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第19回|山小屋を買う

行動分析学を取り入れた「犬との暮らし方」にまつわる連載。犬と生きていくこととは、犬を飼うとはいかなることか。保護犬はると行動分析学者ボクの生活から、そのヒントをお届けします。*マガジンページはこちら

 車酔いを克服し、クレート訓練には失敗したが、クレートに入れなくても泊まれる宿を見つけることで、はるとボクの最初の旅行は千葉は館山に決定した。タナカも同行してくれることになった。

 大学3年生の春休み、ボクはパッソーラという原付きバイクで房総半島を一周した。いざとなったら野宿しようとザックに寝袋を入れ、西千葉の下宿を出発した。館山の手前で視界がなくなるほどのどしゃ降りにみまわれた。雨宿りしようかと迷っていると急に晴れ上がり、目の前には黄色い花畑が広がっていた。幻かと思った。ポピーという名前は後から知った。そのまま少し走って見つけた食堂のおばちゃんがバスタオルを貸してくれ、温かいお茶を飲ませてくれた。館山はボクにとってはそんな想い出がある街だ。

 あれから三十年。ボクははると一緒だし、車には寝具までたっぷりと積んである。雨に打たれることもなければ、カーナビのおかげで道に迷うこともない。車中は起業しようとしているタナカの事業計画の相談だ。社名候補をあれこれと出し合いながら、ボクは館山の昔の街並みを思い浮かべようとした。でも思い出せるのは花畑と食堂のおばちゃんだけだった。

 宿は砂浜に面していて、部屋の外が専用のドッグランになっていた。海岸を歩いていくと、曇っていはいたが、遠くに三浦半島と富士山が見えた。さっそくロングリードをつけて、呼び戻し訓練をやってみる。砂浜を走るのは初体験のはずだが、こころなしか、はるはいつもより高く飛び跳ね、尻尾も大きく振っているように見える。ボクもそのぶん笑顔になる。

 夕食前に温泉に入る。タナカが来てくれたおかげで、はるを部屋に残しても心配することなく、久しぶりにゆったりとした時間を過ごせた。

 夕食は食堂で提供された。食事は美味しかったが、ここでボクはやや居心地の悪い思いをすることになる。客はボクたちの他に4組くらい。すべてカップルで若い人たちが多かった。男同士はボクたちだけ。『おっさんずラブ』が放映されるのはまだ先のことになるが、必要もない言い訳をしたくなる気持ちになった。


 そしてホエーヌである。他の客の犬たちはみな小型犬だったが、吠えて、吠えて、吠えまくる。吠えるたびに「◯◯ちゃん、静かにしてね」と飼い主が声をかけ、膝に抱えあげたり、椅子の上に座らせたりしている。そりゃ吠えるわな。

 行動分析学には「学び手はいつも正しい」という格言がある。学び手が間違った学習をしているときは教え手がそうなるように教えていることが多い。まさに「ホエーヌはいつも正しい」のである。

 ボクたちは早々に部屋に引き上げた。部屋は広く、快適だったが、隣の部屋から犬の吠える声が聞こえたり、誰かが廊下を歩く足音が聞こえたりするたびに、はるは立ち上がり、耳を立ててソワソワした。家にいるのと同じようにはリラックスできていない。夜中も同じで、物音がするたびに起き上がる。つられてボクも目が覚めてしまう。

 翌日は、眠い目をこすって、海岸を歩いたり、近くの公園まで足を伸ばしたりした。いつもと違う風景や匂いに、はるはやはり喜んでいるように見えた。睡眠不足は大敵だが、こうなるとボクの顔はやはりほころんでしまう。

 その後もボクは『るるぶ』とネット情報を頼りに、千葉の勝浦、伊豆、草津、はるの第二の故郷でもある那須塩原と、ペットと泊まれる宿を探しては週末旅行を敢行した。はるはどこへ行っても、いつもと違う場所で散歩したり、走り回ったり、匂いを嗅ぎ回ったりすることを愉しんでいるようだった。そしてどこへ行っても、宿での居心地の悪さと完全にはリラックスできない緊張状態は解消されなかった。

 これより少し前、奥田健次先生が大学を退職され、軽井沢に学校法人を設立された。2018年にサムエル幼稚園を開園、2024年にさやか星小学校を開校する母体となる西軽井沢学園であり、その最初の一歩だった。御代田町で売りに出されていた研修施設を敷地ごと買い取った奥田先生は、2012年1月19日、杉山尚子先生、山本央子先生、そしてボクを、開所式に招待してくださった。この日は施設の売却を仲介した地元の不動産会社の社長さんのご厚意で、某大企業が売出していた宿泊研修施設に泊まらせていただいた。各部屋にシートが自動で開閉するトイレがついている高級リゾートマンションのような施設だった。山本先生は愛犬の察子さんと一緒だったが、ボクたちはみな、暖炉のある広い居間でゆったりとリラックスして過ごした。

 その夏、ボクらは西軽井沢学園で開催された第1回行動分析学道場の講師陣として再び御代田町に戻ってきた。ボクははると一緒に学園の合宿所に泊まらせていただいた。研修の合間、ボクと山本先生は、はると察子さんを学園のグラウンドで思う存分走らせて遊んだ。行動分析学道場はこの後、毎年の恒例行事となる。

 2015年の秋、前年から日本に進出し、評判になっていたAirbnb(エアビーアンドビー)という民泊システムを使い、軽井沢の別荘に宿泊してみた。タナカも同行してくれた。食事を自分たちで用意する手間はかかるが、ペットと泊まれる宿で感じた居心地の悪さは皆無で、ボクもはるも、西軽井沢学園開所式の晩のように、快適でリラックスした時間を過ごせた。ただ、宿泊費はそれなりにかかるし、はる用の寝具を持参しなくてはならないことに変わりはない。

 奥田先生にそのことを話すと「別荘をお買いになってはいかがです?」と不動産会社の社長さんのような口調で勧めてくる。広大な土地と施設を丸ごと買ってしまった奥田先生にとって、個人の別荘などもはや「ついで」くらいにしか映らないに違いないと思いながら、「いや、東京にある自宅のローンもまだまだ残っているし、貯金も全然ないから無理ですよ」と返した。ホントのことだ。それでも恐ろしいもので、ボクの頭の片隅には「別荘購入」というキーワードがしっかりとこびり付いた。



 行動的と衝動的、境目は時に曖昧である。翌月、ボクはまたAirbnbで軽井沢の貸別荘を予約した。そして不動産会社に連絡し、売出中の別荘をいくつか見せてもらうように依頼した。この時点でボクの購入意図はほぼゼロ。宝くじが当たったときの準備みたいな心持ちだった。ただ、ボクは毎週、次は必ず当たると確信して宝くじを買っている。買う気がゼロの完全な冷やかしとはそこが違う。冷やかし半分までいかなくても本気1%くらいと、本人は思っているのだ。

 当日、あらかじめ告げていた予算を元に、いくつかの物件を順に案内してもらう。はるも一緒だ。内覧していくうちに、ボクの予算では、それも手元にあるわけではない偽の予算だけど、軽井沢の別荘は到底買えないことがわかってくる。買えそうなのは築年数が不明というほど古く、床が抜けそうで、狭く汚い、そして夏しか使えない物件ばかり。Airbnbで借りた別荘のような物件はどうやら桁が違うらしい。

 「まぁ、こんなところですよね。ありがとうございました」と帰ろうとしたとき、不動産会社の担当者さんが「もう1件だけ見ていかれませんか」と言う。売出予定で清掃中、住所は長野県ではなく群馬県、家主の都合で年内に売却したいため、そのぶん価格も安く設定されるという。
 よくある手だなと思いつつ、時間もあるから観るだけならと立ち寄った。それが今やボクとはるがこよなく愛する山小屋である。

to be continued.

★プロフィール
島宗理(しまむね・さとる)[文]
法政大学文学部教授。専門は行動分析学。趣味は卓球。生まれはなぜか埼玉。Twitter: @simamune

たにあいこ [絵]
あってもなくても困らないものを作ったり、絵を描いたりしています。大阪生まれ、京都在住。instagram: taniaiko.doodle