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ゲイと家族 第7回|セクト離脱とトルコ旅行|戸川悟

大学1年生の夏休みに、フィリピンのマニラや山奥での衝撃的な経験、事前の学習等を通して、不平等な世界の現実を体感した私は、アルバイトでお金をため、1年生の終わりの1か月、今度は同じフィリピンの南部、ミンダナオ島を単身でまわった。
左翼の活動家女性である幸田さんからすでに影響を受けていた私は、その1か月の見聞を通し、さらに世界の不平等と矛盾への疑問を深めていった。
 
私は当時、左翼セクトのアジトに出入りしていたが、そこには自衛隊に所属しながらも、隊内で反旗をひるがえし、「反戦自衛官」として名をせたような、まさに左翼の戦士代表と言えるような人たちもいた。
その彼らが反日帝にっていの革命の旗印を掲げ、闘争の現場としていたのが成田空港だった。さんづかと言われる空港周辺地域に残っている農家を支援し、空港の工事拡大を阻止するための、1960年代から続く闘いだった。
にわか作りの宿舎のような拠点となる建物に寝泊りし、公安警察関係の動きをそこから監視し、日中はヘルメットにサングラスの出で立ちで、学生中心にデモ隊を作って機動隊と対峙するのだった。
 
当時の自分は、活動家の先輩たちが説くような、史的唯物論に基づく共産主義革命が実現すれば、自分がフィリピンで見たような貧困に代表される世界の不平等は解決できるのだと真面目に信じようとしていた。
そのため大学に行かなくなった自分の選択も、その大きな革命運動の中ではちっぽけなことのようにとらえていた気がする。
 
子供の頃に父親から暴力を受け、父をうらむ気持ちを持ち合わせていた私にとって、こうした左翼運動に埋没することは、大企業に勤めるサラリーマン人生を歩む父親への反抗の意味合いもあったのだと思う。
父方の祖父は、戦前に東京の下町でストリップ劇場の雑役ざつえきをしていた。家は貧しく、父親はその長男として育った。太平洋戦争開始とともに、祖父は兵隊に召集され、南洋の戦線で危うく死をまぬがれ帰国したが、父親は疎開先の北関東のある町でそのまま暮らし、勉学にいそしんで学校の成績は優秀だった。
父は国立大学を卒業し、大企業に就職をして、日本の中流社会の豊かな生活を手に入れたと言える。
 
ただ、息子の自分にとって父は、自分に粗暴な言葉をぶつけ、その日の気分で殴る、叩くといった暴力を振るう恐ろしい存在であり、夜遅くまで会社のために滅私奉公する昭和の社畜しゃちくともいうべき存在にしか見えなかった。
戦後しばらくして戦地から帰国した祖父は、酒浸りの生活を続けていた。そもそも私の父自身が、子どもを愛する父親像というものを分かっていなかったのかもしれない。
 
私は左翼運動に足を突っ込むことで、どこか「日本帝国主義の一翼」を担う大企業のサラリーマンたる父親に復讐をしていた面もあったのだと思う。
私が左翼運動に関わり、大学に行っていないことを両親の前で暴露した時に、父親は大変いきどおり、そんな道に行かせるために大学にやったのではないと、親なら至極当然の反応をした。それを見た自分は父に対し、してやったりといった思いをどこかで抱いていたのだと思う。
しかし今思えば現実は、高い学費を親に払ってもらって成り立つモラトリアムにしがみついている、甘えた落ちこぼれ学生に過ぎなかったのだが、そこから私は目をらしていたといえよう。
 
一方で母親はただただ当惑し、とても悲しい表情を見せていた。それを見た時、一般的な人生の軌道から大きくれた今の自分をどこかで元に戻さねばらない、と一瞬思ったのも確かだ。
父親とは異なり、私は母から十分な愛情を受けて育ったという実感がある。母からの愛情を受けることにより、父親が発する破壊的な怒りの感情を何とか自分自身に取り込まずに、私は世間の人の常識や友人との情緒的つながりといったものを、保てていたのかもしれない。
 
実際に、左翼のセクトに出入りを重ねていても、自分の孤独感は解消されず、自分を活動に引き込んだ幸田さん以外には、心を許して話せるような人はできなかった。
そして根本的な問題は、足を突っ込んだ左翼セクトが行っている運動とは、テロ活動という破壊行為や暴力行為であり、世間の人にとっての迷惑行為が理想の実現のための手段として正当化されていることだった。テロ活動はゲリラ部隊の存在感を世界に示す機会であり、その行為によって迷惑をこうむる側の立場は眼中にはなかったと言ってよい。
 
時間がつにつれ、私にはそれによって世界の不平等が解消されていくようには感じられず、むなしさが残った。私の中の教条的な部分が「ねばならない」という部分で、テロ活動の正当性を頭で理解しようとしても、心情的な部分では「それっておかしいよね」という心境におちいらざるをえなかった。
 
機動隊と日々立ち向かう三里塚闘争以外にも、当時私が関わっていた左翼セクトが起こした事件がいくつかあった。
政府による「労働組合運動潰し」である、国鉄の分割民営化に反対して起こされた浅草橋駅の焼き討ち事件、さらには新宿区のとあるマンションから、先進国首脳会議が開かれていた迎賓館に向けてロケット弾が発射された事件なども、セクトの人たちは日帝に勝利したと威勢の良い声をあげていた。しかし私の中の常識的感覚とでもいうものが、納得してはいなかった。
 
どこか左翼活動家の自己満足のために、世間の人々が迷惑をこうむっているだけなのではないか、と感じていた。ある意味、左翼運動はテロ活動を正当化する「漫画」でもあった。幸田さんから誘われて関わった左翼セクトとは別のセクトの活動家とも接触をはかったものの、その疑問は晴れなかった。
 
ようやく私は、左翼運動とは訣別けつべつして、大学に戻ることを指向するようになっていた。
当時は学生のアルバイトでためたお金で1か月海外旅行に行くのは容易だった。格安航空券を手に入れ、私は2年生の最後の1か月、テレビで見て憧れていたトルコに旅をした。
 
行く先々で日本人の若い学生である自分を、トルコで出会った人々は歓迎してくれた。
首都アンカラの公園で出会った若者は、見知らぬ旅人である私を家に招いて食事をご馳走してくれた。夜間到着したメルシンという地中海沿いの町では、バスターミナルで働く同世代の青年2人が、その後2日にわたり、街や周辺の観光地を案内してくれた。
人々の親切、優しさに触れる最高の旅となった。ウルファというシリア国境に近い町では、やはり出会った青年たちに民族舞踊を披露してもらい、感動したものだ。
 
 今でもはっきり記憶に残る、印象深い人々との出会いにあふれたトルコの旅は、教条的な左翼の活動でガチガチになっていた私の心身をほどよくほぐしてくれた。
帰国後、私は大学の授業に戻り、必死に単位を取り戻すべく励んだ。突然私が授業に戻った姿を見て、同級生の女性たちはどよめいた。
科学研究会と名のついたサークルに出入りを始め、そこで友人作りに務めた。次第に友人の幅が広がり、一緒に軽井沢や韓国を旅行したり、学生生活を私なりにおうし始めたのだった。
3年生になった私は、同性愛的な出会いも、眠りから醒めたように求めはじめていた。
(つづく)

著者プロフィール
戸川悟(とがわ・さとる)
1967年生まれ。ゲイ男性。東京の大学を卒業するも就職して不適応を起こす恐怖感からアメリカ中西部の田舎町にわたり、小さなカレッジで日本語講師を2年間務める。その際、社会学修士号を地元の州立大学で取得。帰国後27歳で、外務省傘下の国際協力機関に就職したが短期で退職。その後、HIV感染者やエイズ罹患者を支援するボランティア活動を経て、精神障碍者の支援を行う福祉相談員として26年間勤務している。
これまで2人の男性と長年の相方となったが、現在は独り身。生涯の伴侶となるような新たな関係を追い求めている、還暦に手が届きそうなおじさん。