推しと、燃えたあと。✿第31回|実咲
「光る君へ」第32話では、寛弘2年(1005年)3月27日、一条天皇の長子である脩子内親王の裳着が行われる様子が描かれました。(裳着については第25回参照)
この様子は、『小右記』に道長が作中と同じく腰結の役を務めたことが記されています。
残念ながらこの日の『権記』の記事は簡潔なもので、「詳細は別に記す」とありますが、その「別記」は現在、伝わっていません。
ただし、この日の様子を行成自身が記した文書が宮内庁に所蔵されているので、いつものようによく働いていたことが推測されます。
また前回にもお話しした、寛弘2年(1005年)11月15日の内裏の火災も作中では描かれていました。
ここで一条天皇と彰子が燃える内裏に取り残され、二人は手を取り合って避難したという場面は『小右記』や『御堂関白記』にもあり確かな事実のようです。
この後一条天皇と彰子は仮住まいに移ることになりますが、この頃から二人の距離が縮まりだすのです。
さて、この内裏の火事はとんでもなく大変なものを焼損してしまいます。
宮中の賢所に安置されていた、三種の神器の一つ、「八咫鏡」です。
三種の神器とは、日本神話において天照大神が瓊瓊杵尊に授けた八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉のことです。
日本の歴代天皇が古代よりレガリアとして受け継いできた宝物です。
天皇の践祚(代替わり)の際に受け継ぐことで、正統な天皇である証とされていました。
じつは、この三種の神器は実物と形代として二つ存在するのです。(八尺瓊勾玉は実物しかありませんが)
現代でも実物の八咫鏡は伊勢神宮、草薙剣は熱田神宮にそれぞれ安置されており、この二つの形代と八尺瓊勾玉は宮中に安置されています。
即位の儀式の際には、この形代を使うことになっています。
この寛弘2年の火事の際に焼損したのは、形代の八咫鏡でした。
火事から一夜明け、焼け跡を捜索すると灰の中の瓦の上に、焼損した八咫鏡が発見されました。
すでに形を保っていない、変わり果てた姿となっていました。
そして、八咫鏡を新しく作り直すかどうかの陣定が開かれることになりました。
この時の結論は、実資の意見である「まずは様々な専門家に意見を述べさせるとして、改鋳するにしても他の銅と八咫鏡の残骸を混ぜるのはよくないのではないか。焼け残った八咫鏡をただ安置するべきなのではないか」にまとまったようです。
この後も改鋳については議論されますが、作り直すには至らず一部焼け残っている部分を八咫鏡として安置し続けることになりました。
なお、このボロボロになった八咫鏡のかけら。
三種の神器は行幸(天皇の外出)などで天皇が移動する際には、一緒に移動するのが本来のならわしです。
そのため一条天皇が火事のあと仮住まいへ移動する際にも持ち出されましたが、焼けたかけらを新しい入れ物に入れて部屋に置いたところ、入れ物の中から光りを放ち部屋一面が光り輝いたと『御堂関白記』・『小右記』・『権記』が伝えています。
時代が下って源平合戦の頃、平家が都落ちをする際に持ち出し、安徳天皇と共に壇之浦に沈んだのはこの焼け残った八咫鏡です。
この時は八尺瓊勾玉と共に源義経らの手で回収することができたそうですが、草薙剣はついに見つからず、その後は伊勢神宮から奉納された剣を形代とすることになりました。
陣定後、八咫鏡の実物を安置している伊勢神宮へは、勅使(天皇の使い)が経緯の報告に行くことになりました。
この勅使になったのが行成でした。
元々は行成ではなく源経房という者に決まっていたのですが、出発の前日に経房の屋敷で犬が出産したことで穢れてしまい、神聖な伊勢への勅使にはそぐわないことになり、急遽行成が行くことになったのです。
雨や雪の降る中、一条天皇の書状を懐に入れ、行成は伊勢へと旅立つことになるのでした。
帰京してからしばらくした後、行成は焼失した内裏の再建担当者に任じられるのです。