風立ちぬ
ジブリの『風立ちぬ』は絶対に観たことがあると思うが、流れとかはあまり覚えていない。観ていないものを観たとか、聞いていないものを聞いたとか思い込んでいることがたまにあるので、それかもしれない。
しかし、第2次世界大戦の最中、飛行機を設計する主人公と、当時は不治の病であった結核を患う妻が出てくること、妻が自分の死期を予感して夫の前から忽然と、さらっと姿を消してしまい、呆然とする夫に知り合いっぽいおばちゃんが「好きな人に、きれいなところだけ見てもらいたかったのね」と言うシーンだけは覚えていた。やっぱり観たことがあるのかもしれない。
※正しくは「うつくしいところだけ、すきな人に見てもらったのね」だった。
ここだけ覚えていたのは、あまりにも悲しすぎたから。このシーンを初めて観た当時は結婚しておらず、恋人すらいたか定かでない自分にとって、この主人公の妻の思い、行動。美しすぎるし儚すぎるし切ないし。自分にはとてもできないと思った。さらに、主人公と妻は病のために二人の残り時間が少ないとわかった上で結婚している。とんでもなさすぎる。
結婚した今思うのは、やっぱりとんでもない。私もできるなら夫にはうつくしいところだけ見てもらいたい。もうそういう宿命を背負って生きていく覚悟はあるが、すっぴんと化粧後が違いすぎるのだ。化粧すると肌が綺麗にっていうかこましになるだけでなく、眉毛も生えるし、目も二倍に開くし、血色は良くなり、鼻も申し訳ない程度に隆起する。スマホの顔認証はどっちかの顔で登録するともう一方の顔では認証してくれない。切ない。
一日中家にいて、今日は夫にしか会わないというときも、夫が帰ってくる前に化粧する。フルメイク。ちょっとだけやる、とこれまた第三の人物になるためややこしく、顔は二種類までとしている。
そうする理由は、すきな人にうつくしいところだけ見てほしいからではないわけではないが、それよりも恥ずかしいからだ。私にとって化粧はまさに武装であり、化粧していれば気持ちまで多少よそ行きになり、ちょっとは自制心や客観性をもちながら発言することができる。本当の私は卑屈すぎるし固定観念が固定されすぎているし、それらをさらけ出すのは夫であっても恥ずかしい。自信がないのだ。
そうはいっても、夜の入浴後から朝玄関で見送るときまではすっぴんである。夫にとっては二人の妻がいる感覚かもしれない。さらに、化粧をしていても自分が思うほどにはまともらしく発言できていないかもしれない。毎日一緒に生活していたら、さすがに隠しきれない部分が出てくる。
現在の私はまだかっこつけたい欲があり、それは夫に心をひらききれていないからかもしれない。けれどこのすっぴんをさらす時間も徐々に長くなっていく予感がしている。今は夫婦感が強い二人だが、そうなると家族感が強くなっていくのだろうか。それはいいも悪いもないと思うが、ちょっとだけいいことである気がする。少し楽しみにしている自覚もある。
当の夫はすっぴんの私には素朴で可愛いねと言い、化粧したら可愛くなってる!とわざとらしく声をかける。夫もまた私に過度な遠慮か配慮をしている、かっこつけている。その瞬間に鏡を見たことはないが、声をかけられた私は多分恥ずかしがっている。
本は制作秘話が盛りだくさんで、作品自体うろ覚えな自分が読んでいいのか申し訳なさを感じるくらい面白かった。