明日また、同じ場所で
明日、僕らはこの部屋を出ていく。
いろいろあったね。ありきたりな言葉を、それでいて大切に響く温度でそうつぶやきながら、妻は「ツ、」と指でなぞる。
この部屋で一番、思い出が詰まった場所を、さっきからずっとなぞっている。
結婚してから3度、引っ越しをした。二人とも物を捨てられない性質で、引っ越しのたびに「ここぞ」と手放すものを整理してきたからか、すぐには思いつかない。
ない、かもしれない。そう言おうとしたとき、妻の言葉が重なる。「あ、あった!このガジュマルはそうだよね」。ガジュマルは熱帯地方に生息するクワ科イチジク属の常緑高木だ。ガジュマル買ってきた、と妻に鉢を見せられたとき、てっきり勝手に名前をつけたのかと思ってしまったっけ。
久しぶりに思い出した記憶につられて、初めての二人での旅行が蘇る。旅行先の北海道で妻が記念にと土産に選んだのは、謎の置物だった。「なんだかあなたの顔に似てると思って」。10年前のことなのに鮮明に覚えている。もちろんこの謎の置物もカウントされた。
10年前は二人とも駆け出しのウェブデザイナーで、初めて二人で住む都内のアパートの家具は、それぞれの実家からの「持ち寄り」だった。自分に関して言えば、シールがいたるところに貼ってある学習机まで持ち込んだくらいだ。
終電まで働き、持ち帰って仕事。二徹くらいなら軽くこなしていたことを思い出して苦笑する。なかなか時間の合わない新婚生活で、揃っての食卓では必ずこんな部屋にしたい、あんなインテリア置きたい、などと話すのがたのしかった。
しばらくして小金も溜まり、初めて二人でアパートに買った家具が、ソファだった。欲しいものを「せーの」で口にしたら、二人ともソファだったのだ。僕も妻もソファのある家に住んだことがなく、素敵な暮らしといえばソファ、そんな憧れがずっとあった。
広いとはいえないアパート で、「二人で座れて、で、ひとりで寝っころがれるやつにしよう!」を条件に“ひらべったいソファ”を探す。小さな部屋を圧迫しないような、自分たちの小さな二人暮らしにバッチリなものを。だが、その途中で「家族が一人増えてもいいように、二人掛けじゃなくて三人掛けにしない?」という妻の提案で、このソファを選んだのだった。
だから“これ(ソファ)”、は、考えるまでもなく、ずーっとあった。三度の引っ越し、つまりは 「思い切りの良すぎる三度の断捨離」を乗り越えて 。だが、引っ越し先の新居に向けて、実はもう少し大きなソファも買ってあった。新しい生活の節目だから、と1つ目のソファと同じ場所で買った。1週間後に新居に届く。それでもこの10年来のソファを連れて引っ越す予定だ。
「そりゃ捨てられないよ。この10年の食後の定位置だもん」。数年前に独立し、いまは夫婦ともに自宅でウェブデザイナーの仕事をしている。日中も夕飯後も、食べた食べたと腹をなでながらソファでくつろぐのが日課になっている。これぞ幸せ太り、とおどけるのも日課だ。
“こんまり”に言われたって捨てられないよ、ともう一度心の中で呟く。アパートでの新婚の暮らしがはじまって1年半ほどして、家族が増えた。生まれてまもないほやほやの息子をソファに寝かせたり、授乳したり、抱っこしながらテレビを見たり。自分のいない日中、息子と二人だけで過ごす時間の「心強い相棒なの」と言っていた、大切な場所を。
・・・
「あしたてんきにな〜れ!!」と、ちいさな怪獣が掛けながらやってくる。今日の“魔法の杖”は昨日デパートでもらった、風船についていたプラスチックの棒らしい。
3歳になる娘は最近なにかと「〇〇にな〜れ!」と家中に魔法をかけている。兄になった息子には鬱陶しがられることもしばしばだ。小学2年生になり、ここのところ放っておけば 永遠にポケモンの話をしている。「ルカリオ」という格闘ポケモンがいまのお気に入りのようだ。伝説、幻、最強という言葉に弱いのだという。
「魔法使いもいるし、引っ越し日和になりそうだね」。 明日の引越しを前に、いつの間にかいつもの場所に全員集合。「今回は家を買ったわけだし、もうきっと引っ越すことはないって考えると、不思議な感じ 」と妻は言う。「でも、引っ越しがないってことは、これ、また向こう何十年もあるってことになるのかな?」。
断捨離、ほんとは私たち二人とも超苦手だし、と言いながら、明日からまた新しい部屋でにぎやかな日々を積み重ねていく“これ”を、まだ指でなぞりながら。
【物語に登場したソファ】
Bench 3人掛け
Illustration by fujirooll
Text by SAKO HIRANO (HEAPS)