【科学者#051】科学の歴史から消されそうになった、能力で男性科学者たちに認められた女性科学者【リーゼ・マイトナー】
現在日本における女性科学者は20%にも満たないわけですが、世界中の科学者を見ても50%に近い国はそれほど多くはありません。
この科学者シリーズでは女性科学者としては、第25回目ではマリ・キュリーを紹介しました。
今回はマリ・キュリーと同じ時代を生き、科学の歴史から消されそうになったのですが、自分の能力で男性科学者たちに認められた女性科学者であるリーゼ・マイトナーを紹介します。
リーゼ・マイトナー
名前:リーゼ・マイトナー(Lise Meitner)
出身:オーストリア
職業:物理学者
生誕:1878年11月7日
没年:1968年10月27日(89歳)
業績について
マイトナーは、オットー・ハーンと共にプロトアクチニウムに関する研究を行いました。
当時ウランは原子崩壊すると、あるものに変化し、その後さらに崩壊してアクチニウム(原子番号89)になると考えられていました。
マイトナーとハーンは、特定の結晶形態をもたない、ピッチ状の油脂光沢をもった閃ウラン鉱(せんうらんこう)の変種であるピッチブレンドを硝酸で溶かして得られた二酸化ケイ素の沈殿物の中に、タンタル(原子番号73)に似た物質が含まれていることを発見しました。
そして、この二酸化ケイ素の沈殿物から、アクチニウムを1917年に発見します。
さらにマイトナーは、この沈殿物をフッ酸や濃硫酸を使って分離させることによって、ある物質からα線を放出していることが分かり、この物質からアクチニウムが生成されることを発見しました。
そして、この物質をプロトアクチニウムと名付けました。
生涯について
マイトナーは、ユダヤ人のコミュニティに生まれ、育ちがよく控えめで、人前では引っ込み思案だったと言われています。
物理や数学が好きだったマイトナーですが、ウィーンでの学校教育は、当時女性は高等教育を受ける制度がなかったので、14歳までしか学校に通うことができませんでした。
そのためマイトナーは、私立の塾で大学入学資格試験の学科の勉強を2年間学びます。
そして、1901年23歳入学資格を取得し、ウィーン大学で数学と物理学を学び始め、理論物理学のルートヴィッヒ・ボルツマン(1844ー1906)の講義に興味を持ちます。
1905年には博士号を取得し、その後もウィーン大学で研究を続けます。
マイトナーは、1906年に『アルファ線とベータ線の吸収について』、1907年には『アルファ線の拡散について』の論文を発表します。
実は1906年にはボルツマンは自殺で亡くなっているので、指南役はボルツマンの助手が行っていました。
1907年の秋には、ベルリン大学のマックス・プランク(1858ー1947)のところに行きます。
しかし当時プロイセンでは女性の大学入学が許可されていなったうえ、さらにプランクは女性の社会進出に対してとても否定的でした。
そこでプランクは、聴講生として講義を聴くことを許可します。
マイトナーは、はじめはプランクの講義がボルツマンとは対照的で、事務的なもので失望します。
しかし、プランクやその家族と親しくなってからは、プランクの誠実な人となりに感銘を受けることになります。
オットー・ハーンとの出会い
ある日マイトナーは、実験室に空きがないかと実験物理学研究所の所長に尋ねます。
そこで、4ヵ月だけ年下のドイツ人のオットー・ハーン(1879ー1968)がマイトナーと共同研究をしてみたいと言い、紹介してもらいます。
ハーンは、自分が所属する化学研究所の所長であるエミール・フィッシャーに(1852ー1919)了解を求めるのですが、フィッシャーは研究所は完全な女人禁制であると怒ります。
そのため、マイトナーが『地下の木工小屋にとどまり、決して研究所に足を踏み入れない』という条件で最終的には許可します。
ちなみに、物理学者であるマイトナーは分析的で、理論的だったので系統立てて考えるのが得意でした。
これに対して化学者であるハーンは、直感的でかつ実験技能に秀でていました。
マイトナーとハーンは放射性崩壊の生成物を対象とした論文を、1908年の29歳には3編の論文を発表し、1909年には6編の論文を発表し、学会で名を残します。
1912年には、カイザー・ウィルヘルム研究所が開設し、マイトナーとハーンはこの研究所に移ります。
その後プランクがプロイセンの大学で、はじめてマイトナーを女性の助手として採用し、翌年にはマイトナーは研究員に昇格しハーン・マイトナー研究所ができます。
実はマイトナーが研究員に昇格するために、もともと女性が研究所に入ることを反対していてフィッシャーが影で尽力していました。
1914年にはプラハからマイトナーに引き抜きがあったのですが、フィッシャーは給料を倍にすることで、マイトナーを引き止めます。
1914年7月28日からは第一次世界大戦が勃発し、ハーンは召集され戦地に行くことになります。
1915年の夏には、マイトナーはオーストリア軍のX線技師および看護師に志願します。
マイトナーが研究室に戻ってきたのは1916年10月で、翌年の1917年には物理学部長に指名され、マイトナー研究所とハーン研究所に分かれます。
1918年にはウラン鉱石から得た二酸化ケイ素の残留物にアクチニウムの〈母〉物質を見つけ、マイトナーとハーンは2人の名前で論文を提出し、この〈母〉物質をプロトアクチニウムと呼ぶことを提案します。
1919年にはドイツではじめての女性教授として任命されます。
1920年にはハーンと共同研究を円満に解消します。
1921年にはコペンハーゲンに招かれ、ボーア研究所でベータ、ガンマ、スペクトルの研究についての講演をします。
1935年には、マイトナーはハーンのような実験に秀でた人間が必要だと考えたので、ハーンを説得します。
そして、助手のフリッツ・シュトラスマン(1902-1980)をチームに入れてた3人は、超ウランや中性子のエネルギーと核反応の関係について多くの結果を発表します。
第二次世界大戦とハーンとの関係性
1933年4月には、ヒトラーが全てのユダヤ人を公務員から追放したため、マイトナーはオーストリア人であることで、かろうじで追放を逃れます。
しかし、1938年3月12日にはヒトラーがオーストリアをドイツに併合したため、マイトナーは「ドイツのユダヤ人」になってしまいます。
そのため、研究所内のナチ党員が攻撃を仕掛けてきたので、ヨーロッパの中立国の物理学者たちがマイトナーの逃亡の準備を行います。
そして、マイトナーが60歳のときの1938年6月13日の夜に、スーツケースひとつでベルリンを離れることになります。
その後は、ボーア研究所に滞在した後に、8月1日からストックホルムのノーベル研究所で働きはじめます。
1944年には、「原子核分裂の発見」に対して、ハーンが単独でノーベル化学賞を受賞し、そこにはマイトナーの名前はありませんでした。
もしも、第二次世界大戦がなければハーンとマイトナーが共著で論文を出して、ノーベル賞を受賞していたかもしれませんでした。
しかし第二次世界大戦が終わった後も、ハーンは核分裂の発見につながったマイトナーとの共同研究をひたすら隠し続けます。
さらにハーンは、講演や執筆、インタビューでも発見は自分一人の業績だと強調しマイトナーを科学史から消そうとします。
このことは、マイトナーをひどく傷つけて、「ベルリンでの私の31年はすべてなかったものになってしまう」と言いますが、マイトナーは名誉回復のための運動は起こさなかったです。
1966年のマイトナー88歳のときには、ハーン、シュトラスマン、マイトナーの3人が、アメリカ合衆国原子力委員会のエンリコ・フェルミ賞を受賞します。
マイトナーという科学者
マイトナーが亡くなった15年後の1982年に、マイトナーを讃えて「マイトネリウム」(Mt)と命名することが提案され、1994年に承認されます。
これは、女性として単独で元素周期表に名を残したのは、今のところマイトナーだた1人になります。
女性の大学進出がまだ喜ばれていなった時期に、マイトナーは逆境ながらも実力で地位を勝ち取りました。
しかし第二次世界大戦もあり国を追われ、さらに戦後も歴史から消されそうになりますが、最終的には誰もが認める科学者となります。
今回は、科学の歴史から消されそうになった、能力で男性科学者たちに認められた女性科学者であるリーゼ・マイトナーを紹介しました。
この記事で、少しでもマイトナーについて興味を持っていただけたのなら嬉しく思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?