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アイヌの葬儀にみる、あの世観

先日、高橋繁行さんの「アイヌの土葬・和人のとむらい」というミニ講演会に参加して、ある発見をしたので、それについて述べてみたい。

アイヌ文化についてはこれまで何冊かの本を持っていて、民族を区別する本質は言語だという思いから中川裕『アイヌ語辞典』まで購入して、持っているのに、なんとも自分の中に入ってこないというか、腑に落ちないというか、しっくりこなかった。たくさんある本も読み切ったことがない。

そんな中、このミニ講演会に参加してみようと思ったのは、なんとか自分の関心とのとっかかりをつかみたかったからで、参加してみて大いに感ずるところがあった。そして、どうも私たちは勘違いしているかもしれないと感じたのだった。

その一端は、アイヌと和人というけれど、和人(ここではアイヌからみた和人つまりシャモのこと)なんてもうどこにもいないのだということだ。私たちは自分たちを和人と考えているけれど、決して和人なんかではなく、日本人(現代日本人のこと)という別のものになってしまっている。
土葬なんて、今の日本のどこにあるというのだろうか? 高橋さんの著作によると、もうほとんど日本全国見られないという。だからこそ高橋さんは『土葬の村』(講談社現代新書)を書き残したしたのだ。滅びゆく弔いの風習として。

おそらく、和人の弔いへ向かう視線も、アイヌの弔いへと向かう視線も私たちにとって等距離にあるのだ。決して和人側から見た視線などではなくなっている。どちらも、異文化といえば異文化になってしまった。

アイヌ文化における死の儀礼の復興;紛争解決、共生、行為主体

そこで、この関心に触れるような文言はないのかと、ネットで探してみた。すると北海道大学文学研究科紀要に煎本孝という人の同上の論文を発見して、読むことができた。
この論文の主旨は、民族紛争の解決の過程として伝統的な死の儀礼を復活することで可能となるという主旨の報告になっている。
なぜ、そんなことが、民族間紛争の解決になるのかという疑問はさておいて、和人とアイヌの民族間紛争であったとしても、日本人とアイヌの紛争の解決にはなりえない、と思う。たんに差別があった、あるだけの話であり、紛争ではないだろう。(まっ、そこは突っ込まないで先へすすもう)

(註:ここは誤解があったらいけないので、少しだけ書き加えておくと、すでにナショナリティのことを問題にしているのであって、エスニシティのことではないのだという認識にある。日本人という国籍の問題であって、そこにはいろいろな民族はいるという事実なのだから。様々な民族に人が暮らしていて、同じ日本国民なのだ。まだまだ、日本人は単一民族だという意識のひとが多いけれど、それは現実とちがっているしまたそう考えるべきではないと思うから)

この論文の主旨はともかくとして、そこに記されている弔いの具体的様子は、先日高橋さんに聞いた弔いの実際を補強する知見であったことは間違いがない。

文字にしてくれているので、そこを引用してみる。

すなわち、人の死後、屍体洗いと死者に死装束をさせるという屍体の処置が行われ、火の神と死者への誦呪と哭泣、死者への供物、死者と生者の訣別の会食が行われる。また、凶報通知と弔問、来弔者への饗食がなされる。墓標の製作と墓地に持参するための水汲みの儀が行われ、墓壙の準備がなされる。そして、死者への訣別が行われ、屍体が包装される。墓地への葬送が行われ、屍体は埋葬される。

アイヌ文化における死の儀礼の復興;紛争解決、共生、行為主体

このような過程で行われるのだけれど、この過程で行われる所作が日常とは逆であるということだ。
例えば、イナウ(木幣)というアイヌの祭具は柳の木を削って箒のような形にする祭具だけれど、本来は上から下に削りだして房をつくるのを、下から上に削りだして作る。
屍体を家から運び出すときは、玄関からではなく、窓から運び出す。
使っていた茶碗は割る。割るというのは、もうこちらに帰ってきても食べる茶碗はありませんよという意味ではなく、向こうで食べれるように割ってしまうのだ。割っておくと、この世では使えないけれどあの世では使えるという逆になっている。
同じことは、家についても言えて、仮小屋をつくって弔うが、終わると燃やしてしまうというのは、同じ意味だろう。あの世で住む家なのだ。

そこを煎本はどう記述しているかというと次のようだ。

アイヌの世界観におけるあの世が、この世界とは逆転しているという考えから、死装束や神々への礼拝の仕方も普通とは逆の作法で行われる。また、あの世へ持って行くために、器物を破壊することにより霊を解放するという思考に基づいた霊送り儀礼が見られる。

同上

器物を破壊することが、霊を解放すると言っている解釈は異論がのこるが、逆転していることには違いがないだろう。

そこで、気づいたのが、『土葬の村』を読んでいた時に、逆さ湯というのがあったことだ。湯かんという遺体を清める作業があるけれど、そこで使うお湯は、お湯に水をくわえて適温にするのではなく、逆に水にお湯を加えるという。

どの村でも湯かんに使う湯は、水に湯を注いだものを使った。これをサカサ水という。今でも日常生活で、水に湯を入れると「縁起でもない」とお叱りを受けることがある。それは葬式のときだけに行うサカサゴトの作法だからである。

土葬の村 p-32

このサカサゴトは湯かんだけでなく、サカサ帯という後ろで結ぶはずの太鼓帯を前に持ってきている例を紹介している。高橋さんに伺えばもっとたくさんの例があるのだろう。

さかさ湯については、アイヌではどうですかとミニ講演会の質問でお聞きしたが、それについてはまだ聞いたことがないとのことだった。次回お会いする機会があれば聞いてみるとのことだった。

先の煎本論文でも、湯かんはでてくるので、湯を使うことは間違いがないのだろう。

なぜ、このサカサゴトにこだわるのかというと、煎本もいうようにあの世はこの世とは逆なっているとの認識があるからだ。
つまり、逆立ちしているのだ。

当のミニ講演会でも、「この世とあの世はつながっているというのが、アイヌの文化ですか」という主旨の質問があったけれど、高橋さんは「いや、つながっていない」ときっぱり発言しておられた。

私もそう思う。つながってなどいないのだ。
切れている。
アイヌ文化に我々とは違う、自然との一体感とともに、あの世も含めた一体観を持つと考えるのは勝手だけれど、そんな風にはできていない。

手ごろなところでは、梅原猛、藤村久和『アイヌ学の夜明け』(小学館ライブラリー)に葛野辰次郎、浦川タレを交えての座談「アイヌの古老に訊く」があり、「あの世とこの世」という説で、次のように話している。

藤野 それにこの世とあの世は、夜と昼が逆ですから、夜、送ればあの世へは昼間、明るいときに着けるからではないですか。
葛野 そういうことをいいますね。
藤村 それに聞いたことですが、昔、夏死んだ人には皮の着物を着せて送ったといいますね。それはこの世とあの世では季節が逆でこちらの夏はあの世の冬になるかるだと。
浦川 どこかでそういうことをやっていたのでしょうね。浦河ではそういう話を聞いたことはありません。
葛野 静内でもありませんね。
梅原 死者に着せる着物はやはり左前に着せますか。
葛野 そうです。全部逆に着せ、供えるものは全部傷つけます。
梅原 傷つけた方があの世へいきやすいのでしょうかね。
藤村 たとえば茶碗でも割ると魂が抜けるといいますね。そしてその魂があの世へいくわけですから受け入れられる。今でも使っていたのと同じままでは、魂はそこから離れないから、あの世にいけない。また紐も結んで送るとあの世でほどけないから、結ばずにひっかけたりはさんだりして送りますね。

『アイヌ学の夜明け』p-169

この世とあの世が逆になっているとはいいながらも、煎本では「霊」となっていたのが「魂」になっている。アニミズムを意識してのことなのだろうか。しかし、なんとか梅原、藤村の自分勝手に考えるアイヌ像に引き寄せようとする発言が見られ、それは全編に及んでいる。
また、葛野、浦川も引き寄せられて相づちを打っているところがあるが、総じてそのような主観ではなくて、事実だけを丹念に拾い上げる作業をしていくとアイヌ文化でも、その土地その土地の違いがあったとしても、日常とは逆の所作で執り行う点は共通していることがわかる。
まして、それはアイヌだけではなく和人にもあったということを知るのだ。

むしろ、和人と呼ばれた頃の民俗とつながっているのだ。
火葬にするという現代日本人の一般的な葬儀では見られないのではないだろうか。

その逆になっているというのは、縄文から受け継いだ文化で、アイヌが先なのか和人が先なのかというとおそらく、縄文から受け継いだアイヌの方が先なのだろう。

日本列島の民俗形成についての仮説は、おおざっぱに言うと、まず古モンゴロイドの人たちがやってきて、縄文文化というものを作っていた。そこへ紀元前200年ごろから、新モンゴロイドが北九州あたりから入ってきて、縄文人を北へ追いやっていったというものだった。その新モンゴロイドと呼ばれる人たちというのは、東京の弥生町で発見された土器の形状から弥生と名付けられた人たちである。このことが言われ始めて、縄文文化と弥生文化の対立的な関係で考えれられるようになった。
そこには、『日本書紀』などの歴史書が大きくかかわっていたことは間違いんないだろう。蝦夷、土蜘蛛などの表現があったから。
しかし、1980年代ぐらいから、日沼頼夫の『新ウイルス物語』によるATLキャリア(成人T細胞白血病の分布状態から、列島中央にはキャリアの人は少なくて、辺境に多いことから、渡来人は縄文人と混血しながら勢力を拡大していったのではないかとした。この日本列島の民俗性は二重構造になっているとしたのだ。
日沼は次のような仮説を述べている。

 まず仮説を提供しておきたい。日本列島の北海道・本州・四国・九州および沖縄に広く分布するATLウイルス・キャリアの先祖は、日本の先住民であろう。これが古モンゴロイドであり、ウルム氷期に中央アジアから東進して東北アジアにいたり、その一部は日本列島にいたった。これが日本の先住民であり、この人たちはATLウイルスを保有していた。
 弥生時代、或いは縄文時代の末期に新たにモンゴロイドが大陸から直接に、或いは朝鮮半島を経て北九州に上陸し、山陽道を経て大和(近畿地方)にいたった。この人たちはATLを保有していない。そして稲と鉄という当時のハイテクノロジーを持ってきた。彼らは大和に王朝をたてて北へ進んだ。それは東北にもいたる。南へも進んだ。それは九州にいたった。北の北海道、南の沖縄へも大和の人々が移動してきたのは十六世紀以降である。

『新ウイルス物語』p-196


ここでは、まだ大和が征服王朝だという見解に立っていることそして縄文人と混血をしながらも辺境に追いやっていったという発想に縛られている。
この本が1986年刊だからおよそ40年をを経た今日ではもう少し違った見方をされるようになってきている。

それは、弥生時代の研究が進み、BC2世紀ごろとされていた弥生時代の始まりが、BC10世紀にも及ぶ年月になり、一気に渡来人たちがこの列島にやってきたわけではなくて、むしろ1000年という時間のなかで起こった出来事だということがわかってきたことと、稲作も弥生人がもたらし、広めたというのはそう簡単なことではなく、長い時間がかかっていることと、また早くから縄文人も稲作を始めていたことがわかって来たからである。

弥生人が縄文人を駆逐し、征服したというのは、怪しくてむしろ渡来したいわゆる弥生人はべつものの弥生人になっていったのではないだろうか。
つまり、弥生人2・0に。
むしろ、縄文人によって馴化されあらたな弥生人となっていったと。

それは、結果的に渡来人が持ち込んだ言語を広めることなく、この列島で定着することなく日本語として成立していくように縄文的文化が残っているようにである。

そう考えると先のサカサゴトも縄文由来かもしれないと思うのだけれど、いやいや、まったく的外れかもしれない。そのような、アイヌか和人かという問題ではなく、もっと普遍的なことなのかもしれない。

朝鮮半島では土葬が主流で、やっと政府のお達しで火葬になりつつあるがそれでも火葬は少ないそうだ。火葬のダントツはトップは日本であり、日本だけが異質であるともいえるわけだ。中国大陸はもっと火葬には否定的で、30%にも満たないとされている。
そうだとすると、おそらく湯かんはされるだろうから、人類共通の逆になっているかもしれない。

寡聞にして、朝鮮半島、中国大陸の民俗事情は知らないのだけれど、人類共通なのかもしれない。

文化人類学者にでも聞いてみるしかないのだけれど、そこで閃いたのが、おそらくあの世というのが共同幻想だからではないのかということだった。

共同幻想だから、常に逆立ちしているのだ。また、様々な幻想(観念)があって魂だの霊などで説明するのだと。魂が帰ってくるのだとか、生まれ変わりするのだとか言うのではないかということだ。
つまり、実証しようもない観念が浮遊している。

共同幻想というと今の人にはわかりずらいなら、共同観念といってもいい。それはあくまで観念であるから実証しようがないし、また、あの世に行って帰ってきた人はいないからである。スエーデンボルグじゃないけれど、霊界日記のようなテキストもあるけれど、本人の幻想(観念)にすぎないと思われる。皆が皆、同じではないからだ。それでも、ほぼおなじようであるのは、そいう共同観念であるからだ。しかし、これは個体の観念とは逆立している。
つまり、逆なっているのだ。
おなじように、この世とあの世は逆立している。

共同幻想の概念が提出されたときは、国家とか民族、宗教というものがあつかわれていたのだけれど、おそらくあの世、死後の世界も共同幻想に他ならないのだろう。

だから、どの民族を探しても弔いの儀礼の中にはサカサゴトを発見することができるであろうと予想した。

話をおおきく膨らませてしまったけれど、このミニ講演会に接して、大きな示唆を得た。



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