ゲイと家族 第2回|自分にとって大事なものとは?|戸川悟
これまでのゲイ男性としての私の人生を振り返ると、一家離散の宿命を背負わされているのではないかと思わざるを得ない。
キースとの出会ったのは、私が日本語講師をしていたアメリカ中西部の田舎町だった。自分が西海岸や北東部の大都市圏に住んでいたら事情は違っていたのかもしれないが、私はあの田舎町で安定した職を得て定住するという決断や選択ができなかった。
悔やまれるのは、あのとき少しでもアメリカに残る方法を模索できなかったかということだ。結局、帰国して外務省の外郭団体に就職したのだが、私がもしも女性でお互いに異性愛者だったら、そのまま籍を入れて自分は配偶者ビザで帰化を目指すのは難しくなかったかもしれない。当時はアメリカでも同性愛者の婚姻は認められていなかったと思う。
しかし、宿命が一家離散とはあまり喜ばしいことではない。本当にキースと家庭を築きたかったら、どんなことをしてでもアメリカにしがみついて、あるいは2人で日本に戻って、一緒に暮らす方法を模索してもよかったはずだ。でも自分には、結局それができなかった。愛する相手とどうしても関係を最後まで成就させられない宿業の現れなのかもしれないと、これまで感じてきたところだ。
2人目の崇はキースと同様に、精神的な絆を築き、長期に保てた数少ない人間であるが、何を隠そう、彼は私と出会った時に女性と婚姻関係にあったのだ。そして、その後も彼の既婚者としての立場は私と付き合っている間、変わらず続いた。正直なところ、ここで書くことに今も迷いを禁じ得ない。彼の名誉のためにも、このことをここで道義的にどうこう言うつもりはまったくない。
崇が既婚者である事実は、2人の関係に常に影を落としていた。私は崇に対して、付き合いはじめた数年の間、本当に2人の関係を真剣に考えるのなら、きちんとケジメを付けてほしいと訴えたものだ。
しかし一向に行動に移せない崇に対して、いつしか諦めの気持ちが勝り、毎回かなりのエネルギーを使うこの話題を自分もいつのまにか言い出さなくなり、曖昧なままにしてしまっていた。これも家族や家庭というものを自分が築こうとすると、何かしらの壁が立ちはだかるという宿業の現れなのかもしれないと、考えてしまう自分がいた。
宿業と感じてしまいがちな背景には、刹那的な関係に陥りがちなゲイ同士の出会いという特性もあるだろう。いわゆる「ハッテン場」での性的な部分がなにより先行する出会いや、最近主流になりつつある、アプリを通した出会いにしても、出会いがあっても相手から返信が来ず音信不通になったり、軽く傷ついて終了を迎えることは多い。むろんその逆のことを自分がしている場合も否定はできない。
貧富の差こそあれ、ゲイ男性の多くは経済的に自立しているので、相方に対しても、男女関係ほどには、経済的安定というものを自然に持ち込まない場合が多い。ただ、これも自分が老後を意識する年になると、我々世代で受給できる年金の額からしても2人で暮らすことが経済的には安定感が飛躍的に増すのは否めず、身につまされる思いだ。
ゲイ同士の関係は、複数の相手と同時に付きあうことになりがちだと、ものの本で読んだことがある。それは確かに事実であろう。長年パートナーとして関係を維持し、中には同居も長いゲイカップルも多くいるのは事実だ。しかし、そのうちの多くの人が、パートナー関係のほかに性的関係を複数同時に維持しているという印象は否めない。「子どもを作らず養育もしないゲイに貞節を求められてもさあ、意味ないよね」とゲイの論客が話していたのが脳裏に焼き付いているのだが、それも否定しきれない自分がいる。
先にも述べた通り、現在自分も「婚活中」である。男女の婚活はどうなのか知らないが、複数の人とのコミュニケーションを重ねて相手との相性を占っているところだ。そうやって信頼関係を築いて強めて、最終的にパートナーと言える相手に巡り会いたい。
ただ、私にはどうしても根源的な不安、見捨てられ不安があるのも事実だ。一人の人に絞れない。失うのが怖い。身勝手な理屈だろう。ゲイのパートナーとの間には婚姻制度という法的枠組みがないことも不安の背景にあるとも言えるのかもしれない。
最近になって、応援するようになった保守政党がある。その政党は、「保守」とは何かという支持者の問いに対して、「大事なものを守っていくことだ」と説明していた。具体的に守るものとしては、身近には父母、兄弟、祖父母、広くは代々の先祖も含めた家系、そして配偶者、未来を築く子どもたちが挙げられていた。
それらの説明自体には否定できるものはなかったのだが、同時にゲイの一人として少し淋しい思いもした。自分に残されている大事なものとはなんだろうか、と突きつけられるものがあったからだ。自分にそうした守って残していきたいものがあればどれだけ良いだろうかと思う。そうした大事なものを模索してしている現在の自分の立場が、「保守」であることは自覚している。
次回以降は自分の半生を幼少期から時代を追って振り返って、1人の同性愛者の等身大の幸福や躓きといった経験を示していければと思う。さらには、現在の自分自身が同性愛者という特性を生きながらも、同性愛者である前に人として当たり前の幸福を必死に求めながら生きている現状を共有したい。
いま私は、当初に述べた過去に作り上げた2人の連れ合いと呼べる「相方」との関係に近い関係、あるいはそれを超える関係を現在進行形で模索しているわけだが、この文章を書く機会を与えられたところで、良い結果を報告できればと願っている。
(つづく)