見出し画像

ゲイと家族 第6回|フィリピンと革命運動|戸川悟

東京六大学の1つに文学専攻で進学した後の大学生活は、大きく2つの時期に分かれると言える。まずは自分の殻に閉じこもって左翼運動に引き込まれた疾風怒濤の1~2年生、そして友人関係が豊かになり、人との情緒的つながりをより重視していく3~4年生の時期だ。

入学して間もない1年生の夏にはじつに衝撃的な体験をした。
それはキャンパス内のチャペルが主催するある企画への参加だった。
一般学生が3週間ほどフィリピンのとある山奥にある、少数民族が住む村に滞在し、現地の人との交流を図るというその企画は、高校の受験勉強から解放され、大学で新たな体験がしたくてウズウズしていた若い私の冒険心、探究心をくすぐるのに十分足るものだった。

早速、入学後仲良くなった同学科の1人とともにその企画に応募したのだが、そこで得た体験は、本やテレビを通して見る世界とは異なり、五感すべてに強く訴えてくるものがあった。
参加にあたっては、事前の勉強会や読書が必須で、そこには、フィリピンを含めたアジアの国々に、日本は過去の戦争における「侵略」を通して、非常に迷惑をかけた歴史を知ることも含まれていた。
そのため、現地の人と接する際には、なにかしら日本人である自分が、過去に犯した罪を背負わされている感覚が常に横たわっていた。

フィリピン国民の多くが貧しい生活を強いられている背景には、米国による植民地支配、大日本帝国の侵略、戦後日本を含む先進国の大企業による搾取などがあるといったような歴史認識が私の脳裏に染みついていった。
どちらかというと、私には真面目腐った面があって、教条的な説明になびきがちだったため、ほかの参加学生よりも、そうしたしょくざい意識を強くしていたと思う。

昭和60年(1985)当時、日本はジャパン・アズ・ナンバーワンと言われ、バブル経済を目前に、空前の繁栄を享受していた時代だ。今より日本人の可処分所得は多く、豊かさを誰もが実感できていた。
今とは比べ物にならないくらい、日本とアジアの発展途上国との間には大きな経済格差があったのだ。

一方、そうした贖罪意識とは別に、外の世界の刺激を求める若い学生の1人として、私には初めての海外の旅で目にするすべてのことに発見があり、純粋な歓喜にあふれていた。
例をあげれば、マニラのジプニーと呼ばれる乗り合いタクシーに乗り降りする人々の躍動感にあふれた姿、スラム街の煙たなびくゴミの山、今や世界遺産となっているルソン島北部の山あいに延々と広がる千枚せんまい、そこに住まう少数民族の村で偶然出くわした共産党ゲリラと戦うライフルを背負った政府軍兵士の姿、珍しい外国人に飛びきりの好奇心で接してくれた村の子どもたちの笑顔など、すべてがそれまでの人生で決して目にすることのなかった光景だった。

私がホームステイで送られた山奥の村には電気もガスもなく、排泄はいせつをするのも、食用の豚を飼育している穴に向かって行うようになっていた。
一緒に村に派遣された同級生が、高床式の家屋のすぐ下の「ブタ便所」で大きい方の用足しをしている姿を私が目にしてしまう一幕もあったのだが、これは長い付き合いとなった彼からずっと責め続けられる出来事となってしまった。生臭なまぐささの残る鶏の血のスープのようなものや、犬やトカゲに火を通しただけの料理も記憶に残る。

この大学の企画は「ヒューマン・リレーションシップ・キャンプ」とも呼ばれ、現地の人との交流を重視するものだったが、実際には村の人たちにお世話になりっぱなしだった。
ただそこで五感をもって吸収した体験は、自分の世界や物の見方が広がるという意味で何物にも代えがたい貴重なものとなった。

一方で、その刺激にあふれたフィリピンでの体験が、物事を考える土台や基準になったことで、今から思えばややかたよった形で自分の世界観が作られていったのも確かである。
すでに述べたように、参加にあたっては日本人であることの贖罪意識を植え付けられ、その頃の自分の関心は、大学での講義の内容はもちろん、外部講師を招いた集会などでも、左翼系の色合いの強いものがほぼすべてだったと言える。

帰国後間もなく、1年生の秋ごろだったろうか、そうした集会に参加した折に、ある女性から声をかけられ、タバコの煙漂う昭和の雰囲気にあふれる喫茶店で、彼女から長時間話を聞くことになった。
その幸田さん(仮名)という女性は、当時はだいぶ下火になっていたとはいえ、「過激派」とマスコミから呼ばれる、共産主義を信奉する左翼セクトの活動家だった。
彼女は30代前半で、同じ活動家の男性と婚姻関係にあり、妊娠中であるにもかかわらずニコチン含有量の多いピース缶の両切りタバコを一気に何本も吸いながら、共産主義の理想を語り続ける強者だった。

フィリピンの刺激に富んだ体験を共有した仲間の2~3人とは親しい友人となったが、グループが苦手な自分はサークルには所属せず、日頃は割と孤立した学生生活を送っていた。
そんな中、幸田さんは「私たちの掲げる理想の社会は皆が平等な共産主義社会よ。その実現に向けては暴力革命は必須なのよ」とセクトの考え方を力説し、「あなたも迷いを捨てて仲間になって一翼を担ってほしいの。立ち上がってもらいたいのよ」と巧みに誘ってくるのだった。
いわば、世界の貧困や人々の不幸、不平等は、「米帝べいてい」や「日帝にってい」といった帝国主義の横暴な搾取が元凶であり、労働者たる民衆が革命を起こして世界の秩序を変えなければならず、その土台となるのがマルクス・レーニン主義であるとの理屈だった。世界の労働者団結の象徴たる革命の労働歌「インターナショナル」を何度歌ったことだろう。

フィリピンで目にした貧困や不平等な世界を五感で体験し、何とかその状況を変えられないかと自分なりに問題意識を持つに至り、純粋だった当時の自分には、幸田さんの説く革命に至る運動は、ちゅうちょしながらもかれるものがあった。
いつしか私はサングラスにマスクで顔を隠し、左翼セクトのアジトに出入りして、学習会やデモにも足を踏み入れるようになっていた。そして2年生のある時期から、大学の講義には行かなくなっていった。
さらにセクトの革命運動の大きな現場となっていた、成田空港、さんづかにも泊まり込みで足を運ぶことにもなった。セクト名の書かれたヘルメットをかぶりサングラス装着といったお決まりの身元隠しの出で立ちで、隊列を組んで機動隊にたいしたものだ。

一方でこの時期、これまで記述してきたような同性愛者としての恋愛経験は私の中で自然に封印されていたと言える。
それは私に本来備わっている生真面目さが、フィリピンでの体験や左翼運動への傾倒により強化されて、恋愛どころではなかったのかもしれない。

私の左翼的な物事の捉え方自体はその後も続いたのであるが、ただ、2年生も終わる頃、徐々に私は行動する左翼運動からは距離を取るようになった。
2年生の1年間を左翼運動に費やして大学からも離れていた空白を取り戻すべく、生まれ変わったかのように、友人たちとの繋がり、同性との恋愛を求めるようになっていったのだ。
(つづく)

著者プロフィール
戸川悟(とがわ・さとる)
1967年生まれ。ゲイ男性。東京の大学を卒業するも就職して不適応を起こす恐怖感からアメリカ中西部の田舎町にわたり、小さなカレッジで日本語講師を2年間務める。その際、社会学修士号を地元の州立大学で取得。帰国後27歳で、外務省傘下の国際協力機関に就職したが短期で退職。その後、HIV感染者やエイズ罹患者を支援するボランティア活動を経て、精神障碍者の支援を行う福祉相談員として26年間勤務している。
これまで2人の男性と長年の相方となったが、現在は独り身。生涯の伴侶となるような新たな関係を追い求めている、還暦に手が届きそうなおじさん。