"シリョクケンサ"歌詞解釈 ─誰もが見ている虚像と、実像を伝えること─
1."シリョクケンサ"とは
"シリョクケンサ"とは2011年8月6日、40mP(別名義イナメトオル)によってニコニコ動画に発表されたボーカロイド楽曲である。歌唱はGUMI。2021年3月28日現在317万回再生を突破している。
イナメトオル名義のセルフカバーもある。こちらもだいすき。
筆者と同世代のボカロファンであれば知らぬ人はいないであろう、言わずと知れた名曲である。叙情的な旋律、切なげなGUMIの歌声、歌詞の構成、たま氏の手がけるMV、全てに何年経っても色褪せない魅力が詰まっている。筆者はBメロ最後サビ前が大好き。
さて、ここでは筆者なりの歌詞の解釈を書いていきたいと思う。昔から歌詞が好き!と思っていたものの深く考察するには至っていなかったし、よく考えたらきちんと歌詞を理解して聞いていなかったと思い立ったのだ。
2.はじめに
まず前提として注目するのは二点。"シリョクケンサ"というタイトルとMV内のGUMIがメガネを掛けていることである。この曲の歌詞はMV内の男性の一人称視点で語られている。僕=男性、君=GUMIである。男性が白衣を着ていることから医者の立ち位置がイメージとして与えられていることがわかる。よってこの曲は"僕"の心情を医者(=僕)が患者(=君)を検査する場面に例えたものだということがわかる。またGUMIがメガネを掛けているということは、既に目を悪くしている患者であることがわかる。"君"に何かの問題点があることを医者である"僕"が語るのだ。
それでは具体的に歌詞について考えていく。以下歌詞を公式動画から引用する。ここでは一回目Aメロ〜サビを一番、2回目Aメロ〜サビを二番、Cメロとラストサビを三番と考える。
3.一番歌詞
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隠した方の左眼に
どんな僕を映し出すの
開いた方の右眼だけじゃ
本当の僕は見えないでしょ
シリョクケンサ 二重線の僕が 悪戯に微笑む
忘れないで 君の中に 偽物の僕がいる
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GUMIは目隠しをしてランドルト環の隙間を答える視力検査を受けている。この時点でランドルト環="僕"のことであることがわかる。MVを見ると「二重線の僕」では"僕"がぼやけるように映っている。後に「偽物の僕」が出てくることから、「二重線の僕」とは本当の"僕"がうまく見えてない状態であることがわかる。"君"は本当の"僕"をきちんと認識していないし、"君"の認識している"僕"は偽物であるということだ。
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指さしで教えてよ
君の眼には見えてるんでしょ
僕の心の隙間が
ぼやけて見えるのなら
目を閉じて構わないから
君が思うままに
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サビではランドルト環の隙間を"僕"の心の隙間に例えている。"君"にも何となく"僕"に心の隙間があることはわかっているんだろうと思っているようだ。心の隙間が何なのかは断言出来ないが、ここではあえて空虚感とでも言っておこうか。彼女は彼がなぜそう感じているのか理解出来ていない。だから隙間がぼやけて見えるのだ。
「目を閉じて構わない」という言葉から「見なくてもいい」という諦めの心情が見て取れる。同時に「君が思うままに」としていることから、「君は見たくないんだろう、見ようとしないんだろう」という決めつけるような気持ちが見られる。
彼の空虚感の理由は、"僕"は「"君"には本当の"僕"が見えていない」と孤独を感じていることだろう。何故孤独を感じているのか理解出来ていない"君"に対し「君が見たくないなら見なくてもいい」と投げやりな気持ちで諦めているのである。「指さしで教えてよ 君の眼には見えてるんでしょ」という言葉は失望や嘲りを込めた攻撃のようにも思える。MVでGUMIに非難するように向けられる指さし棒が印象的だ。
4.二番歌詞
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正しく僕を愛せるように
君の眼を矯正(ただ)したくて
使い古したその眼鏡(グラス)じゃ
本当の僕は見えないでしょ
シリョクケンサ 消えかけの僕が 悲しげに微笑む
忘れないで 君の中に 本当の僕がいる
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君さっき「目を閉じて構わないから」って言うてたじゃないか!!!!
そう、二番で"僕"の心情は変化するのである。一番では諦めていたが、やはり本当の"僕"を見て欲しいのだ。ここで注目したい言葉は「使い古した眼鏡」である。どうやら"君"の目がうまく見えないのは古い眼鏡のせいらしい。眼鏡と言えば色眼鏡という言い回しもあるが、参考に筆者の手元の辞書から以下に引用してみよう。
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いろ めがね【色眼鏡】
① 色ガラスで作った眼鏡。[サングラスはその一種]
②偏見や先入観にとらわれた、物の見方。「─で人を見る」
『新明解国語辞典 第六版』三省堂 山田忠雄主幹 他 (二〇〇八年発行第十六刷)
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順番が前後してしまうが先にCメロの歌詞を見てみる。
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少しずつ見えなくなった
あの頃は見えた景色
変わったのは君のほうか
それとも自分のほうか
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このCメロと「使い古した眼鏡」という言葉から、二人の関係には時間が経過していることがわかる。一緒にいる時間が長くなる程、相手のことを知ったような気になるのは人間関係の上で陥り易いことだ。"君"は知らないうちに"僕"に対し「自分の知っている"僕"」を押し付けてしまったのだろう。"僕"からすればそれは自分の虚像であり偽物なのだ。"君"が古い眼鏡(=先入観)を取らない限り、本当の"僕"は見えないままだ。だから"君"の中の本当の"僕"は今消えかけてしまっており、どうか忘れないでほしいと語っているのである。
では歌詞の続きに戻ろう。
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目に映るものだけを
信じることしかできない
僕も君も同じだ
だからこそ今だけは
その心に焼き付けてよ
君が知らない僕を
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眼鏡を掛けた君には本当の僕は見えない。"僕"はそう考えていたが、この歌詞の部分に入ると悟り始めているように見える。「自分も含めて、誰もが自分の目に映ったものしか認識出来ない。」当たり前だからこそ、それぞれが自分の目しか信じていないことに気が付かない。それを知った"僕"は、"君"に君が知らない僕=本当の"僕"を焼き付けて欲しいと願う。
5.三番歌詞
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少しずつ見えなくなった
あの頃は見えた景色
変わったのは君のほうか
それとも自分のほうか
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一番では"君"に本当の"僕"を見てもらうことを諦める心情、二番ではやはり忘れて欲しくないという心情が語られた。このCメロは云わば回想である。あの頃から少しずつ変わってしまった二人。しかし"僕"はここではたと気付く。変化したのは彼女だけなのか?もしかしたら自分だって変わってしまったのかもしれないと思い至るのだ。
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指さしで教えてよ
君の眼には見えてるんでしょ
僕の心の隙間が
ぼやけて見えるのなら
この胸に手を当て
君に伝えるから
本当の僕を
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ここで一番サビと同じ言葉を繰り返す。
"僕"の隙間がわからないのならそう教えて欲しい。"君"に僕の孤独がわからないなら、"僕"が"君"に「本当の"僕"」を伝えるようにするから。僕は最後にそう決意する。そう、伝えなければ伝わらないことに彼は気づき一歩踏み出したのである。"僕"が"君"を抱き寄せる姿が感慨深い。
ここでの「指さしで教えてよ」には、きっと君も気づいてくれているよね?という信頼が現れているように思える。MV一番と逆転し"僕"に向けられた指さし棒が、"君"からの答えを道標として求めた結果のようにも感じさせる。
6.解釈まとめ
この曲は主人公である"僕"が、"君"が認識している虚像の"僕"と本当の"僕"とのギャップに悩み孤独感を感じながら考えを変化させていく物語になっている。一番では"君"を批判し、失望や嘲り、諦めの心情を語っている。二番ではやはり"君"にわかってほしいという思いを持つようになり、誰もが自分の色眼鏡で世界を見ていることに気がつく。そして三番で、孤独やすれ違いを乗り越えるためには"伝えなくてはならない"ことに気が付きその為に一歩踏み出すのだ。
6.おわりに
だーーーーっと書いてみたことで自分の解釈が纏まったが、40mPの構成力に改めて感激することとなった。物語はもちろんだが、それを歌詞として完成させているのが流石である。主人公の心情の変化を、同じ歌詞で表現しているところが最高に素敵だ(「指さしで教えてよ」)。イラストもきちんと逆転して描かれているし…。そもそも"シリョクケンサ"というタイトルからこんな物語が出てくるなんて想像もつかない。中高時代に物理の授業で実像や虚像の話があったが、そこから連想されたのだろうか。物理的な実像虚像の話、哲学的な自己の存在の話が絡み合ったこの曲。もっとそのあたりについて掘り下げたかったが勉強不足で無理でした。とにかく40mPさんは凄い…。
あえて触れなかったのだが、きっとこの曲は恋愛の歌なんだと思う。別れてしまう恋人達のすれ違いのきっかけは、「眼鏡」のせいであることが多いのかもしれない。相手が見ている自分の虚像と、本当の自分とのギャップに苦しむことは対人関係で起こりうる事だ。ただ、その時素直に「それは私じゃない、本当の私はこうだ」と言える人間は果たしてどれくらいいるだろうか。一番で本当の自分が見えていない彼女を批判する主人公だが、引っくり返せば主人公だって彼女のことをちゃんと見ず向き合わず決めつけていたのだ。この曲の主人公は気付くことが出来たが、実際にそんなこと出来る人はきっと少ないと思う。この二人が今後どうなるかわからないけど、きっと分かり合えるんじゃないかと思える希望の歌だと思った。
相手のことをちゃんと見るとか知るとか、或いは見てもらう知ってもらうこと。結局一方通行では成り立たなくて、向き合って伝え合わないと始まらない。世界で一番そばに居る恋人であっても、または家族であっても。
相手の中にいる自分は本当に偽物なのだろうか。相手と関わる以上、相手というフィルターを通った自分が存在するのは当然のこと。瞳に映るもの全てが本当だと言えないか?などと考えたりもするも、哲学等の知識がさっぱり無いのでこれ以上はやめておこうと思う。もっと勉強していきたい。とりあえずおしまいです。