ゲイと家族 第8回|大学生日本語教師の日々|戸川悟
私の左翼運動時代は、ほぼ1か月をかけたトルコ旅行で幕を閉じた。
大学3年になると、私はまず卒業に必要な単位を取得することに集中した。
英米文学専攻だった私は、好きな英語に触れることは苦ではなかった。一般教養も含め圧縮された講義スケジュールにはなったが、ほぼ1年間、学業を空白にしてしまった分、やむをえなかった。
同時に、大学の友人関係を取り戻して新たな関係を作ることに、私は焦りの気持ちとともに注力した。
フィリピンでのキャンプを共にした友人の繋がりで、当時「山小屋」と呼ばれていた、燃えやすそうな古い木造建築の2階に部屋のあった科学研究会というサークルに出入りするようになり、そこから交流を深めていった。
科学研究会とは名ばかりで、左翼系の時事問題に関心のある学生が集まる傾向はあったものの、自分にとっては日々雑談をしたり、友人と出会い、交流を深める場だった。
そこで得た友人たちとの出会いは、留学生や他の大学の学生との交流にも広がりを見せた。
ドイツや韓国、台湾からの留学生とともに、途中、姫路城や宮島に立ち寄りながら、下関からフェリーに乗って釜山港へと、鉄道と船だけを使って韓国への旅をしたことも良き思い出である。
この時、その後の人生の方向に大きく影響を与えたのが、日本語教師の経験である。
それもフィリピンの山奥での経験をともにした友人、小川君(仮称)からの誘いがきっかけだった。
いまの日本に比べればはるかに数が少なかった東京在住の外国人に焦点を当て、彼はインタビュー特集を出版する企画を目論んでいたのだが、私に通訳として協力を求めてきたのだった。
英国やポーランド出身の外国人になぜ日本に来て暮らしているのか、日本の魅力や短所と感じる点などにつきインタビューを行った記憶が残る。
小川君は将来の職業選択として日本語教師を考えており、一緒にやらないかと誘われたのだ。
振り返れば左翼運動に走った1年間は、自分にその日の気分で暴力を振るう父親への反抗心が根底にあったと言える。日本語教師という道も、ある意味、そうした反抗心が後押ししたのは否めない。
当時バブル経済の絶頂で儚い繁栄を享受していた日本経済の中にあって、いくつものブランド力ある企業から内定をもらっていた周りの学生とは裏腹に、自分は卒業後いかにして、大企業への勤務というあらかじめ引かれた世間の軌道から逃れるかを模索していた。
それは父親への反発ということだけではなかった。元々、協調性に欠けたところのある私は、直感的にも企業内で組織人としてうまくやっていけるのか自信が持てず、ひたすら不安だったのだと思う。
友人とともに始めた日本語教師の仕事は、比較的最近まで特に資格は不要だった。
日本語学校が増え続ける中、私が働いていた学校は、当時まだ国際的な経済格差の大きかった中国大陸からの学生を主に受け入れていた。日本語学校で日本語を学ぶのを条件に、日本で働ける就学生ビザで来日した彼ら・彼女らの多くは日本でお金を稼ぐことが大きな目的だった。
学生たちは見事なまでに、上海、福建、広東の主に3地域の出身地別にグループが分かれていた。出身地ごとに言葉も違うのだから当然なのだろう。
ただ、その中に、児童文学を日本で学びたいという長年の夢を胸に来日し、真剣に日本語検定と日本の大学合格を目指す40代の上海出身の女性、リンさん(仮称)がいた。リンさんは日本での勉強を優先し、お子さんは中国で働くご主人に託してきていた。
私が授業で、同性愛者を肯定的に扱う新聞記事を学習素材として使った時も、リンさんは真面目に内容に関心を持ち、語彙や文法についての質問をいつもと変わらずしてきてくれてうれしく感じたものだ。
彼女といつも一緒に授業を受けていた、同じく上海出身の50代男性も真面目な学生だったが、文化大革命末期に新疆ウイグル自治区に政府によって送られた経験を私に話してもくれたのも印象に残る。
彼らとは小山君も含めて、食事に一緒に出かけて楽しいひと時を持ったこともある。
また、日本語検定試験に合格して、必死に日本の大学入学を目指し、いずれは日本企業への就職を目指す、広州出身の20代女性のルーさん(仮称)とは、友人と言える関係になった。
彼女の日本語に合わせながら、私たちは食事などに出かけて、様々なことを語り合った。ちょうど世界を震撼させた天安門事件の前後で、日本の選挙活動を実際に見聞して、日本がいかに自由であるかを語っていたのも印象的である。
ただ、学生アルバイトの立場とはいえ、学生とそうした個人的な付き合いをするのは、プロの眼から見れば公私の境が曖昧な行動だったと言えよう。
実際にルーさんは私に恋愛感情を抱くようになり、個人的な手紙も受け取るようになった。しかし、私はクリスマスも近い頃、正直に自分がゲイであることを伝え、彼女を泣かせてしまうに至った。
今振り返っても、ほかに好きな女性がいると嘘をつくよりはよかったと思う。事実、その後はルーさんとの良き友人としての交流は続いた。
彼女が比較的、そうしたことにオープンな性格で、中国の中ではまだ先進的ともいえる広東省出身というのもあるのか、時間と共に自然に私のセクシャリティについても受容してくれた。
ルーさんとはその後私がアメリカに渡ってからも手紙のやり取りが続いたが、今は途切れてしまっているのが惜しまれる。
リンさんやルーさんのような学生は、授業に臨むときの目つきや態度がほかと違っていた。私と小川君は、そうした学生に日本語を教えることに情熱も感じたし、交流を楽しんだ。
フィリピンでの原体験を経て、外国の人との交流や触れ合いに関心が高かった私は、純粋に日本語を教える仕事を心より楽しんでいた。
お金を稼ぐことに熱心な彼らの生活が、少しでも楽に豊かになればとの思いでいたことも紛れもない事実だ。
私の中の若者としての純粋さは、小川君とともに、日本語教師養成の専門学校と大学とを両立させるまでに駆り立てた。そして文部省(今の文科省)により1984年から始められた、日本語教師検定試験での合格も勝ち取ったのだった。
当時、多くの日本語学校の教授法や教師の質は不十分だった。
日本語養成コースを終えた私は、まだ大学生の身分だったものの、アルバイトで在籍していた日本語学校の質が低いことが即座に理解できた。
本来、外国人にとってわかりやすい教え方を追求するのが、日本語学校のあるべき姿勢だろう。
ところが、元々学習塾を営んでいた女性校長は、日本の小学校の国語で教える五段活用や上二段活用といった動詞の活用をそのまま教えている有様だった。教え方をめぐって、私と小川君は経営側とよく衝突したものだ。
今はもう違うのかもしれないが、当時の私の感覚では、決して給与では恵まれない日本語教師の成り手は主婦が大半を占めていた。男性が一人で家族を養うだけの収入を得るのは困難だった。
それでも、ゲイの自分は子どもを養うこともないだろうから、なんとかなるという思いを持てていたのだろう。
日本語教師として自立する道を模索し始めていた矢先、アメリカの大学で日本語を教えながら自分の勉強もできるという民間団体主催のプログラムが、大学キャンパス内の広報掲示板で目に留まった。
早速私はそのプログラムに応募し、合格の通知を受け取ることになる。
このように、左翼運動を離れて以降、他人との情緒的かつ人間的な繋がりを回復していく中で、ゲイとしての恋愛関係も回復していくことになるのだが、それは次回の話としよう。
(つづく)