Bチーム列伝. 〜常久・時安〜謝順風・陳信亨〜イヒョンス・ヤンチンハン〜
優勝したイヒョンス・ヤンチンハンはいわゆるBチーム。 国際大会におけるBチームとは開催国に与えられるワイルドカードを得て個人戦のみに出場する選手を指す。ちなみにアジア競技大会、東アジア競技大会には開催国枠はない。
Bチームからの1999世界選手権の謝・陳。そしてこのイヒョンス・ヤンチンハンの2例と以前書いたが、実はもう一例ある。1969年(昭和44年)に東京で開催された第7回アジア選手権での常久・時安だ。このアジア選手権は今のアジア選手権とは系統が違い、現在の世界選手権の前身、1956年に第一回、以後2年毎に9回開催されている。アジア選手権といっても日本、韓国、中華民国(台湾)の3カ国対抗。70年代に入りアメリカンスクールへの普及活動を機にワールドワイドな普及に乗り出した軟式庭球界はこのアジア選手権を発展的に解消し、1975年に世界選手権を創設したのである。
現在のアジア選手権はアジア競技大会への参加を睨んで1988年に第一回大会、以後4年毎(世界選手権の翌年)に開催され、この第6回大会は2008年に韓国ムンギョンで開催されている。
イヒョンス(タルソン)、ヤンチンハン(ソウル)ともに国際大会は初出場。ヒョンスはプロ一年目だった。ヒョンスは代表選抜戦でキムキョンハンとのペアで次点。キョンハンはシングルス代表選抜優勝のキムドンフンのダブルスパートナーとして団体戦メンバー(つまりAチーム)に入った。ヤンチンハンは代表選抜でそのヒョンス・キョンハンに敗れている(ペア ハンジェオン)。
イヒョンス・ヤンチンハンは篠原・小林のパッキンに入り4-0で快勝(篠原・小林のペアとしての国際大会デヴュー戦であった)。ベスト4は前年の世界選手権と同様に地元韓国が3ペアを送り込んだ。残る1組が中堀・高川というのも同じ。
1969大会では真逆で開催国日本が3ペア(加藤・清水、安達・石塚、常久・時安)で韓国がエースのイギチュン・ハムカンス1ペア。ハムは前々回の個人チャンピオン(パク・ハム)でその強さは伝説的だ。そのイ・ハムは準決勝で日本のエース加藤・清水(前月の天皇杯優勝ペア)に5-0の完勝。しかし決勝は伏兵の学生ペア(日大)常久・時安が5-1で快勝した。当時の報道によると熊埜御堂監督は常久・時安を完璧だった、と讃えながら、準決勝で加藤・清水がやぶれた時点でなかば諦めムードであったことを率直に吐露している(時安選手は以降 アジア選手権、世界選手権個人に4大会連続優勝(1969,1971,1973,1975)の大偉業を達成することになる)。
2008年大会ではイヒョンス・ヤンチンハンが準決勝で韓国代表選抜優勝のベテラン(ただし初出場)のチョソンジェ・ソミンキュに快勝。日本のエース中堀・高川は韓国代表選抜2位(第二代表戦第一位)のイゾンウ・キムテジョンに楽勝(力んだイゾンウが自滅)。決勝は極め付けのビッグネーム中堀・高川と無名の新人の対決となった。聞きそびれたが韓国首脳は1969年の熊埜御堂監督と同じ心境になったのではないだろうかと思うのである。
1999年での謝順風・陳信亨は事情が違う。ともに90年前後から代表として活躍し、1994アジア競技大会の団体優勝メンバー、広く知られた選手でありBチームには居てはいけない強豪だったのである。1999年の台湾男子の強さが知れる(無失点優勝)。決勝で敗れたのはなんの因果が2008年と同じ中堀・高川であった。