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推し、希む。✿第42回|実咲

道長の娘で三条天皇の中宮妍子きよこが出産し、長和2年(1013年)7月6日に禎子さだこ内親王が産まれます。
皇子が誕生していれば、三条天皇と道長の関係改善の見込みもまだあったことでしょう。
しかし、産まれたのは皇女。「光る君へ」の作中ではため息程度だった道長ですが、実際は「喜んでいないのが明らかだった」と実資さねすけによって『小右記しょうゆうき』に書かれてしまっています。
いよいよ、道長は直接的に三条天皇に退位を迫ることになります。

道長が三条天皇に退位を迫った根拠の一つとして、病がありました。
三条天皇は眼病を患っていて、ほとんど失明に近かったようです。
丹薬たんやくを服用するシーンがありましたが、硫化水銀が含まれていて、これも悪化の一因だったかもしれません。
弱り目に祟り目は続きます。長和3年(1014年)2月9日には内裏だいりに火災発生。
相変わらずよく燃える内裏ですが、三条天皇はこの頃には片目が見えず片耳が聞こえずの状態だったようです。
政務を行うことに差しさわりがあると、道長からのさらなる「譲位!譲位!!」の圧を浴びることになってしまいます。

「光る君へ」の作中では、行成ゆきなりは道長から気持ちが離れている様子でした。
若かりし頃の道長とは違い、権力者として朝廷を牛耳り、孫の敦成あつひら親王の一刻も早い即位を願っています。
実資から道長がいさめられるシーンもありましたが、この頃実資は道長のことを「大不忠の人」と書いています。
一条天皇の時代から引き続き、道長の近くにいる行成はきっと心身ともに擦り減っていたのでしょう。
作中で行成は、欠員が出ていた大宰権帥だざいのごんのそちになることを道長に希望しました。
「これからは財を増やしたい」と言いますが、行成は都から距離を置いて静かに地方で暮らしたいと思ったのかもしれません。
大宰府といえば、流罪のイメージが強いかもしれませんが、作中でも紫式部の父為時ためときが越前守になった後では暮らしぶりは豊かになっているように、地方官というのは「儲かる」ものでした。
大宰府であれば、宋(中国)との交易なども金勘定に入るかもしれません。
行成の成人した息子のうち二人は地方官に転じているように、中央で出世を目指すより地方官を望む場合もありました。
長和3年(1014年)2月14日の『小右記』には、実際に行成が「欠員が出た大宰府の役職を望んでいる」という記事があります。

しかし、実際に大宰権帥になったのは隆家たかいえ
彼も三条天皇と同じく、眼病を患っていました。
そのため、宋から来る名医の治療を受けたいために九州へ行きたいと強く望んでいました。
長く支えてくれた行成と、差し迫った理由のある隆家。
かつての長徳ちょうとくの変では都を追われたことのある身ですが、すっかり大人になったということでしょうか。
道長は結局隆家の要望を受け入れる形となりました。
このことで行成は、さらに道長に対する心の距離ができてしまったのでしょうか。
ちなみに隆家の後任として行成は後に大宰権帥に任じられますが、実際に九州へ赴任することはありませんでした。
この時は道長の息子、長家を娘婿として迎えたため、家計に実入りが必要で、道長の配慮がある程度あった可能性があります。
翌年の4月に隆家は九州へ向かいますが、そこでとんでもない「何か」に遭遇することになるのです。

書いた人:実咲
某大学文学部史学科で日本史を専攻したアラサー社会人。
平安時代が人生最長の推しジャンル。
推しが千年前に亡くなっており誕生日も不明なため、命日を記念日とするしかないタイプのオタク。