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【20年の軌跡-Vol.10】遠隔地マネージャーの野望・大阪に「もうひとつの育て上げネット」を作る #SDN20

育て上げネットの歩みを紹介する企画「20年の軌跡」。
第11回は、育て上げネット大阪の所長である中町康弘。

育て上げネットをご存知の方はもちろん、若者支援やNPOについて理解を深めてみたい方、就活中の方、NPOへのセカンドキャリアを考えている方、将来を模索する若者もぜひご覧ください!

これまでの記事はこちら

◆中町 康弘
大阪市若者自立支援事業コネクションズおおさか 所長
1984年生まれ。大阪府出身。転職回数6回、2児の父。
前職は某飲食チェーン店の店長。人手不足もあり無茶な働き方、働かせ方をしていたが、そんな生き方に疲れを感じてNPO法人育て上げネットに入職。
大阪事業所の現場責任者として委託事業を運営。現在9年目で自己最長勤続年数を更新中。


飲食、人材、そして似顔絵屋…

音楽と本が好きで始まるキャリア

――育て上げネットの前はどんなことをされてましたか?

大学卒業後、TSUTAYAのフランチャイズを展開している会社に入社し、店舗で丸3年働きました。

――なぜその会社に?

安直ですが音楽と本が好きだったので。
家賃補助があって、好条件だったのでラッキー、と。

就活中は他にも住宅系やメーカーなどを受けましたが、いまいち興味が持てず…

――3年で退職されたきっかけは?

そうですねえ、続けるイメージが持てなかったといいますか。

ずっと楽しかったんです。人間関係も好調で。
同年代が多かったので休日は一緒に遊んだりスノボに行ったり、すごく充実してました。

でも3年経って、一緒に働いている年配の方を見たときに、なりたい自分じゃないかもしれないと漠然とした想いを抱きました。

――ロールモデルがいなかったというか・・

「ここに居続けたら、俺あかんのちゃう?」と。
気持ちが揺らいだらその気持ちがどんどん膨らんできて。

そんなとき、学生時代の友達から
「仕事をやめて東京に行く。よかったら一緒にいかへん?」と誘われました。

いきなりのことで最初は渋ってました。

そんなときに難波のミナミで浮浪者のおじさんに話しかけられたんです。
唐突に(笑)

いろいろ話したんですけど、最後に
「兄ちゃんは若いんやから何でもできるで〜」
と言って去っていかれました。

――それが刺さってしまった…?

今、思えば神様がその人の体を借りて降りてきたんちゃう?という…
「今できることをやろう」と、そこから二つ返事で東京へ行きました。

――言って欲しい言葉が降ってきてしまった

思い切ったことをしたいという気持ちがあったと気が付きました。
心の奥底では「東京行くの羨ましいな」と思ってましたから。

自分の店を持ちたい、カフェ修行へ

――東京時代があるんですね!

はい、友人と3人で中央線沿いで共同生活を始めました。
そこから2年間フリーターでした。

いま考えるとすごく恥ずかしいけど、料理の勉強をして自分の店を持ったらすごくかっこいい、自由になれるんちゃうかなって思ったんです。

どうせだったらゼロから料理を覚えようと思って、店先の求人を見て飛び込んだ個人店のカフェで働かせてもらいました。

――料理人の道は実現ならず?

ここは今もまだあるお店ですごく厳しかったです。
1年間やって、その後は別のカフェでまた1年働きました。

東京の人間関係にはすごく刺激を受けました。
地域イベントをしたりライブ会場として貸し出したりしてたんですけど、こういうお客様に来て欲しいねという想いがあって、それを実現するために内装を変えたりメニューを考案したり。

そういう作業が楽しかったんです。
やりたいことや想いは、お店を通じて表現できると実感しました。

――人とのつながりに魅力を感じたんですね

そうですね、魅力的でした。

ただ、東京生活は急に終わります。ある日、同居人たちが「俺ら海外に行くわ」と言い出したんです。
僕だけでは家賃も払えないので共同生活は解散、大阪に帰りました。

カフェ時代に作ったラテアート

人材会社から似顔絵屋へ転身

――大阪に戻ってからは?

自分のお店を出したいという気持ちは残っていて、カフェで学びつつその道を模索しようと思いました。でも、働きたいと思えるお店が見つからなかったんです。

――出会いがなかったんですね

はい‥‥

お金を貯めて自分のお店を持とうと、他の職種に就くことに決め、そこで大阪労働協会で働くことになりました。

当時、ジョブカフェという国の事業を受託していたり、人材系の仕事をしていました。

※ジョブカフェ:都道府県が主体的に設置する、若者の就職支援をワンストップで行う施設。

――若者支援のニオイが‥‥笑

そうですねぇ。

そこでは若者向けのセミナーの企画や求職者と中小企業のマッチングイベントの運営を行っていました。

――いきなり毛色の違う仕事ですが戸惑いは?

ちょうど人間に関心を持った時期だったんです。
東京で出会った人々が本当に刺激的でおもしろくて。

人との出会いって良いなとずっと思っていました。
世の中に「普通の人」っておれへんのやろな、みんなにストーリーがあるんやなって。

どの人の話聞いても面白いぜ、みたいな時期で。

労働協会が作っていた冊子を読んで感銘を受けました。

中小企業にも日の目があたるような企画で、役職のない若手社員にインタビューをしている冊子。どんな“人”にもスポットを当てている点に魅力を感じ、ここで働きたいと思いました。

――実際に働いてどうでしたか?

「こんなに自分は仕事ができないんだ」って衝撃を受けました(笑)
できへんすぎて、本当に泣きながら仕事をしてました。

よその企業に電話もできなくて。
何をしゃべっていいかわからなかった。

アポを取るにも周りに聞かれるのがすごく恥ずかしいから、隠れて倉庫の中とかで電話してました(笑)

求職者向け説明会当日の朝、上司を喫茶店に呼んで「まだ何にもできてないんですー」と準備不足で泣きついたり。集客は20人目標なのに半分も埋まらなかったです。

――チーム制ではなかったんですか?

誰にも相談できなかったんです。
当時は弱い部分を見せることができなくて、周りは心配してくれましたが…

今思えば、そういう部分が僕の課題だから、あえて野放しにしてくれてたのかも。

労働協会には、確固たる想いや考えがあって、それを実現できるように周囲に働きかけて、成し遂げていく力を持っている人ばかり。
前職リクルートの方も多かったです、ニュアンス伝わりますかね。

――様子が伝わります

「お前は何がしたいの?」とずっと問われていました。

でも愛情は掛けてくれているというか。
僕は仕事は全然できなかったけど、見捨てずにちゃんと育ててもらいました。

みんな、明らかに失敗するとわかっていても、最後まで口出しをせずやらせてくれるんですよね。

――任せてくれるんですね

その法人全体の方針は「うまくいかない方法を見つけるのが行政事業としての使命。絶対にうまくいくやり方は、民間事業者がやっていけばいい。」というものだったんです。

うまくいかなくても、何故そうなったかを考えて合わせて100点を取れ。
20点しか取れなかったら、残りの80点は、なぜそれがダメだったか、次はどうしたらよいと思うのかというのを残して、合計で100点取りなさいっていう。

行政事業はあえてチャレンジができる、失敗ができるという話をされていて。

――斬新な捉え方だと思います

だいぶ恵まれていて、チャレンジしている方ばかりでした。

労働協会時代

――辞める理由がなさそうですが…転職ですか?

1年後に事業自体がなくなってしまって。
東日本大震災の影響で予算がなくなったり、所属していたチーム自体がなくなり、解散になりました。

その後、同じ大阪労働協会の別事業の求人に応募して採用されました。
ゼロからのスタートです。どうしてもその組織にいたかったので‥‥

採用はされたけど、若者として職業訓練を受ける立場。
「緊急雇用訓練生」というものでした。

給料をもらいつつ、働く経験を得ることができる国の事業です。

――どんな内容ですか?

実体験を通じて若者をトレーニングする仕事です。

そこでは、商店街の活性化と絡めて実際にお店を経営していました。商店街の空き店舗を5つ借りて、チームごとにお店を運営をしていくという事業。

――若者に伴走する感じ?

僕は訓練を受ける側の立場で入ったけど、経験者ということで、現場と上の人たちとの中間的立場でした。必然的に現場のリーダーみたいな。

そこで似顔絵ショップを開きました。もともと各店舗のコンセプトは決まっていたんです。その中でどんな店にするか、値段をなんぼにするかなどを全部チームで話し合って。プロの作家さんに交渉して来てもらいました。

――商店街の活性化ですね

すごくやりがいを感じました。
お店の内装から作家さんへの謝金の交渉など、全部自分たちでやるので。

――「自分のお店を持ちたい」が叶った感じ?

そうですね。
言われたわけでもないのに、勝手に年間売り上げ計画や損益表を作ってました(笑)

――リクルートな人たちに揉まれた経験ですかね

「彼らに認められたい」という気持ちがあったので頑張りました。
今でもありますけど、少しでも近づきたいという気持ちがずっとあって。この辺りから本気で仕事に向き合うようになりました。

なんで今やるのか、誰のためにやるのか、とか、やってみてどうやったんだろうということをちゃんと考えたり。目標や目的もちゃんと考えながら仕事をするようになりました。

今思えば、仕事をする上で当たり前のことばかりですが。

――大阪労働局は大きな転機だったんですね

有期雇用だったので1年間働きましたが、僕たちのチームが手がけた似顔絵ショップは、唯一その後も店舗として残ってるんです。
今も営業しています。

今も営業する「にがおえショップ笑顔屋」にて

――すごい。何が要因だったんですか?

収支計画をきちんと立てることができて、そのお店を引き継ぎたいという意思のある人が現れてくれたからですね。僕らと一緒にやってた作家さんが残したいとおっしゃってくださって。

店舗の家賃などもチームで交渉して、結果的に借りられることができました。嬉しかったですね。

――どんな工夫をされたんですか?

誰かに残したいと思ってもらえるような店舗運営を心がけました。たとえ僕は1年で終わっても、そのあと自律的に収入が生まれるように意識して販路拡大したり。

当初は来店だけの似顔絵ショップだったけど、写真でも描けるようにネット販売や、地元企業へ営業してイベントに出向いて出張で描いたり、額縁などもセットで買えるよう物販を始めたり。似顔絵教室もやりました。

4人チームなので、もちろん僕だけの成果ではないんですけど。全国の似顔絵作家さんをつないでくれたり、みんなで力を合わせた結果ですね。

――わかりやすい成功体験だったんですね

これは自信につながって、ひとつ成果を残せたなと人生で初めて思えましたね。

似顔絵作家さんに描いてもらった作品

憧れる人たちに似た苦労を求めて‥‥

――次に選んだ職場は?

全国チェーンの飲食店です。みなさんもよくご存知のところですね。

――飲食に戻ったんですね

そのときは、もっともっと苦労したいという気持ちがあって。
労働協会で出会った人たちへの憧れがすごかったので、もっとその人たちに近づきたいと。

彼らの話を聞くと、若い頃はすごく苦労しているんです。
僕は今まで全然苦労してないなと思って。

もっと鍛えられたい、大変なところに行きたいという想いがあって。

そういう意味で職種はなんでもよくて、自分が苦労して成長しそうなところは?と考えながら転職活動しました。

エージェントに行って最初に紹介されたのがその飲食店でした。

「今日、別の部屋で説明会やってるからよかったら聞くだけ聞いてみたら」と言われて。行ってみたらその場で面接が始まっちゃった。二次面接を経て内定をもらいました(笑)

――とんとん拍子ですね

ちょうど全国展開を始めたタイミングだったんです。ガンガン新規店舗を開いて採用しまくってましたね。拡大期だったのもあって、すぐに店長を任されました。

――苦労しそうな雰囲気がひしひしとします

そういう会社なんです(笑)。

入ってから知ったけど、ひとりの店長が3店舗くらい見てました。バイトリーダーはいましたが、社員は3店舗に1人体制でした。

入社してすぐに2週間泊まり込みの研修。軍隊式の研修で叩きこまれます。大声で社訓を唱和したり。翌日に何人かいなくなってました(笑)

大変っていうか、ちょっとブラックですね。

――苦労したい‥‥は叶ったんですかね

そうですね(笑)
研修後、既存の店舗と新店舗をいきなり任されました。

――既存店舗は人間関係難しかったのでは

「あんた、ちょっとどいといて」からスタートですね。

スタッフからしたら

「今度の店長なんも知らへん新任らしいで。」
「また何も知らへん人がくるな。」

みたいな。

でも僕はわりとパートのおばちゃんとかに気に入られるタイプのようで(笑)

教えてくださいよ〜とか言いながら溶け込み、自然と助けてもらえるようになりました。

「兄ちゃん大変やな、休んどき」
「こっちは私が守っとくから」

とか次第に関係が変わっていきました。

――パートさんたちの意識高い?

そういう方は多いです(笑)
というか、そういう方たちに活躍してもらわないとお店が回らないんです。

うまく活躍してもらう店舗運営というか、自分が最前線で引っ張るのではない運営が身につきました。

――実際にどんなことをしたんでしょう?

働きやすい環境をつくるということと、やらしい言い方ですけど「あなたのお陰で助かってますよ」とすごく伝えていました。

ほんまに感謝してましたしね。人が少ないのが当たり前だったので、入ってくれるだけでありがたいと思ってました。人の大切さ、働いてくれることのありがたさをすごく感じた職場でした。と同時に、彼ら・彼女らの環境をもっと良くしたいと強く思ってました。

――人間関係は円滑でも労働時間や店舗管理はハードですよね

業務量は尋常ではなく多かったですね(笑)
朝から夜まで営業していたので、家に帰れなかったですし。

正午にやっと帰れると思ってお店を出るんですけど、家に帰るのが面倒なのでお店の駐車場で寝たり。帰宅したけど車で寝ちゃったとか。気付いたら車の中で「はっ!もう出なあかん!」みたいな。

――ハードですね‥‥店長はシフト制じゃないですもんね

時間で役割が終わらないですからね。
利益を出しながら安全に店舗運営を継続するのが役目なので。

――それで3年ですか‥‥‥

はい、心身の限界を感じました。
あと、結婚と出産が重なったんです。家族のことを考えたら難しいかなと。

プライベートでもいろいろ重なって、苦しい想いを抱えながら働き続けるより、自分のやりたいことをやっていこうと思って、思い切ってやめました。

――転換期だったんですね

大きい決断ですね。
労働協会の人たちへの憧れが続いていたので、次はまた人材系に戻ろうと思いまして。

働きやすい環境とは言いますが、どうしても飲食店のときは「人の人生つぶしてるんちゃうか?」というくらいシフトに入ってもらうときもありました。

そういうのが、どうしても違和感が拭えなかったんです。

でもバイトの子が

「店長、このバイトやっててよかったですわ」
「このバイトのお陰でけっこうたくましくなりました」

と言ってくれたりするのはすごく嬉しくて。

仕事は人を成長させるから、今度は人をサポートする側に行きたいなと。

そのことを妻に言ったら「こんなん出てるで」って求人を教えてくれたんです。2つ見つけてきてくれて、片方が育て上げネットでした。

――初めて育て上げネットを知った?

はい、聞いたこともなかったです。
面接は高崎さん(現執行役員)にしてもらって。

といっても何か聞かれた記憶は全くなくて(笑)
雑談みたいな感じで、すごくあたたかかったですね。

最後に「マラソン走れる?」って聞かれて、なんで?って思ったけど「走ったことないけど頑張ります」って答えました(笑)

――チャリティランナーのお誘いですね

はい。それまでの人生で経験ありませんでしたけど。

――この時点で内定を出てそうですが(笑)

それか、マラソン走れる人が採用基準だったのかでしょう(笑)
その面接で内定をもらったので、もう一つも受けてましたが育て上げネットに決めました。

息子と一緒にマラソンの練習

NPOのマネージャー

マネジメント希望者は少ない

――どんな仕事を?

1年目は色々です。直接支援として若者との面談、仕事体験の引率やコーディネート、体験先に行ってご挨拶して・・。
若者にいかに仕事体験に行ってもらうかが目標でした。

※大阪では市からの委託事業「コネクションズおおさか」を中心に、自主事業として高校生向けの学校連携事業や更生支援なども運営している。

――実際に働いて、想像通りでしたか?

今までの経験が一気に活きてきたと感じました。
2年目でコネクションズおおさかの所長になりました。

入職して3年目頃。大阪支店のメンバーと

――所長になって仕事内容に変化は?

委託元(市)とのやり取りがメインになりました。

所長として全体を見ざるを得なくなったときに、市の意向や法人としての方針など、多様なステークホルダーを意識する仕事の仕方を身につけるようになったのも大きな違いです。

――現場とマネジメントはどちらが合っている?

完全にマネジメントですね。もちろん現場の面白さはありますけど、僕はスタッフが働きやすい環境を作る方が好きですね。

――育て上げに長くいる理由の一つですかね

自分で裁量を持てるのも大きいですね。
マネージャーになると自分の想いを実現できるのが良いです。

山崎さん(現広報部マネージャー)もインタビューで答えていましたが、多方面でバランスがとれている方は活躍しやすいと思います。

また、未経験でこの業界に来るのは珍しいみたいです。躊躇なく企業に出向いて講演したり、法人営業をしたりして、貴重だと思ってもらえました。

今までの経験と育て上げに求められているものが、僕にはすごくマッチしたんだなと思います。6回も転職したのが無駄ではありませんでした(笑)

あと、正直なところマネジメントをしたいと思ってNPOに来る方って少ないと思うんですよ。

――たしかに。若者に関わりたいという動機が先に来そうですね。

でもマネジメントというポジションは、法人全体をみても今後はどんどん増やしていかないといけないところです。

僕がいま一緒に働いているメンバーはすごく頑張っていて、感謝もしていて、もっと活躍の場を拡げてほしいと心底思っています。

今の大阪の規模でキャリアを築くと、だいぶ制限されてしまう。
彼らがもっと活躍できる場所を作っていくのが目標です。

――スタッフが活躍できる場所を作りたい、と。

多様な人材に入職してほしいですし、支援じゃない切り口でも活躍できる仕事を増やせたら良いなと思っています。

大阪はまだ全体で見ると小さいけど、もっとみんながキャリア形成を出来るようにしていきたいんです。

――東京の本部とのやりにくさはある?

正直に言うと、この距離感がちょうど良いです(笑) 
自分の裁量で、ある程度の自由がきくので、僕はすごくやりやすい。

デメリットも感じます。
顔が見える関係が少ないので、スタッフに育て上げネットの意識を持ってもらうとか、逆に関東のみなさんに大阪の意識を植えつけるのも工夫しないと難しい。でないと大阪はすぐに忘れられちゃいますから(笑)

何してるかわからん、みたいな。
こっちから積極的にコミュニケーションをとっていかないと。

法人の動きは注視して、率先して大阪でも取り入れて、むしろ大阪がモデルになるように意識はせなあかんと思っています。
そうしないと、いつ大阪やめるって言われるかわからんから(笑)

――常に危機意識を持ってるんですね

僕が経営者やったら遠隔地はリソースを割かれるし、何かあったら継続の天秤に乗せると思うんです。

だからこそ、いかにして「大阪はやっぱりあった方がいい」「残した方がいい」と思ってもらえるか、内部にも外部にも価値を高めていくことが大事です。

隣りの人にペンを貸す感覚で若者と関わる

――若者と接することに抵抗はなかった?

抵抗はなかったですね。

支援がやりたいわけではなく「人に関わりたい」と思っていた結果、たまたまこの業界に落ち着いたので。

無知ゆえに気遣いがすぎることもなかったし、まずは目の前の若者と仲良くなって信頼関係を築くことが当たり前だと思ってました。今まで転職を繰り返してきたことや、ゲームや音楽の話を自然としていましたね。

――今も気持ちは変わらない?

僕は支援だと思ってないですね。自分のことを支援者とも思ってないです。

支援しようとも思ってないし、支援という言葉自体も疑問です。支援・サポートが必要な人はもちろんいますけど、ちょっとおこがましい感じがする。

「隣の人がペンを忘れたから、自分が持っているのを1本貸す」みたいな感覚なんです。親切の延長線上ですかね。

自分にできることは手助けしますが、できないことはできる人を探したり、どうしたらいいかと一緒に考えます。若者が喜ぶのは嬉しいけど、自分のお陰で、とは思いたくないです。

ベストはその人が自分の力で「変われた!」と思うこと。
極論を言うと「あの人あんまり役にたたんかったなあ」って言われるくらいでちょうど良いと思っています。

僕はここで、バランスを取りながら自分の想いを実現できています。

入ったばかりのころはいろいろと疑問がありました。
「なんでこんなやり方してんのやろ」とか「これはどうなの」とか気になることがいっぱいありました。

――大阪拠点は新しい取り組みも活発とききました

自分のなかである程度はやりきった感じで。

同じ人が所長としてやり続けるのも固定感が強いので、今は次の人へのバトンタッチを考えています。

次のマネージャーの候補の方もいるので、僕は大阪の自主事業を開拓して大阪にも育て上げネットを作っていきたい。

――それは中町さんの意向?

そうです。オーナーも「そうなればいいね」と応援してくれています。

大阪事業の中心のコネクションズおおさかは完全に僕のやり方に染まってるので、別の人に運営を代わったり、いろんな風を入れた方が良いと思ってます。

――次に大阪でやりたいことは?

高校中退後の行き先や卒業後も進路を決めるのが難しい人がいっぱいいます。特に通信制高校は進路が決まらない人がいっぱいいて。

かといって相談施設に来てもらい、就職支援をするのが良いかといったらまた別の問題で。そういう人たちの隙間を埋める何かがあればいいなと思っています。

――就職するまでのつなぎというか・・

今はユースセンターというスタイルがベストだと思っています。
相談する場ではなく、ただつながれる居場所やツールが必要だと。

通信制の高校生は、自分で学習計画を立てられなかったり、レポートを書けなかったり、通学しないからほとんど外出しなかったり、そういう子が多くて保護者が非常に心配しているという話をよく聞きます。

そんな方々に向けて、ユースセンターで学習サポートをできないだろうかと漠然と思っています。

――個人的にやりたいことなどもしあれば教えてください

レコード収集にハマってます。
公私混同になるのが一番良いと思っていて。

――若者と一緒にやってるんですか?

そうそう、今もたまに若者と一緒にレコードを買いに行ったりします。

僕以外にも、もっとスタッフも公私混同が起きても良いと思っていて。

それが一番自然な形かな。それこそ隣の人にペンを貸すみたいな感覚で自然とできること。支援じゃないけど、それが相手の良いきっかけになっていたり、一番無理なく続けていける形じゃないかと思っています。

――「やりたいことやろう」はできている?

人に関わる仕事をしたい部分もあったので、そこに飛び込めたこともひとつです。労働協会でずっと憧れていた上司や同僚たちとも今もずっと交流を続けているのですが、関係性の深いNPOに入職されたんです。

彼らと同じステージに立てたという喜びが今はすごくあります。そういう意味で、今ここで働けてよかったという満足感がすごく高いです。


今回はここまで!
読んでいただきありがとうございました。

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