推し、旅立ち。✿第47回|実咲
ついにたどり着いた最終回、「光る君へ」の物語は万寿4年(1027年)12月4日、道長の死を描きました。
かねてより建立済みの法成寺で、阿弥陀仏の手から繋いだ糸を手に息を引き取りました。
そのご臨終の様子を詳しく描いて今に残るのは、作中でも赤染衛門が執筆していた『栄花物語』です。
権勢を振るった道長も、晩年は我が子にも先立たれていて気落ちしていたり、兄道隆と同じように糖尿病に苦しんでいました。
同じ12月4日、なんと行成もこの世を去っています。
出家し、寺に籠り、阿弥陀仏のお導きという準備万端状態で亡くなった道長ですが、かたや行成はなんともこれまでを象徴するような亡くなり方でした。
12月1日に突然倒れ、そのまま何も言い残すことなく、3日後に息を引き取ってしまったのです。
冬場の寒い中、隠所(トイレ)へ向かう途中倒れたとのこと。
恐らく血管だとか心臓だとか、その手の疾患が彼を襲ったのでしょう。
これ以前にも行成は体調を崩して政務を休んでいたり、灸治を行っていたりします。
行成はこの時56歳で、長年体をゆっくり休めることなく働いていた無理がたたったのでしょうか。
これまでの過重労働っぷりを思えば、あるいは過労死に近いものだったのかもしれません。
しかし、世間は道長が亡くなったことでいっぱいいっぱい、行成の死を悼む気持ちの余裕などありませんでした。
特に関白頼通は大変動揺していたようです。
道長の薨葬に行成を加えて、行成から天皇に伝えてもらってはどうかと伺いを立てた大外記清原頼隆の意見を退け、彼を宮中から退出させてしまうのです。
まもなく頼隆の勘当は解かれますが、頼通とて行成にはあれこれと世話になっていたはず。
いくら親の死に動揺していたとはいえ、冷たいと思ってしまいます。
権大納言までのぼっていた行成ですが、亡くなるタイミングが悪かったことにつきます。
死ぬ時までなんとなく報われない、かわいそうな男です。
誕生日が分からない行成なので、あっけなく旅立った突然死であるこの12月4日を、推しの記念日とするしかないのです。
この時すでに、源俊賢は半年ほど前の万寿4年(1027年)6月13日に亡くなっています。
長元8年(1035年) 3月23日には斉信が身罷り、最後に残された公任は長久2年(1041年) 1月1日にこの世を去ります。
一条天皇の華やかな時代を彩った俊賢・公任・斉信・行成の四納言は、その名の通り皆大納言・権大納言までたどり着きますが「誰も大臣になることなく」道長の時代を支えこの世を去りました。
つぶさにこの時代を『小右記』に記録していた実資は、90歳という高齢で同時代に活躍した中では一番最後になる、永承元年(1046年)1月18日に亡くなりました。
どんどん旅立っていく彼らのことを、どんな気持ちで見送っていたのでしょう。
「光る君へ」の物語は終わり、このnoteも次回が最終回となります。
摂関政治の時代から、どんなバトンが次につながれていくのでしょうか。