見出し画像

ゲイと家族 第11回|ミシガン州で日本語を教える|戸川悟

さて、ある民間団体が主催する、アメリカの大学への日本語講師派遣プログラムに応募し、なんとか合格を勝ち取った私は、1990年6月首都ワシントンのダレス空港に降り立ち、そこから東海岸ペンシルバニア州へ移動、同州フィラデルフィア郊外の大学キャンパスに落ち着いた。

そこで2か月の間、他の合格者とともに、日本語教授法の重鎮的存在でもあった言語学博士、エレノア・ジョーデン教授から、日本語のみを使って日本語を教える方法につき、みっちりと研修を受けた。
それは視覚に訴える小道具を多用し、生徒にロールプレイをさせて、あたかも日常のような日本語会話を生徒が体験できる方法だった。当時、日本語講師に将来を見ていた私には大変興味深い経験となった。

研修後、私は中西部ミシガン州の片田舎にある、小規模ながらも地元の成績優秀な子息が集まるという私立大学に派遣されることになっていた。バックパッカー気分でグレイハウンドの長距離バスに乗り込んだ私は、その田舎の町に2日がかりで辿たどり着いた。その小さな大学の学生は、確かに経済的にゆとりがある比較的裕福な家庭の出身で、行動や振舞いに品が感じられた。

以前触れたように、私が大学生時代だった80年代後半、日本経済はバブル期にあり、世界第二の経済大国の地位を築いてすでに久しく、自動車産業を筆頭にアメリカをりょうする勢いだった。
特に1970年代から80年代にかけては、アメリカ自動車業界が燃費の良いコンパクトな日本車にシェアを奪われ、販売不振にあえいでいた。ミシガン州はアメリカ自動車産業の中心地で、とりわけ日本人を脅威として敵視する土壌も、色濃く存在したようだ。

私が派遣される8年前の1982年には、同州デトロイトでヴィンセント・チンという中国系アメリカ人が、日本人と間違えられ、クライスラーを解雇された米国人と口論になった末に、撲殺ぼくさつされるという痛ましい事件があった。
私はその事件のことを、後述する州立大学の社会学の講義で初めて知り、強い衝撃を受けたものだ。

私が派遣された90年代の初めには、日本への敵視はだいぶやわらぎ、アメリカの自動車業界が衰退した理由について、自らの欠点も含めて冷静に見ようとする動きも出てきていた。
それだけ日本という存在が、アメリカ人の間でも世界の中でも無視できないものとなり、日本からも良い点は学んだ上でビジネスをしようという姿勢が育っていたのだろう。

派遣された大学には、外国語の専攻はフランス語、スペイン語、ドイツ語しかなかった。しかし日本の存在感が増す中で、日本語の教室がその2、3年前から開講されるようになり、私のような人間が派遣されたというわけだ。

日本語講師としての私は、日本語学校で教えたキャリアもそれなりにあり、文部省(当時)の日本語教師検定試験にも合格していた。
企業への就職からの「逃走手段」としての日本語講師という側面は元々あったが、若く未熟ながら、外国人の生徒たちとのやり取りを通し、人生で初めてやりがいというものを真に感じられたのが日本語講師の仕事だった。実際に自分の天職だと感じるようにもなっていた。

一方、日本語講師として勤務先の大学から十分な給料は支払われず、月に6~7万円程度の手当が支給されるのみだった。修士号も博士号も持たない私が、短い研修を受けただけの臨時雇いの講師であったことを考えれば当然の扱いだろう。

派遣された大学は高い学費を支払う分、少数の学生に質の高い教育をほどこすのを売りにしており、日本語の授業に登録した学生は10人余りと少なかったが、私はそれまでの経験値をフルに使って、大学の名に恥じぬよう、学生が楽しくかつ覚えやすく学べるように自分なりに尽力した。
授業では、日本語しか使えない環境に、学生たちは適度な緊張も感じながら予習や準備をしてきており熱心であったし、私もいつか彼らが日本語や日本と縁をもってもらう仕事や生活をしてもらえることを願っていた。

その中の一人、マイケル(仮名)は明るい性格かつ笑顔が素敵で、走る事が好きなラテン系の好青年だった。私は心の中だけと割り切って、ひそかに彼に恋心を抱いていた。最近ネットで検索したところでは、50代になったマイケルは、地元のミシガンで日系企業に勤務している事が確認できている。

さらに日本人とのハーフの女子学生スーザン(仮名)は母親が九州出身だったが、家庭で英語のみで育ったため、日本語ができなかった。私が担当していた日本語のクラスに在籍して日本語に触れ、母親の故郷の言葉を学ぶ心づもりだった。私は彼女の両親に招かれ、その年の暮れの一晩をデトロイト近郊の彼女の家で過ごしたのだった。

若き日本語教師と学生たち(1991年1月頃、ミシガン州にて)

また、フランスからの留学生で、日本にも興味関心を寄せていたパスカル(仮名)もクラスの一員だったが、後に私が日本に帰国後、ばったり新大久保の街で偶然会って驚いたことがあった。日本人の彼女を作り、日本での滞在を楽しんでいるとのことだった。

このプログラムでは、講師として日本語を教える見返りとして、自分が修士号を取るためにかかる学費を、日本語を教える現場の大学が支援してくれる仕組みになっていた。
日本語を教えていた私立大学から30kmほど離れた場所にある州立大学に入学した私は、当初は英語教授法を専攻した。しかし、左翼運動に走った頃からの、社会の矛盾の解決に何かしら自分が貢献したいという願望が捨てきれず、その思いが社会学に専攻を変更する契機になった。

こうして、日本語講師としてクラスを受け持ち、自分の勉強にも気が抜けない公的な生活ができあがっていった。
その一方で、ミシガンの片田舎での刺激の少ないプライベートな生活に、だんだんと我慢できなくなってくる、若いゲイとしての自分が頭をもたげてきたのだった。
(つづく)

著者プロフィール
戸川悟(とがわ・さとる)
1967年生まれ。ゲイ男性。東京の大学を卒業するも就職して不適応を起こす恐怖感からアメリカ中西部の田舎町にわたり、小さなカレッジで日本語講師を2年間務める。その際、社会学修士号を地元の州立大学で取得。帰国後27歳で、外務省傘下の国際協力機関に就職したが短期で退職。その後、HIV感染者やエイズ罹患者を支援するボランティア活動を経て、精神障碍者の支援を行う福祉相談員として26年間勤務している。
これまで2人の男性と長年の相方となったが、現在は独り身。生涯の伴侶となるような新たな関係を追い求めている、還暦に手が届きそうなおじさん。