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【科学者#025】マスコミの情報に悩まされたノーベル賞を2度受賞した女性科学者【マリ・キュリー】

ノーベル賞を受賞した女性は全体の約5%ほどしかおらず、まだまだ少ないです。
さらに2022年時点では、ノーベル賞を2度受賞した人は5人しかいしません。
そして、その両方に当てはまる人と言われるとまだ1人しかいないです。
今回は、マスコミからの攻撃に長年悩まされ続けた、ノーベル賞を2度受賞した女性科学者のマリ・キュリーについてです。


マリ・キュリー

マリ

名前:マリ・キュリー(Maria Salomea Skłodowska-Curie)
出身:ポーランド
職業:物理学者・化学者
生誕:1867年11月7日
没年:1934年7月4日(66歳)


業績

放射線の研究

マリは2度ノーベル賞を受賞しているのですが、1度目は物理学賞で、2度目は化学賞になります。

マリは1897年にベクレル線の研究を始めます。

ベクレル

ベクレル線とは、フランスの科学者のアンリ・ベクレルが発見した、ウラン元素に由来すると考えられる放射線のことを言います。

マリがこの研究を始めたときの研究部屋というのは、夫であるピエール・キュリーが教えていた学校の一階にあり、壁がレンガでできた砂だらけの倉庫でした。

1898年7月にはポロニウムを発見ています。
このポロニウムは、マリの祖国であるポーランドに敬意を表してピエールと2人で名前を付けました。

さらに、1898年の暮れにはラジウムを発見しています。

1903年12月に、ピエールとマリとベクレルにノーベル物理学賞を授与することが決定します。
受賞理由は、『アンリ・ベクレルが発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべき功績をあげたこと』についてでした。

1911年に、マリは化学賞を受賞します。
この時の受賞理由は、『ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究』についてです。



生涯について

幼少期~結婚まで

マリは、貧しい教師夫婦の1男4女の末娘に生まれました。
ちなみに母親は学校の校長先生でした。

15歳で中学校を卒業したあとは、私立の大学で勉強します。
大学では実験室を使い物理や化学実験の楽しさに目覚めます。

大学のあとは、住み込みの家庭教師として働きます。

1891年の23歳のときにパリに出て、ソルボンヌ大学の理学部に入学します。
この時期は貧しかったため、ろくに食事もできなかったですし、暖房がないので全ての服を着こんで寝ていたりもしました。

3年後には数学士の試験に学年2番の成績で合格し、その後は学位取得のため勉強を始めます。
その時に広い実験室を使いたく紹介してもらった施設で、当時35歳のピエール・キュリーと出会います。


ピエール・キュリー

ピエール・キュリー(1859-1906)は、医者から実施で教育を受けた父親の次男として誕生します。

14歳になるまで家庭教師や父親、4歳年上の兄から教育を受けます。

16歳でソルボンヌ大学に入学し、18歳で卒業します。

24歳のときに物理化学学校の教師になり、そして35歳のときにマリと出会います。

ピエールはそれまで出世に興味がなかったのですが、マリとの結婚を考えて大学の就職を目指し、1895年の36歳のとき、ソルボンヌ大学に学位を取るため学位論文を提出します。

同じ年にピエールは学位を取得し、7月にマリと結婚します。


ノーベル賞の受賞

1897年マリはベクレル線の研究を始め、1898年にポロニウムとラジウムを発見します。

1902年には、ノーベル賞にマリとピエールの名前がはじめて挙がります。

ブシャール

その時推薦したのは物理学者でも化学者でもない、フランス医学アカデミーの会員で病理学者のシャルル・ブシャール(1837ー1915)でした。
しかし、この年は受賞できませんでした。

翌年の1903年は、マリは意図的にノーベル賞の推薦から外されます。

マグナス・グスタフ・(ヨースタ)・ミッタク=レフラー

この時、スウェーデンの科学アカデミーの数学者であるマグナス・グスタフ・ミッタク=レフラー(1846-1927)がマリを擁護してくれます。

そのおかげもあり、アンリ・ベクレルとマリ・キュリー、そしてピエール・キュリーの3人のノーベル物理学賞授与が決まります。

順調にキャリアを積んできたきたキュリー夫妻ですが、1906年4月19日に、夫であるピエールが馬車に轢かれて亡くなってしまいます。

1911年に、マリのノーベル化学賞の授与が決まります。



マスコミの攻撃と第一次世界大戦

1910年マリはマスコミから連日攻撃されることになります。

理由は、マリと研究仲間だった物理学者のポール・ランジュバン(1872-1946)とマリの恋愛が発覚したからでした。

このポール・ランジュバンはピエールの葬儀では弔辞を述べ、その後もマリの身を案じていました。

最初は友人のひとりとして話し相手になっていたのですが、当時ポール・ランジュバンは妻との折り合いが悪かったのもあり、数年後友情から愛情に変わっていったと言われています。

そして、このことが新聞の一面で取り上げられると、群衆がマリの家を取り巻いたり、投石されたりしました。

さらに、1903年のノーベル物理学は夫の仕事を手伝っただけという事実に反する記事が出たりもしています。

そんなことがあり、1911年12月29日にうつ病と腎炎で入院してしまいます。


1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発します。

マリの研究所のスタッフは兵士として招集されてしまいます。

マリは、戦争で受けた銃弾や破片などが人体に食い込んだときに、手術前に異物を事前に確認できれば生存確率が上がるのではないかと考えます。

そして、X線撮影設備の普及に力を入れ始めます。

マリは自動車にX線撮影設備と発電機をのせた車をつくり病院をまわりました。

そして、この車は次第に軍の中で「プチ・キュリー」と呼ばれるようになります。

マリが設置したレントゲン設備は病院で200か所、自動車では20台でした。

その後1918年11月に第一次世界大戦が終結します。



後進への指導

1920年には、キュリー財団が設立されます。

マリはアメリカに行き、多くの鉱物サンプルや分析機器類、そして資金を得ることに成功します。

この資金を手に入れたことにより、マリはパリのラジウム研究所を放射能研究の中心にしようと思い指導していきます。

研究所は性別、国籍を問わずに、色々なスタッフを抱え、マリは彼らの指導に多くの時間を割きます。

1934年5月体調が悪くなり検査したところ、最初結核の疑いがあるという診断だったのですが、血液検査の結果は再生不良性貧血でした。

これは、長時間の放射線により被爆したのではないかと考えられています。

しかしマリは生前、放射線被爆による健康被害は決して認めませんでした。

そして、1934年7月4日にフランスで亡くなってしまいます。



マリ・キュリーという科学者

マリの残した直筆の論文や料理本には放射線物質が含まれており、今もなお鉛でつくられた箱に収められ保管されています。

当時は、放射線の健康的被害は良く分かっておらず、放射線により亡くなってしまった科学者はマリほかにもいます。

マリは放射線により、もしかしたら早く亡くなってしまったのかもしれませんが、その研究や、そしてその生き方が、多くの人に影響を与えたと言っても過言ではないと思います。

実は、マリとピエールの間には2人の娘がおり、そのうちのひとりが科学者でノーベル賞を受賞しています。

夫を急に亡くしたり、研究以外でマスコミの注目を浴びたりと苦労が多い人生だったと思いますが、その人生の中でレントゲン設備を充実させたり、後進のため多くの時間を割いたりと、残してくれたものが数多くあります。

そんな、ノーベル賞を2度受賞した女性科学者のマリ・キュリーを知って頂ければ嬉しく思います。

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