東京事変の「閃光少女」は、「閃光マッチョ」では駄目なのか?
めちゃくちゃ久しぶりに東京事変を聴いた。すごく良かった。
特にこの曲が良かった。
「閃光少女」 - 東京事変
曲の良さもさることながら、歌詞が不思議と心に響いてきた。椎名林檎さんが書いたらしい。
まず、冒頭から良い。
今がOKなら万事OK、明日のことなんか知らん、そんな風に言っている。
いきなり最大瞬間風速だ。
飲み会の終電間際のテンションみたいだ。
良い。電池を残す、という表現がデジタル世代の走りっぽくて良い。
こんな子がいる飲み会は絶対に楽しいだろう。
ちゃっかり頭のどこかに「明日」がチラついているのが、何とも人間らしい。
残念だが、明日は酷い二日酔いなので好調とは思えないだろう。
そして、極め付け。最後の歌詞がこれだ。
切ねえよ・・・。
わずか3分半の疾走感溢れるポップロックは、「光って居たい」という願望を精一杯宣言してその幕を閉じる。
曲のタイトルは「閃光少女」。
まさに閃光のように一瞬だけ明るく光る感情を、力強く表現した楽曲だと思う。俺も光って居たい。
で、ここからが今回のブログの主題だ。(相変わらず前置きが長いことはご容赦くださいでもこれを読んでいるということはあなたはここまで読んでるんですよねこの物好きめ)
この曲の「少女」はどこにいたか、そして最適なのかが気になった。
もっと国際的にディスカッションされても良いテーマだと思う。
まずこの曲の歌詞。
「閃光少女」という曲名のくせに、「少女」と直接結びつく言葉が出てこない。例えば「ランドセル」とか「ちゃお」とか。
強いて言うなら主語が「私」であるくらいだが、あまりにも"少女み"が弱い。
さらに、「閃光少女」がリリースされたのは2007年。今から約15年前だ。
現代の感覚でアップデートすると、「閃光」とセットになる名詞として、「少女」が果たして最適だったのだろうかという事も気になった。
でも、具体的に何が違和感なのか。
試しに「少女」の対極として、ゴリゴリの「マッチョ」を用意してみよう。
今がOKなら万事OK、はマッチョも同意だろう。
大事なのはその次。おそらくマッチョは今日のことを憶えて居たいだろう。自分が上げたダンベルの重さ、懸垂の回数、走った距離、ビルドアップのイメージ、摂取したタンパク質。
常に身体を鍛え続けるマッチョにとっては、今日は明日のためにある。明日憶えて居ないなら、今日なんてものに意味はないのだ。
マッチョも最高値で通過して行くつもりだろう。
しかし、明日の電池は残しておきたい。だからトレーニング後にプロテインを飲むのだ。あれはマッチョにとってのバッテリーだ。
昨日の自分よりも今日の自分、今日の自分より明日の自分を最高値に持って行きたい。昨日以上の重さを上げられないなら、それはマッチョ失格なのである。
だめだ、こんなの。
マッチョは明日も最高点を叩き出したい。明日も「好調よ」と思いたい。
マッチョがこれを思う時、それはマッチョの死を意味するのだろう。
話を変える。
世界で戦争が起きている時、iPhoneのカメラには広角レンズが付いた。
給料は上がらないのに仕事が増えて、定額料金は変わらないのにNetflixに新しいドラマが入った。
鬱になることは常態化していて、誰でも無料でタレントになれるプラットフォームが増えた。
どうやって生きていったらいいか分からない。
それなのに、おもちゃだけはたくさん与えられた。
まるで、大人が赤ん坊を夢中にさせて、何かから注意を逸らすように。
そう思うのは、自分だけなのだろうか。
それとも、「どうせ何も変わらない」と、みな深い諦念を抱いているのだろうか。
現代で求められるのは、「閃光マッチョ」的な思考と姿勢だ。
明日や一年後、五年後や十年後までも見据えて、今日は長い人生の通過点でしかないと捉えて努力を積む。いま流行りの「サステナブル」に近い。
しかし、皮肉な現代において、自分の無力さに疲れ果てた結果、一瞬だけ光って消えたくなるという気持ちもよく分かる。それは「閃光少女」的な思考であり姿勢である。
大切にしたいのは、「閃光マッチョ」だろうが「閃光少女」だろうが、「今を最高値で通過」しているという事だ。
そんな事は物理的にも体力的にも金銭的にも無理だろうが、気持ち的には出来るかもしれない。
ダラダラしていようと、散歩をしていようと、お菓子を摘んでようと、「今が最高だ」と脳に言い聞かせたい。ある人はそれを「自己肯定感」と呼ぶかもしれないが、そんな大それた呼称は要らない。「閃光マッチョ」で良い。
休む事すら社会の義務になってしまったこの時代。
どうやって生きていくにせよ、「閃光少女」の歌詞のように生きていけると幸せなのだろう。
それにしても、「閃光マッチョ」はどこにいるだろうか。
めちゃくちゃムキムキだが、猫とか飼っているのだろうか。好きな映画は『マイ・インターン』とかなのだろうか。ちょっと普通に居そうである。