高級な酒場だつたし、しかもかずはそこのナンバーワンだつたから、寺田のやうな風采の上らぬ律義者の中学教師がかずを細君にしたと聴いて、驚かぬ者はなかつた。もつともかずの方では寺田の野暮な生真面目さを見込んだのかもしれない。もともと酒場遊びなぞする男ではなかつたのだが、ある夜同僚に無理矢理誘はれて行き、割前勘定になるかも知れないとひやひやしながら、おづおづと黒ビールを飲んでゐる寺田の横に坐つた時、かずは気がつまりさうになつた。ところが、翌日から寺田は毎夜かずを目当てに通つて来た。置いて行く祝儀チツプもすくなく、かずは相手にしなかつたが、十日目の夜だしぬけに結婚してくれと言ふ。隣のボツクスにゐる撮影所の助監督に秋波を送りながら、いい加減に聴き流してゐたが、それから一週間毎夜同じ言葉をくりかへされてゐる内に、ふと寺田の一途さに心惹かれた。二十八歳の今日まで女を知らずに来たという話ももう冗談に思へず、十八の歳から体を濡らして来たかずにとつては、地道な結婚をするまたとない機会かも知れなかつた。思へば自分ももう二十六、そろそろ身を堅めてもいい歳だらう。都ホテルや京都ホテルで嗅いだ男のポマードの匂ひよりも、野暮天で糞真面目ゆゑ「お寺さん」で通つてゐる醜男寺田に作つてやる味噌汁の匂ひの方が、貧しかつた実家の破れ障子をふと想ひ出させるやうなしみじみした幼心のなつかしさだと、かずも一皮剥けば古い女だつた。風采は上らぬといへ帝大出だし、笑へば白い歯ならびが清潔だと、そんなことも勘定に入れた。
 ところが寺田の両親が反対した。「お寺さん」といふ綽名はそれと知らずにつけられたのだが、実は寺田の生家は代代堀川の仏具屋で、寺田の嫁も商売柄僧侶の娘を貰ふ積りだつたのだ。反対された寺田は実家を飛び出すと、銀閣寺付近の西田町に家を借りてかずと世帯を持つた。寺田にしては随分思ひ切つた大胆さで、それだけかずにのぼせていたわけだつたが、しかし勘当になつた上にそのことが勤め先の×中に知れて免職になると、やはり寺田は蒼くなつた。交潤社の客でかずに通つてゐた中島某は×中の父兄会の役員だつたのだ。寺田は素行不良の理由で免職になつたことをまるで前科者になつてしまつたやうに考へ、もはや社会に容れられぬ人間になつた気持で、就職口を探しに行かうとせず、頭から蒲団をかぶつて毎日ごろんごろんしてゐた。夜、かずの柔い胸の円みに触れたり、子供のやうに吸つたりすることが唯一のたのしみで、律儀な小心者もふと破れかぶれの情痴めいた日日を送つてゐたが、かずももともと夜の時間を奔放に送つて来た女であつた。肩や胸の歯形を愉しむやうなマゾヒズムの傾向もあつた。壁一重の隣家を憚つて、蹴上けあげの旅館へ寺田を連れて行つたりした。そんな旅館をかずが知つてゐたのかと寺田はふと嫉妬の血を燃やしたが、しかしそんな瞬間の想ひはかずの魅力ですぐ消えてしまつた。
 ある夜、かずは痛いと飛び上つた。驚いて口をはなし、手で柔く押へると、それでも痛いといふ。血がにじんでも痛いとは言はなかつた女だつたのに、妊娠したのかと乳首を見たが黒くもない。何もせうのに夜通し痛がつてゐたので、乳腺炎になつたのかと大学病院へ行き、歯形が紫色ににじんでゐる胸をさすがに恥しさうにひろげて診て貰ふと、乳癌にうがんだつた。未産婦で乳癌になるひとは珍らしいと、医者も不思議がつてゐた。入院して乳房を切り取つて貰つた。退院まで四十日も掛り、その後もレントゲンとラヂウムを掛けに通つたので、教師をしてゐた間けちけちと蓄めてゐた貯金もすつかり心細くなつてしまひ、寺田は大学時代の旧師に泣きついて、史学雑誌の編輯の仕事を世話して貰つた。ところがかずは退院後二月許りたつとこんどは下腹の激痛を訴へ出した。寺田は夜通し撫ぜてやつたが、痛みは消えず、しまひには油汗をタラタラ流して、痛い痛いと転げ廻つた。再発した癌が子宮へ廻つてゐたのだ。しかし医者は入院する必要はないと言ふ。ラヂウムを掛けに通ふだけでいいが、しかし通ふのが苦痛で堪へ切れないのなら、無理に通はなくてもいいといふその言葉の裏は、死の宣告だつた。癌の再発は治らぬものとされてゐるのだ。余り打たぬやうにと、医者は寺田の手に鎮痛剤のロンパンを渡した。モルヒネが少量はいつてゐるらしかつた。死ぬときまつた人間ならもモルヒネ中毒の惧れもない筈だのに、余り打たぬやうにと注意するところを見れば、万に一つ治る奇蹟があるのだらうかと、寺田は希望を捨てず、日頃けちくさい男だのに新聞広告で見た高価な短波治療機を取り寄せたり、枇杷の葉療法の機械を神戸まで買ひに行つたりした。人から聴けば臍の緒も煎じ、牛蒡の種もいいと聴いて擂鉢すりばちでゴシゴシとつぶした。
 しかしかずは衰弱する一方で、水の引くやうにみるみる痩せて行き、癌特有の堪え切れぬ悪臭はふと死の臭ひであつた。寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物できもの一切に御利益りやくがあると近所の人に聴いたこまの石切まで、かずの腰巻を持つて行き、特等の祈祷をして貰つた足で、南無石切大明神様、何卒御利益を以て哀れなる二十六歳の女の子宮癌を救ひ給へと、あらぬことを口走りながらお百度を踏んだ帰り、参詣道で灸のもぐさを買つて来るのだつた。それでもかずの激痛は収まらず、注射の切れた時の苦しみ方は生きながらの地獄であつた。ロンパンがなくなつたと気がついて、派出看護婦が近くの医者まで貰ひに走つてゐる間、かずは下腹をかきむしるやうな手つきをしながら、唇を突き出し、ポロポロ涙を流して、のた打ち廻るのだ。世の中にこんな苦痛があつたのかと、寺田も共にポロポロ涙を流して、おろおろ見てゐる。かずは急に、噛んで、噛んで! と叫んだ。下腹の苦痛を忘れるために、肩を噛んで貰ひたいのだらう。寺田はガブリとかずの肩にかぶりついた。かつては豊満な脂肪で柔かつた肩も今は痛痛しいくらゐ痩せて、寺田は気の遠くなるほど悲しかつたが、かずももう寺田に肩を噛まれながら昔の喜びはなく、痛い痛いとなく声にも情痴の響きはなかつた。やつと看護婦が帰つて来たが、のろまな看護婦がアンプルを切つたり注射液を吸ひ上げたり、腕を消毒したりするのに手間取つてゐるのを見ると、寺田はかずの苦痛を一秒でも早く和けてやりたさに、早く早くと自分も手伝つてやるのだつた。
 気の弱い寺田はもともと注射が嫌ひで、といふより、注射の針の中には悪魔の毒気が吹き込まれてゐると信じてゐる頑冥な婆さん以上に注射を怖れ、伝染病の予防注射の時など、針の先を見ただけで真蒼になうて卒倒したこともあり、高等教育を受けた男には似合はぬと嗤はれてゐたくらゐだから、はじめの内看護婦がかずの腕をまくり上げただけで、もう隣の部屋へ逃げ込み、注射が終つてからおそるおそる出て来るといふありさまであつた。針といふ感覚だけで参つてしまふやうな弱い神経なのだ。ところが、癌の苦痛といふ感覚の前にはもうそんな神経もいつか図太くなつて来たのか、背に腹は代へられぬ注射の手伝ひをしてゐるうちに、次第に馴れて来て、しまひには夜中看護婦が眠つてゐる間かずのうめき声を聴くと、寺田は見やう見真似の針をかずの腕に打つてやるのだつた。
 そんなある日、かずの名宛で速達の葉書が来た。看護婦が銭湯へ行つた留守中で、寺田が受け取つて見ると「明日午前十一時、淀競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待つてゐる。来い。[15]」と簡単な走り書きで、差出人の名はなかつた。葉書一杯の筆太の字は男の手らしく、高飛車な文調は何れはかずを自由にしてゐた男に違ひない。去年と同じ場所といふ言葉はふといやな連想をさそひ、競馬場からの帰り昂奮を新たにするために行つたのは、あの蹴上の旅館だらうかと、寺田は真蒼になつた。かずに何人かの男があつたことは薄薄知つてゐたが、住所を教へてゐたところを見ればまだ関係が続いてゐたのかと、感覚的にたまらなかつた。寺田はその葉書を破つて捨てると、血相を変へて病室へはいつて行つた。しかし、かずは油汗を流してのたうち廻つてゐた。激痛の発作がはじまつてゐたのだ。寺田はあはててロンパンのアンプルを切つて、注射器に吸ひ上げると、いつもの癖で針の先を上向けて、空気を外に出さうとしたが、何思つたのかふと手を停めると、ぢつと針の先を見つめてゐた。注射器の中には空気のガラン洞が出来てゐる。このまま静脈に刺してやらうかと、寺田は静脈へ空気を入れると命がないと言つた看護婦の言葉を想ひ出し、狂暴に燃える眼でかずの腕を見た。が、かずの腕は皮膚がカサカサに乾いて黝く垢がたまり、悲しいまでに細かつた。この腕であの競馬の男の首を背中を腰を物狂はしく抱いたとは、もう寺田は思へなかつた。はだけた寝巻から覗いている胸も手術の跡が醜く窪み、女の胸ではなかつた。ふと眼を外らすと、寺田はもう上向けた注射器の底を押して、液を噴き上げてゐた。すると、嫉妬は空気と共に流れ出し、安心した寺田はかずの腕のカサカサした皮をつまみ上げると、ブスリと針を突き刺した。ぐつと肉の中まで入れて液を押すと、間もなく薬が効いて来たのか、かずはけろりと静かになり、死んだやうに眠つてしまつたが、耳を済ませるとかすかすな鼾はあつた。
 それから一週間たつたある夕方、治療に使ふ枇杷の葉を看護婦と二人で切つて籠に入れてゐると、うしろから一寸とかずの声がした。振り向くと、唇の間からだらんと舌を垂れ、ウオーウオーとけだもののやうな声を出して苦悶してゐた。驚いた看護婦が強心剤のアンプルを切つて、消毒もせずにかずの腕に突き刺さうとしたが、肉が固くてはいらなかつた。僕にやらせろと寺田が無理矢理突き刺さうとすると、針が折れた。かずの息は絶えてゐた。歳月がたつと、かずの想出も次第に薄れて行つたが、しかし折れた針の先のやうに嫉妬の想ひだけは不思議に寺田の胸をチクチクと刺し、毎年春と秋競馬のシーズンが来ると、傷口がうづくやうだつた。競馬をする人間がすべてかずに関係があつたやうに思はれて、この嫉妬の激しさは寺田自身にも不思議なくらゐであつた。ところが、そんな寺田がふとしたことから競馬に凝りだしたのだから、人間といふものはなかなか莫迦にならない。
 寺田はかずが死んで間もなく史学雑誌の編輯をやめさせられた。看病に追はれて怠けてゐた上、かずが死んだ当座ぽかんとして半月も編輯所へ顔を見せなかつたのだ。寺田はまた旧師に泣きついて、美術雑誌の編輯の口を世話して貰つた。編輯員の二人までが折柄始まつた事変に召集されて、欠員があつたのだ。こんどは怠けずこつこつと勤めて二年たつと、編輯長がまた召集されて、そのあとの椅子へついたその秋大阪に住んでゐるある作家に随筆を頼むと、〆切の日に速達が来て原稿は、淀の競馬の初日に競馬場へ持つて行くから、原稿料を持つて淀まで来てくれといふ。寺田はその速達の字がかつてかずに来た葉書の字とまるで違つてゐることに安心したが、しかし自分で行くのはさすがにいやだつた。といつて、ほかの者ではその作家の顔は判らない。私情で雑誌の発行を遅らせては済まないと、寺田はやはり律義者らしくいやいや競馬場へ出掛けた。丁度一競走レース終つたとこらしく、スタンドからぞろぞろと引き揚げて来る群衆の顔を、この中にかずの男がゐる筈だとカツと睨みつけてゐると、やあ済まん済まんと作家が寄つて来て、君を探してゐたんだよ。どうやら朝からスリ続けて、寺田が持つて来る原稿料を当てにしてゐたらしかつた。渡して原稿を貰ひ、帰らうとしたが、僕も今日は京都へ廻るから終るまでつき合はないかと引き停められると、寺田はもう気が弱かつた。スタンドに並んで作家の口から、君アンナカレーニナの競馬の場面読んだ? しかしあれでもないよ、どうも競馬を本当に描写した文学はないね[16]、競馬は女より面白いのにね、僕は競馬場へ女を連れて来る奴の気が知れんのだ、競馬があれば僕はもう女はいらんね、その証拠に僕はいまだに独身だからね、西鶴の五人女に「乗り掛つたる馬」といふ言葉があるが、僕はこんなスリルを捨てて女に乗り掛らうとは思はんよ……といふ話を聴きながら競走レースを見てゐる間、寺田はふと競馬への反感を忘れてゐた。そして次の競走レースでふらふらと馬券を買ふと、寺田の買つた馬は百六十円の配当[17]をつけた。払戻の窓口へさし込んだ手へ、無造作に札を載せられた時の快感は、はじめて想ひを遂げた時のかずの肌よりもスリルがあり、その馬を教へてくれた作家にふと女心めいた頼もしさを感じながら、寺田はにはかにやみついて行つた。
 小心な男ほど破目を外した溺れ方をするのが競馬の不思議さであらうか。手引きをした作家の方が呆れてしまふくらゐ、寺田は向ふ見ずな賭け方をした。執筆者へ渡す謝礼の金まで注ぎ込み、印刷屋への払ひも馬券に変り、ノミ屋[18]へ取られて行つた。つねに明日の希望があるところが競馬のありがたさだと言つてゐた作家も、六日目にはもう印税や稿料の前借がきかなくなつたのか、到頭姿を見せなかつた。が、寺田だけは高利貸の金を借りてやつて来た。七日目[19]はセルの着物に下駄ばきで来た。洋服を質入れしたのだ。〔※第三節に続く〕

『改造』昭和21年4月号目次

杉本竜氏による注釈(第二節)

★14教師の分際で競馬遊びなぞ出来るような男ではなかった
 作中での寺田への人物評です。教師が馬券を買って良いかは実は競馬法制定時に貴族院で議論されています。そこでは、たとえば書籍については、教育上好ましくない本もあるけれども、国民一般に許されている以上は教師にだけこれを禁ずることは出来ず、したがって馬券も同様であるとしています。ただしなるべく本人の自制心に訴える、いわゆる「自粛の要請」を行いました。作家・五木寛之の父は教員でしたが、「他人に競馬場に行ったなど言うんじゃないぞ」と五木に告げているように、ある程度は浸透していたようです。こうした例は、「愛馬心涵養のための国策」として導入された「刑法の例外としての賭博」である競馬に対する世間からの視線をうかがい知ることが出来ます。
 
★15明日午前十一時、淀競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待つてゐる。来い。
 一代宛の葉書です。淀競馬場とは京都競馬場の通称で、京阪電車淀駅を降りて東側に向かいますと競馬場があります。中央の池は巨椋池の名残とも言われており、古都京都のたたずまいを感じさせる、私の好きな競馬場です。
京都における競馬場は明治40年(1907)、京都町中の島原で始まりました。ところが明治末年の火災により大正2年(1913)には京都府船井郡須知しゅうち町(現在の京丹波町)に移転します。大正12年の競馬法成立後、大正14年12月に新装なった淀競馬場に移ります。スタンドは第一号館と第二号館があり、第一号館は理事室や貴賓席を備えており、第二号館は公衆大食堂や一般二等観覧席がありました。一等館はおそらく一号館のことで、そこで待ち合わせをしよう、ということですから貴賓室に出入りするような、いわゆる「富裕層」からの葉書であることを匂わせています。

京都競馬場馬場略図

★16君アンナカレーニナの競馬の場面読んだ? しかしあれでもないよ、どうも競馬を本当に描写した文学はないね
 織田作は作中の「大阪に住んでゐるある作家」にトルストイの『アンナ・カレーニナ』における競馬場描写の不満足な様子を語らせています。織田作自身は本作における競馬描写に自信を持っていたようで、「競馬」発表後、さまざまな媒体から競馬小説の依頼が来ても「あれ以上のものは書かれへん」と断っていたようです。
 
★17寺田の買つた馬は百六十円の配当
 前述したとおり馬券は1枚20円ですので、8倍の配当ということになります。
 昭和14年(1939)の白米10キロが3円25銭ですので、現在の価格約5,000円に直しますと約1,500倍、寺田は現在価値感覚で20万円以上を手にしたことになります。「小心な男ほど破目を外した溺れ方をするのが競馬の不思議さであらうか。」と、織田作は寺田が競馬にのめりこむ心理を見事に抉り出しています。
 
★18ノミ屋
結局寺田は、印刷屋の支払いも「ノミ屋」に取られてしまいます。ノミ屋とは私設馬券屋のことです。主催者以外で「勝馬投票券を発売したる者」は三年以下の懲役もしくは五千円以下の罰金、または両方を科すと定められており、政府はノミ屋に対して厳しい態度でのぞんでいました。にもかかわらず、ノミ屋の根絶にはいたりませんでした。分割購入が可能とはいえ馬券価格そのものが高額なため、ノミ屋で気軽に購入出来るということは買い手に相応のメリットがあったのです。また戦前の競馬法は払い戻しが10倍までと法的に「天井」が定められていたため、ノミ屋にとっても参入しやすい環境だったと言えるでしょう。
 
★19七日目
 寺田は徐々に競馬にのめりこみ、自らの周りのものをすべて現金化し馬券に変えていきます。そしてついに「七日目」には洋服を質入れします。競馬の日数は当初1開催4日間でしたが、徐々に増加し、昭和4年(1929)には6日間、昭和6年には8日間となり、単勝と複勝の発売が開始されました。そしていよいよ物語は淀の最終8日目を迎えます。
 
【参考文献】
麻生磯次・板坂元・堤精二校注『日本古典文学大系 新装版 好色一代男 好色五人女 好色一代女』岩波書店、1991年
五木寛之『風に吹かれて』KKベストセラーズ、2002年

<織田作之助が人気声優により令和の舞台に召喚される!>

無頼(ぶらい)

大大阪下のいちびり――人呼んで「オダサク」

出演:速水奨・木島隆一・堀江 瞬・今井文也/サックス演奏:佐々木晴志郎
《会場》
クレオ大阪中央 ホール
(大阪市立男女共同参画センター中央館)
《開催日時》
2022年9月25日(日)16:00開演(15:30開場)
★☆チケット絶賛発売中☆★
※詳しくは下記をご参照下さい。