アンダースロー〈文学カフェ〉でデル・ニステルに再会する
以上が、amebaブログへ投稿した記事です。
もっと、語りたいと書いています。デル・ニステルについては、2019年2月に「イディッシュ文学の夕べ」ではじめて知ったのですが、これはすごい作家だと直観しました。特に『世界イディッシュ短編選』(岩波文庫)の中では、すぐれた作品の中に入るでしょう。
ブログにもあるように、午前中に再読していったのですが、この黙読と講演はやはり違う印象だったということです。黙読のほうが、より〈現在〉が際立っているのです。朗読で聞いていると聞き逃してしまうようなディテールがよく見えてきます。「妄想に妄想を重ねるような」と述べていますが、妄想の中で、又妄想するシーンなどはメタフィクションならぬ、メタ妄想です。
いかにこの知識人、つまりはユダヤ教の学僧の事なのですが、それが精神的に複雑な人かが分かります。複雑というより、考える人なのです。シンプルな妄想ではなく、妄想も複雑なのです。つまり知識人です。この知識人がサーカスの乗馬女「リリ」にほれ込みます。そして、その告白を伝えにいこうと出かけていくのです。
おろか、と言えば愚かなのですが、この知識人は、「惚れるのが何が悪い」と自分の立場にあるまじきことに挑戦し、案の定、辱めをうけて傷つきます。そして、酔っぱらって泥酔してしまいます。それが、警察官にゆり起こされるまで、寝て居たのが、塀のそばだったというストーリーです。タイトルの由来はここにありそうです。
人に惚れることに理由はありませんから、「好きだから、好きだ」というだけのことなのですが、普通は、思春期の少年でもあるまいし、考えますよね。
アンダースローに、早く着きすぎたので、銀閣寺の沿道だけでも散歩してみようと歩き出したと記載しています。どんよりした冬の京都でした。特に北白川は寒い。沿道は、外国人ばかりで、あちこちで、様々な言語が飛び交っています。そしておなじみの食べ歩き。この寒い日だというのにソフトクリームなんて食べています。そして沿道のお店は、またそれ専用のように改造されています。むかしながらの土産物を売るお店はぐっと減ったようです。
翌日、用事があって、京都市中京区の「錦市場」を通り過ぎたのですが、こちらも同じようなものでした。本来は卸市場なんですが、まるで観光地のようになっていました。私は銀閣寺の入館チケットを売る場でUターンして帰ってきたのですが、帰りの「哲学の道」を少しだけ歩きました。ここよりも、もっと南の法然院あたりの道の方が、静かでいいと思います。哲学者の西田幾多郎が思索しながら散歩をしたので、この名前があるのですが、この西田幾多郎がサーカス女に恋をしたようなものなのです。
つまり理性的なものと世俗的なものが混戦しているのです。
アンダースローは地下にあって、スタジオのような広さの空間にコの字型に机と椅子がならべられていました。「どうぞお好きな席に」というので、角地の一つに坐りました。そこへ、ロシアンティとお菓子が運ばれてきたというわけです。私としては、机があるのは大変うれしくて、鑑賞に来たというより調査に来たようなものなので、ノートと資料を持参していました。
ハッキリ言うと、このところ次の創作をめぐってこれまでの出会った作品のなかから、何か次へのヒントがないかと探してる途中なのです。しかし、いっこうに見つかりません。インスピレーションが湧いてきません。デル・ニステルのこの作品も1920年30年代ですが、カフカはもう10年ぐらい前のですが、20世紀前半の文学です。そこらあたりが参考になるのかなぁと当たりをつけているのですが、なかなか出会いません。
席は、右隣も左隣も空席にしておいたのですが、そこへ上から下まで黒一色の服の女性が座ってきました。すごいべっぴんさんです。なぜ、もっと他に席がるのにここなんだと、心が騒ぎました。黒ずくめなのに、鮮烈な赤いルージュ、バッチり化粧した晴れやかな顔、長い髪、そして外人を思わせるような高い鼻、心穏やかではありませんでした。いつもなら、挨拶ぐらいと声をかけてみたりするのですが、いやイケナイ、そんなことをすれば、デル・ニステル読解がおろそかになるとじっと無視することにしました。
朗読がはじまると、そんなこともなかったように、作品に集中しました。
赤尾光春さんの解説によると「リリ」という名は、分かる人にはわかる名で、イディッシュ文化圏では女性悪魔を指すそうです。つまり、学僧は女性悪魔に魅入られたという設定だったのでしょうか?
朗読そのものは、4人でおこなわれ、入れ代わり立ち代わりで朗読されます。それも特徴的なのは、この劇団の演出者三浦基氏の演出なのか、音楽的要素をいれたリフレインがはいります。この作品では「娘よ」「あっ」「ハイド―」です。これが、合いの手のように作品を推し進めていくのですが、原文訳にはありません。
もともと、この作品はマンの「……教授」の作品からヒントを得たものではないかと解説されていました。詳しくは聞き漏らしたのですが、ハインリッヒ・マンの『ウンラート教授』ではないかと思います。4月にデル・ニステルとベルゲルソンの本が出るそうですが、そこで、70頁を超える解題を書いたというので、そこで扱われているかもしれません。学徒が女優に恋焦がれて堕落していくあら筋なのですが、デル・ニステルのこの作品とおなじような聖職者であるような人物が不道徳に堕落していくというような、すこし前世代の話です。
この作品構成に何か意味があるかというと、すでに何もなくてそんな世間知らずの人がいるというぐらいのことです。先のブログでも紹介しましたが。「知識人の精神的彷徨、倫理的価値の崩壊」と特徴図けられていますが、現在では、すでに当然のことで、意味をなさないとおもいます。特に教師たちに妙に恋愛ないし対幻想に価値を置く人たちがいることはよく見かけてきたことです。そこに、この作品の価値はないのです。
あるとするなら、この妄想の切実さの記述の部分でしょう。その文言の意味ではなく、伝わってくるやるせなさというか、もの悲しさ、愚かさだとは思いつつ、行動してしまう悲惨とでも言いましょうか。そいうアクチュアリティ(現実み)です。
きっと、「作風の履歴」で紹介されている、象徴主義時代前期(1907ー1925)の謎めいたメタファーの多用とさまよえる主人公の精神的探求などにあらわれているのではないかと感じています。「魑魅魍魎たる世界」と言っていました。
そこは、まさに現在でも、読むに耐えるものになっているのではないでしょうか。まだ訳出されていませんが。
朗読中に、ちらっと持参した短編集の本文に目をとうしながら、隣の女性をみると肘をついたり、背をのばしたりしています。右隣のヤングマンは地ビールの小瓶を飲んでいました。
終了とともに散会に入ったのですが、「銀閣寺道」のバス停で待てども待てども、バスは来ず。バス待ちの人が多くバス停にあふれていました。
やっと来たバスに乗りこんだときは、かなりの時間がすぎていました。
朗読されていた劇団員さの自転車がその前を颯爽と通りぬけていきました。それから、電車にのり替えたのですが、接続が悪くて時間をとられ、かつ途中でひとつ先の駅の踏切で、人身事故があったと止まってしまいました。
お腹はすくし、ドアが開いたままなので寒いわで、座席の下から温風のでる席に移動して、小さくなっていました。
いま、警察が現場検証をしていますとか、アナウンスはあるのですが、再開見込みが先延ばしにされ、帰宅したのはすでに深夜になってしまいました。
夕食を食べ忘れたような、お腹がすいているようでいて食べたくなにので、そのまま風呂にはいって寝てしまいました。
行きは早く着きすぎた分だけ、帰りは遅くなったということでしょうか?
一体あの北白川は何だっただろうと、作品の再会よりも気になる一日でした。