星の味 ☆21 “ふしぎなことです!”|徳井いつこ
ハンス・クリスチャン・アンデルセン。
「雪の女王」や「マッチ売りの少女」「赤いくつ」「人魚姫」といったお話をつくった人。
子どものころからあまりに親しんでいたせいで、ずっと昔の時代の人のように感じていた。
たった2世紀足らず前に生きていた人だった、と気づいたのは、フィレンツェの新市場のロッジア(開廊)に立っている青銅の猪を見た時だった。
「ポルチェリーノ」(幸運の子豚ちゃん)と呼ばれるその像は、アンデルセンのお話「青銅のイノシシ」のモデルで、彼はイタリアを訪れた際、じっさいこの像に目にとめて、乞食の少年の印象深い物語を生みだしたのだった。
アンデルセンは、一生のあいだにたくさん旅をしている。ヨーロッパを中心に、長い旅を29回。「旅することは、生きること」という言葉は有名だ。
旅人アンデルセンの面目躍如たるお話は、月の語りを集めた『絵のない絵本』だろう。
「ふしぎなことです!」という文章から始まる、あの物語だ。
若く貧しい絵描きが、街の狭い路地に暮らしている。友達もなく、窓から見えるのは灰色の煙突ばかり……。
ある晩、ふと窓を開け、外を眺めていた絵描きは、「懐かしい顔」を見つける。
「それは月でした。なつかしい、むかしのままの月だったのです。あの故郷の、沼地のそばに生えている、ヤナギの木のあいだから、わたしを見おろしたときと、すこしもかわらない月だったのです。わたしは、自分の手にキスをして、月にむかって投げてやりました。」
すると月は、まっすぐに絵描きの部屋に差し込んできて、これから毎晩、ちょっとのぞき込もうと約束する。
「“さあ、わたしの話すことを、絵におかきなさい”と、月は、はじめてたずねてきた晩に、言いました。“そうすれば、きっと、とてもきれいな絵本ができますよ”」
それからというもの、月は夜ごと訪ねてきて、「ゆうべ」「きのうのことです」「今夜」と、見てきたことを語り始める。33夜というもの、それが続くのだ。
月という、滑空してゆく天体の常で、語られるのは、地球上のあちらこちら、それも短い時間の目撃譚だ。インド、パリ、アフリカ、グリーンランド、イタリア、ドイツ、中国、ポンペイ……。
そして、月が画家の窓辺に滞在できるのはわずかな時間。ときに雲がひとつふたつ入り込んで、中断されることもある。いきおい話は断片や欠片の形状になる。
物語が人の手になるネックレスやブレスレットのようなものだとすれば、『絵のない絵本』のなかで月が語るお話は、いってみればルース* か原石のようなものだ。それがぽつぽつと並べられてゆく。ひとつぶひとつぶ、石の美しさに目を見はる。
33夜のうち10夜の登場人物は、子どもたちだ。
というのも、月は子どもが大好きだった。
「小さい子は、ことにおもしろいものです。子供たちがわたしのことなんかちっとも考えていないときにも、わたしはカーテンや窓わくのあいだから、たびたび部屋の中をのぞいています。子供たちがひとりで、やっとこ着物をぬごうとしているのを見るのはとっても愉快です。最初に、裸の小さいまるい肩が着物の中から出てきて、そのつぎに腕がするっと抜けでてきます。それから、靴下を脱ぐところも見ます。白くて固い、かわいらしい小さな脚が現われてきます。」
詩人アンデルセンの筆は、冴えわたる。『絵のない絵本』は、お話のかたちをとった散文詩なのだ。
なんとも忘れがたいのは、第24夜……。
コペンハーゲンのみすぼらしい家に、小さな男の子が住んでいる。彼が家じゅうでいちばん好きなものは、母親の紡車。けれども、ちょっとでも触ろうものなら、指先をぱんと叩かれるのだった。
ある晩、目を覚ました男の子は、父親と母親が眠っているのをたしかめる。
「たしかに、ふたりとも眠っています。そこで、小さな短い寝巻のまま、ぬき足さし足こっそりと紡車のところへしのびよって、つむぎはじめました。糸は紡錘から飛び、車はすばらしい早さでまわりました。
わたしはその子のブロンドの髪の毛と水色の眼にキスをしてやりました。それはほんとにかわいらしい光景でした。そのとき、母親が眼をさましました。〔寝台の周りの〕カーテンが動いて、母親が外をのぞきました。そして、小人の妖精か、さもなければ、ほかの小さな精霊が来ているのではないかと思いました。
“あらまあ!”母親はこう言いながら、こわごわ夫の脇腹をつつきました。父親は眼をあけると、手でこすりこすり、一心に働いている小さな少年のほうをながめました。
“あれはベルテルじゃないか”と、父親は言いました。」
月が目撃するわずかな断片。
しかし、そこから何という豊かさが流れでてくるのだろう。
アンデルセンは、貧しいながら幸福な子ども時代を送ったらしい。デンマークはフューン島の町オーデンセで、若い靴直しとその妻の一人息子として育った幼少期を、自伝のなかで回想している。
「靴屋の仕事台と寝台、それに私のねる折りたたみ式の寝台とでほとんど一ぱいのたった一間の小さい部屋が、私の幼年時代の家庭だった。」
「このような小さな場所も、私には大きくゆたかなものに見えた。風景画を一面にえがいたドアすらも、その当時の私には、こんにちならば一大画廊のように意義深いものであった。」
「父のハンス・アンデルセンは、何でも私の思いどおりにさせてくれた。私は父の愛をすっかり占領していた。父は私のために生きていたようなものだ! それゆえ日曜日など、ひまがありさえれば、私のために玩具をつくり絵をかいてくれた。夜には時々、私たちのために大きな声でラ・フォンテーヌの『寓話』やホルベーアの喜劇や『千一夜物語』を読んでくれた。」
ありあまる父の愛、語りを一身に浴びて、童話作家アンデルセンの心髄がかたちづくられたことは想像に難くない。
しかし、その父は11歳の時に病死する。
若い靴屋と再婚した母は、14歳になったアンデルセンを仕立屋にしようとしたが、彼はコペンハーゲンに行って芝居をやりたい、歌手か役者になりたいと主張する。彼を知る人々はみな呆れ、笑い、反対した。
「奇異なことが私にとっては真実であったから、何か信じがたいことを待ちもうける気持になっていた。」
断固反対だった母は、物知り婆さんを訪ねて、トランプと珈琲で占ってもらう。
「“あんたの息子さんはえらい人になりますぞ、”と婆さんはいった。“いまにオーデンセの町が、この息子さんのためにイルミネーションでかざられるようになるでしょう。”母はこれを聞いて泣きだした。そして、もはや私の旅行には何も反対しなくなった。」
歌手や役者になる夢は挫折したが、紆余曲折を経て、わたしたちの知るアンデルセンが登場する。齢すでに30代。
イタリアを旅し、ローマで書きあげた小説『即興詩人』が大きな反響を呼び、初めての童話集が出版された。
「青年時代が、本当をいえばこの時からはじまったのである。今まではただ流れにさからって泳いでいるようなものであった。三十五歳で私の生涯の春がはじまった。しかし、この春は曇った日もあり暴風も吹いたりして、天候の定まる夏にはまだまだであった。ひっきょう、それは熟すべきものを発育させようとする自然の意志である。」
自然の意志。この言葉は、深い。
春の嵐に耐え、夏の日照りを生き抜き、秋に果実を実らせる寡黙な樹木のように、ここには自分を超えた大きなものへの信頼が語られている。
「私の生涯は波乱に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しい物語である。」
自伝の最初におかれた、やや気恥ずかしいこの文章も、「自然の意志」と合わせて感じてみると、腑に落ちる。
人生は、メルヘン。
アンデルセンにとって、それは彼ひとりに限ったことではなかったのだろう。
『絵のない絵本』の第8夜。
空一面の黒い雲で、月の見えない晩に、月に代わって絵描きに、こんな言葉を語らせている。
「そうです、月にとって話せないようなことが何かあるでしょうか! この世界の生活は、月にとっては一つのおとぎばなしなのです。」
月の目で眺めれば、メルヘン。
だれの人生も、ひとしくそうだろう。
*ルース…研磨しただけの宝石で、装飾品に留められていないものを指す。裸石。