推しとコーヒーと横断歩道を渡る人たち
推しとMr.Children
僕の好きなアーティストは Mr.Children です。Mr.Children の音楽を聴く時間は、(きれいごとでなはくマジで)勇気をくれる、幸せにも淋しくもなれる、なくても生きてはいけるけど、あった方がいいものです。人生の一部になっています。たまに突き放されたり、寄り添ってくれたりします。
最近は「推し」という言葉で、自分の熱中を表現するようですが、(僕にとっての) Mr.Children に「推し」という表現はそぐわない気がします。「推し」と呼ぶことに、とても抵抗があります。
SENSE アリーナツアー、『横断歩道を渡る人たち』演奏前のMCで桜井さん:
(読点の数と位置が不気味なのは、実際の口調を意識したからです。)
バンドとリスナーのインタラクティブな空間を実感します。
ここからは僕の勝手な解釈ですが、「推し」という表現を使うと、相手に対して自分の一方的な情熱をぶつけているだけの描像が思い浮かびます。自分から推しに向かう(強烈な太い)1本の矢印だけが想像されるのです。
Mr.Children の曲を楽しむ時間、自分が曲を聴きにむこうに近づくだけでなく、曲の創り手からこちらに歩みよってくれるような、もしくは、バンドからの GIFT を自分が受け取りに行くような、そんな感覚を覚えます。「推し」という言葉では、この体験ーー音楽を介した双方向の交流ーーが無視されてしまっている、そんな感想を僕はもっています。
これが「推し」と Mr.Children を近づけたくない本当の理由なのかわかりません。日常に普通に、あたりまえに存在くれる、安らげる場所、ポケットの中の Mr.Children の音楽に対し、「推し」という言葉のもつ激しく萌え上がる感触が相容れない感じもします。
・・・つらつらと、素人が音楽と言葉のことを語りましたが、3日後くらいに読み返して、自分で恥ずかしくなっていそうです。そしたらこっそり、この記事を消して何も無かったことにしてしまおう。
コーヒーと朝の散歩
ところで、今日の午前は時間があったので運動不足解消と花見を兼ねて、サザエさん通りを歩きました。もちろん、背中の曲がった老人、スカート丈を短かくしたJK、手を引っ張りあう親子、ギターで夢を叶える軽音楽部の少年とその仲間ーー『横断歩道を渡る人たち』の舞台ーーを楽しみながらの散歩です。
(結局すれ違ったのは、元気そうな老人と暇な大学生くらいでした。)
この曲を聴くとき、僕はいつも渋谷スクランブルみたいな大きな交差点をイメージします。たぶん、ジャケット画に意識を引っ張られているのだと思います。
サザエさん通りの散歩は、『横断歩道を渡る人たち』への想像力に刺激を与えてくれました。
普通だったら、たとえば実写版作品を観た記憶が、原作小説を読む際の想像の幅を制限してしまいます。僕はこの不自由さがうざったくて仕方ありません。作者の脳内にある現物を見たくはないです。
だが、今日見たサザエさん通りの道幅の変化、Y字路の交番、信号機のある横断歩道とない横断歩道、これらが曲を聴いて思い浮かべる新しい豊かな景色になりそうです。
また、新しい横断歩道を探しに歩こうと思いました。
夏から始まる miss you アリーナツアーで、もし『横断歩道を渡る人たち』を聴けるなら、その時はまたこの景色を訪れ、生の演奏を楽しみたいと思います。
コンサートの抽選に当たればの話ですが・・・