推し、見る。✿第37回|実咲
ついに伊周の呪詛が明らかになった「光る君へ」第38話。
やはり、こういった悪しき思いを抱いている人の顔というのは、変わってしまうものなのでしょうか。
かつての華やかな貴公子のようだった伊周の姿はどこにもありません。
しかし、それに相対する道長も権力を手にすることで、随分と人相が変わってきてしまっています。
人の相貌に言葉にできない何かが出るというのは、なんとなく分からないでもないのです。
寛弘6年(1009年)5月28日、行成が彰子のところを訪れると、道長は敦成親王を抱いて行成に見せました。
待ちに待った初孫に、さぞ道長は得意満面だったことでしょう。
もちろんこの時、敦成親王は生後8か月ほどの赤ちゃんです。
この敦成親王の顔を見て行成は、「王骨有り」と思ったそうです。
これは、「王者の人相がある」といったところです。
はたして、それは真に行成に人相占いの才能があったのか、はたまた宮中の空気がそう見せたのかどうだったのでしょうか。
人相とはまた違って、昔から表層ではない場所に人の感情が表れると考えられているものに、「夢」があります。
現代では、夢は人の深層心理が作り出しているものだと言われていて、その人の精神や体の状態に結びついていることは実感としてよくわかります。
たとえば、恋しい人が夢に出てきたら、それは自分が夢に見るほど相手を思っているのだと現代では理解されるはずです。
ところが平安時代は、その逆だと考えられていました。
『源氏物語』の中では、朱雀帝の夢に桐壺帝が出てきたり、光源氏が亡くなった藤壺の夢を見たりする場面が描かれています。
どちらも、出て来た相手が夢を見た相手に伝えたいことがあったのだという解釈です。
心当たりがあるからこそ、夢に出るのではないかと現代の我々からしてみれば思う所ではあります。
行成は、『権記』の中で数々の夢について記載しています。それは、自分や他人を問いません。
忙しい業務日誌のような記述の中に、ふと入りこむさまざまな夢。
『小右記』や『御堂関白記』にも夢については記述がありますが、より細かく詳細に記録しているのが行成の『権記』の特徴です。
行成がまだろくな官職もなく、ほぼ無職だった正暦4年(993年)7月19日のこと。
行成は友人である源俊賢から「君に対するいい夢を見た」と伝えられます。
すると、しばらくたって行成は蔵人頭に見事抜擢されることになりました。
俊賢の行成を案ずる気持ちが、いい夢を見せたのかもしれません。
長徳4年(998年)7月16日には、行成自身が病に臥せ、生死の境をさまよっていた時の様子が本人によって記されています。
そんな最中に見たのは、強力の者が行成の腸を引きずり出す夢。
これはその時病んでいたのが、胃腸だったのでしょうか。
普段忙しすぎる行成ですから、ゆっくり養生してほしいものですが、病み上がりには一条天皇に「早く出仕するように」と言われてしまうおまけ付きです。
はたまた、長保3年(1001年)2月3日には、行成の友人である源成信が出家をする夢を見ます。
そのことを本人に直接問いただすと、「それは正夢だよ」と言われてしまいます。
そして、数日後に本当に成信は若くして出家をしてしまうのですが、友人ゆえにきっと「顔に出ていた」ことが行成になんとなく伝わっていたのでしょう。
彰子が敦成親王となる子を妊娠していた寛弘5年(1008年)3月19日には、お腹の子が「男の子だ」と喋るのが聞こえた夢を行成は見たそうです。
なんとしても皇子の誕生をと望んでいた道長に近しい行成ですから、無意識に影響されていたのかもしれません。
事細かに夢を記す行成。それは時に行成の心理状況や宮中の空気感を伝えるもののようです。
日々夢を記す行成だからこそ、哀しい予感のようなものを思い起こすことになりました。
それは「光る君」の作中の時間からもう少しあとの、ある大きな出来事があった日のことです。
行成は、夏だというのに大雪が降り積もる夢を見たのでした。
当時、夏の雪の夢は、よくないことが起こる報せといわれていました。
はたして一体それは、何の予感だったと行成はのちに解釈したのでしょうか。
その答えは、この後の物語の展開が指し示しているに違いありません。