ライフストーリー#4 19歳
へろう。
ライフストーリーも早くも4回目である。
ライフストーリーを公開し始めて間もないが、意外と反響があって嬉しい限りだ。
さて、今日は浪人の時の話である。本当は大学4年間も書く予定だったのだが、僕にとって浪人時代は人生で最も迷い苦しんだ時期なので、この年だけは独立して書くことにした。
ここまでのライフストーリーは以下のリンクから確認できる。
ライフストーリー#4 両親の離婚。蝕まれていく心。
僕の両親は、物心ついた頃から仲良くはなかった。
仲の良い二人を僕は昔のアルバムの中だけでしか知らない。
家の中で二人が口をきいているところもほとんど見たことがない。
僕にとっては家庭は冷えていて、無機質な感じがいつもしていた。
何が二人をそこまで仲悪くさせたのかは知らないし、そこまで知りたいとも思っていない。たぶん、聞いたところで僕の心が満たされるわけでもないから。
口はきいていなくとも、一緒にいること自体に嫌気はさすみたいで、別居をしたり、たまに戻ってきたりを繰り返していた。
両親の関係なんてそんなもんなのかと思っていたが、中学生になる頃にはどうやらおかしいと気づけるくらいには、僕も他の家庭と比べることが出来るようになっていた。
家庭環境というのは、子供の価値観形成に大きな影響を与えていると思っていて、そういう意味で僕は良くも悪くも家庭環境からのインパクトが大きかった。
僕は、結婚なんて最悪なものなんだと思っていた。
そんな折に、両親はいよいよ離婚した。
正確には完全に別居をしただけで、離婚届は出していないそうだが、僕からすれば今更関係ない。
その頃はちょうど大学受験期だった。
大学の受験の失敗と浪人時代
この頃、とにかく何に対しても無気力だった。大学受験をするならドラムは叩いている場合ではないので、勉強に集中しなければならなかった。
そもそも、僕は大学受験をする事自体も迷っていた。音楽学校に行く事を本気で考えていた。ドラムを続けるために、専門の道へ進もうと思った。
ただ、僕は周りに流されてしまった。
「ドラムだけで食っていけるわけないだろ」
「とりあえず大学は出た方がいい」
「大学に通いながらでもドラムは出来るじゃないか」
こういった言葉に負けてしまった。いや、そこを跳ね除けられるほど僕は心が強くなかったのだ。
「そうだね、確かに…。大学は出ておいたらどこか就職は出来るだろうし、大学に通いながらドラムも出来るよね。」
僕は気づくべきだった。好きなものは最後まで手放しちゃダメだ。
誰がなんと言おうと、その気持ちは自分だけのものなのだ。
こんな簡単なことに気づけないほど、僕は弱かった。
結果、やりたくもない受験勉強をする事になる。僕は自分が面白いと思わないものへの拒否感は尋常じゃないので、当然はかどらない。
はかどらないから、結果が伴わない。
そしていつものように、それなりの結果に満足するよう自分に言い聞かせる。悪循環である。
そして僕は受験した大学の全てが不合格となり、浪人をする事になる。
単語帳をめった刺しにした日。遺書を書いた日。
受験勉強に適性検査があるなら、間違いなく僕は×だ。向いていない。
浪人生の日常は単調だ。勉強机か、寝る時に見る部屋の天井を眺めるだけの生活だ。そのくらい、勉強しかやる事がない。
だから自分との戦いにもなるのだが、僕は心が弱いので、この受験生活に気持ちを切り替えるために、仕組みをつくって対応していた。
予備校が開館する時間に合わせて早起きをし、閉館まで勉強をする。勉強時間を毎日11時間と一定にした。そういう仕組みに頼る事で、平静を保とうとしていた。
とは言え、自分の中で大学に進むことのビジョンは何もないので、ただ漫然と日々を過ごすだけだ。
多少、勉強していることの面白さは感じていたが、それでも結果が伴わないものは意味がない。長期的に見れば僕の財産なんだろうが、いかんせん受験というのは合格する事が全て。短期的な成果を求められる。
モチベーションのない僕の成績はずっとパッとしないままだった。
少しずつストレスがかかっていたのだと思う。
僕は次第に「死にたい」と思うようになった。
ある日。受験日が近づいてきた冬に、僕は生活リズムを受験時間に合わせるためにさらに早寝早起きをしようと思った。
我が家では寝る直前に風呂に入るのが普通で、僕もその日はササっと風呂に入って寝てしまおうと思った。
ただ、その日は姉が先に風呂に入っていた。
その時、僕の中で何かの線が切れたかのように「プチーン」と音がした。
気が付いたら僕はハサミを持ち出し、自分の部屋で単語帳をめった刺しにしていた。
その時の感情がいまいち分からないが、ギリギリな状態であることは確かだった。
恐らく、自分の拠り所にしていた仕組みを崩されたことが、多大なストレスとなってしまったのだろう。
暗い気持ちが常に付きまとう日々だった。些細なことでイライラしていて、その当時一緒に頑張ってた友達ともよく喧嘩した。
お互いのことを考え、受験が終わるまで会わなくなった。彼は、僕が人生で1番落ちてる時を知る数少ない友人だ。彼がいなかったら、僕はもっと早くのたれ死んでいただろう。
勉強してる時間以外は「死にたい」と思うようになった。その度に頭を振りながら、勉強へと意識を向けた。少なくとも勉強してる時は死にたいと思わないで済んだ。
ある日、僕は受験が終わったら死のうと思った。今死んだら浪人させてくれた家族に申し訳ない。せめて受験が終わったら死のう。本気でそう思ってた。正常な判断ができない状態だった。
そして僕はちょっといい紙とちょっといいボールペンを買って、家で遺書を書いた。
自分の持ち物の処分についてとか、葬式はここでやって欲しいとか、身内だけで執り行って欲しいとか…そういった事を書いた。
誰からも認知されず、ひっそりと死んでいきたい。存在してなかったことにして欲しい。心からそう願っていた僕は、自殺方法についても色々調べた。
『完全自殺マニュアル』という本があり、それを調べて色々分かった。
ここまで異様にウキウキと作業していたのを覚えている。
自殺を考えたことがあるなら分かる人もいるかもしれないが、遺書を書いたり自殺方法を調べると、意外と気が楽になるのだ。
これはつまり、いつでも死ねるという、死を選択することが出来るという安心感だ。
受験の終わり・表参道のトラウマ
受験が終わり、最後まで成績がパッとしなかった僕は第一志望は落ちた。ただ、それでも現役の頃に比べると多くの合格通知をいただいた。ちょっと嬉しかった。
僕は、死にたいと思っていなかった。
ただ、したいことが2つだけあった。
表参道を再び歩くことと、救ってくれた人へお礼を言うこと。この二つだ。
遺書を書いた後、相変わらずギリギリの精神の時、僕は表参道に行く機会があった。何の用事だったんだろう。恐らく、父親に会いに行ってた。
ともかく、表参道のあの坂道を明治神宮に向けて歩かないといけなかった。
人混みを久しく歩いてなかったが、僕はその時物凄い恐怖感を味わった。
道行く人が全員敵に見えた。全員が自分を見ているような感じがして、話し声だけが鋭く、そして大きく聞こえた。
僕は、歩けなくなっていた。その場で立ち止まって下を向いたまま固まってしまった。
正常な精神ではないことは分かっていたが、ここまでとは思わなかった。
そんな表参道に、もう一度挑戦してみたかった。
自分の中の魔物を殺したかった。
表参道の坂の上に立ち、音楽プレイヤーを耳にかけながら、「大丈夫、大丈夫」と呟きながら歩いた。
途中息が上がる事もあったが、歩き切った。どっと疲れたが、やり切った。
今では人混みも普通に歩けるようになった。
そもそも、あの経験はなんだったのか、未だに分からない。でも、強く思い出に残っている。
自分がしんどい時、助けてくれたのは周りの人だった。
経済的にも環境的にも支援してくれた家族。喧嘩しながらもずっと一緒に勉強を頑張った友達。そして、辛い時にタイミングよく電話をくれて泣かせてくる友達。
僕はその人たちに感謝してもし尽くせない気持ちだった。なぜか。
受験が終わった日、僕は死のうと思っていた。けど、自分の合格が自分1人のものじゃない事に気づいた時、僕はまだ死んではいけないと思った。
なんというか、それって身勝手じゃない?って思っていた。
こんな自分でも一緒にいてくれる人がいるなら、生きててもいいんじゃねえかなと思った。
受験期から浪人時代にかけて、僕の精神は空気の抜けたゴムボールみたいにしわくちゃで、そして黄ばんでいた。
些細な事で傷ついて、自分には存在価値がないと思い込み、エネルギーを注ぐ先を見つけられていなかった。
つくづく分かったが、自分が嫌な事とか興味の持てない事はどうやっても続かない。心身に支障が出る。
ライフストーリー#5に続く