推し、説く。✿第39回|実咲
中宮彰子は、一条天皇の心に寄り添いたいと漢籍の講義をひそかに紫式部から受けていました。その成果が実を結び、二人の気持ちは一層近づいたかに見えました。
しかし、一条天皇は在位25年となる寛弘8年(1011年)6月13日、31歳でこの世を去りました。あの夏の雪の夢は崩御(天皇が亡くなること)の前兆だったのだと、行成は後になって思い起こすのです。(第37回参照)
一条天皇にとって、自分が譲位(位を降りること)のあとの次の皇太子は、亡き皇后定子の産んだ敦康親王が本意でした。それは、彰子も同じ気持ちだったようです。
もちろん、順序でいえば第一皇子である敦康親王が皇太子になることは正しいことです。
しかし、彼の後ろ盾はすでに権勢を失った中関白家の中納言隆家のみ。
対する第二皇子敦成親王は、外祖父である左大臣道長が後ろ盾です。
後ろ盾が弱い天皇がどうなったのか、「光る君へ」を見ていたら記憶に残っていることでしょう。
そう、かつて花山天皇は後ろ盾の弱さから、一条天皇の早期即位をもくろむ兼家の策略によって出家することになりました。
仮に敦康親王が皇太子になったとしても、一条天皇が亡くなったあと、その先行きは火を見るよりも明らかでした。
一条天皇の病状を、道長は大江匡衡(赤染衛門の夫)に占わせました。
すると、病状どころか「崩御の卦」が出たとのことに、道長は動揺し涙を流します。
それをなんと、一条天皇本人に目撃されてしまいます。(うかつにもほどがある)
一条天皇は、自分の命が尽きようとしていることや、道長のある意味気が早すぎる行動を知りさらに病が重くなってしまいます。
自分が死んだ後のことをもう相談しているのですから、気力も尽きるというものです。
それでも敦康親王の立太子(皇太子になること)を諦めきれない一条天皇は、行成に相談をするのです。
もちろん、行成も一条天皇の本心のことは痛いほどわかっています。
まして、行成は敦康親王家の別当をつとめているのです。
しかし、最高権力者の道長が敦成親王の立太子を望んでいる以上、それを止めることは出来なかったのでしょう。
行成は、道長の思い通りになるように一条天皇を説得せざるをえない、まさに板挟みでした。その中で4つの理由を提示しています。
・皇統というのは、順序もあるが外戚の力が重要になる。道長は、敦康親王が皇太子になることを承知しないだろうということ。
・皇位継承は、人知を越えた神の思し召しがあるような状況になることもあること。
・敦康親王の祖母、貴子の生家高階家は、伊勢神宮に触りのある家だから祟りの怖れがあること。
・これから先、敦康親王が穏やかに過ごすには、それに見合った位や年給を授かった方がよいと思われること。
一条天皇が崩御する前から先回りにして、敦成親王の立太子を画策している道長。
もうそこに、道長が敦康親王を即位させてくれるであろうという希望など、微塵もなかったことでしょう。
彰子が父道長が順序を破り、敦成親王を皇太子にすることに激怒するシーンが作中にありますが、実際に彰子は「お恨みいたします」と道長に告げたと『権記』に行成は書き記しています。
一条天皇は、行成の説得もありついに敦康親王の立太子を諦めることになります。
次に即位する皇太子の居貞親王を呼ぶと、敦康親王の行く末を頼みます。
居貞親王は、言われなくともそのつもりであったと伝えたのでした。
一条天皇は、いよいよ危篤となりました。
その間際に出家(臨終出家)をするのですが、その際に僧たちが手順を間違え、髭より先に髪を落としてしまったという謎のミスが発生。
髭だけが残すと、「外道(人に災厄をもたらす悪魔)のように見える」とよくないことだったようです。
行成が一条天皇に漿水(重湯のようなもの)を差し出すと「一番うれしい」と言いました。
敦康親王の立太子という最後の希望を叶えられなくとも、一条天皇にとって行成は本当に心から信頼した臣下だったのでしょう。
そして、さらに行成を近くに呼び寄せると「自分は生きているのだろうか」と口にします。これが、一条天皇最後の言葉でした。
一条天皇の辞世の句は二種書き残されています。
いずれもこの和歌は「この世に君を置いて俗世を出ることが悲しい」という意味になります。
道長は「俗世に置いていく彰子宛だ」という理解をしています。
しかし、行成は「この(和歌の)心は、皇后宛だ」と記しているのです。
行成は、『権記』の中で一貫して「中宮」彰子と「皇后」定子を使い分けています。
そのため、おそらくこの「君」は亡き「皇后」定子のことなのだと行成は思っていることになります。
じつは、当時出産時に亡くなってしまった女性は成仏できないと考えられていました。
しかし、一条天皇は出家をして、亡くなった後にはいずれ成仏することになります。
だからこそ「成仏していない定子を置いて、自分だけが成仏してしまうのが悲しい」という意味だと行成は理解しているのです。
「光る君へ」では行成の書き残している辞世の句をとっており、「皇后」と確かに書き記す行成の姿がありました。
ちなみに、道長は一条天皇の「崩御」を「萌」と書いた誤字が、『御堂関白記』が残っていることにより現代に伝えられてしまっています。
さて、一条天皇の本心はいったいどちらにあったのでしょうか。