
石破首相はどこに行った?アルベルト・フジモリって一体誰?
「ペルーで開かれたAPEC首脳会議の集合写真撮影に、石破首相が遅刻し欠席したことについて、岩屋外相は19日の記者会見で『非常に残念だった』と述べました。一方で、『事故による渋滞に巻き込まれた不可抗力で、やむを得なかった』とフォローしました」(FNNプライムオンライン)。
これを受けて、一般メディアやSNSでは、石破首相が写っていない写真を掲載し、さまざまに面白おかしく報じています。では、石破首相は一体どこにいたのでしょうか。国際会議の記念写真にうまく収まることよりも、もっと重要視していた事柄があったのでしょうか。
アルベルト・フジモリ氏の墓参り
実はそのとき、石破首相はある人物の墓参りに行っていました。その人物とは、1990年に第54代ペルー大統領に就任し、今年の9月に亡くなった日系人のアルベルト・フジモリ氏です。長女のケイコ・フジモリさんは、SNS上で首相による墓参りに感謝の意を表明しています。
「私たちの家族を代表して、父アルベルト・フジモリの追悼のために花を捧げ、祈りを捧げてくださった日本の石破茂首相に、心より感謝の意を表します。また、大統領官邸でのお悔やみの言葉にも感謝申し上げます。この思い出は私たちの心の中で永遠に大切にしていきます。」
En nombre de mi familia, quiero expresar nuestro agradecimiento al Primer Ministro de Japón, Shigeru Ishiba, por su noble gesto al llevar flores y realizar una oración en memoria de mi padre, Alberto Fujimori. También por haber expresado sus condolencias en Palacio de Gobierno.… pic.twitter.com/CyfAgCRkd8
— Keiko Fujimori (@KeikoFujimori) November 18, 2024
いったいアルベルト・フジモリとはどんな人物なのでしょうか。国際会議の記念写真に間に合わなくなるかもしれないにもかかわらず、日本の首相がわざわざ墓参りに行ったその人物は、一体どんな人だったのでしょうか。
アルベルト・フジモリとはどんな人

アルベルト・フジモリ氏の両親は、1930年代に熊本県からペルーに移住し、彼はリマで質素な家庭の中で育ちました。学業では優秀な成績を収め、国立農科大学で農業工学の学位を取得した後、フランスやアメリカで数学と物理学を学び、教授や大学学長としての仕事をしていました。
政治とは無縁の人物でしたが、1980年代後半の政治的混乱と伝統的政党への不信感が高まる中で、彼に政治の道が開かれました。彼は無名から一気にペルーの混乱期における最高権力者に上り詰めたのです。
1990年から2000年にかけて大統領を務めました。大胆な経済改革、過激な反テロ対策、そして権威主義的な政治運営によって特徴づけられる彼の政権は、賛否両論の遺産を残しました。ペルーの政治史において、最も物議を醸す人物の一人とされています。
混乱期のペルー
フジモリ氏が1990年に大統領に就任する前のペルーは、政治的不安定、経済崩壊、そして凶暴な反政府テロに覆われた深刻な危機状態にありました。当時、ペルーはラテンアメリカでも最も混乱した国の一つとして知られていました。
フジモリ氏の前任者であるアラン・ガルシア政権は、ペルー史上最も失敗した政権の一つと評されています。ガルシア氏のポピュリスト的なバラマキ経済政策と管理の失敗が、危機をさらに深刻化させました。
1980年代後半、ペルーは世界最悪級のハイパーインフレに苦しんでいました。1990年にはインフレ率が7,482%に達し、基本的な生活必需品が手の届かないほど高騰しました。国民の半数以上が貧困線以下で生活し、失業や不完全雇用が蔓延していました。ペルーは対外債務の返済を停止せざるを得なくなり、その結果、国際通貨基金(IMF)や世界銀行からの支援も断たれて経済的孤立に追い込まれました。国家は事実上破産状態にあり、公共機関はほとんど機能していませんでした。
さらに、経済政策の失敗とともにペルーの危機を大きくしたのが、テロと暴力の蔓延です。毛沢東主義を掲げる反乱組織「センデロ・ルミノソ(The Shining Path, 輝ける道)」は、ペルー国家に対して残虐なゲリラ戦を展開していました。その活動には爆破、暗殺、虐殺が含まれ、特に農村部が大きな被害を受けました。他にも、「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」という、小規模ですが同様にマルクス主義を掲げたグループが誘拐や武装攻撃を行っていました。この組織は後に日本大使館を占拠し、人質にするという事件を起こします。これらの共産主義革命活動組織の反乱により、恐怖と不安定の時代が生まれ、国の一部地域が事実上反乱軍の支配下に置かれていました。1990年までに、数万人が命を落とし、数百万人が家を追われる結果となりました。
政府の存在感は農村部や先住民地域で極めて希薄であり、これらの地域は反乱軍や経済的放置の影響を特に受けていました。インフラ、教育、医療は資金不足で管理が行き届かず、都市と農村の間の不平等が拡大していました。これらの危機に対処できなかった政府への信頼は大きく失われていました。
センデロ・ルミノソ(The Shining Path, 輝ける道)
「輝ける道(The Shining Path)」を意味するセンデロ・ルミノソというテロ組織は、1960年代後半にアンデス山脈の貧困地域にある国立大学の哲学教授、アビマエル・グスマンによって設立されました。グスマンは毛沢東主義に強い影響を受け、農村部を基盤とした革命が必要であると信じていました。彼はペルーの既存の政治、社会、経済体制を完全に転覆させ、共産主義的な理想社会を実現することを目指しました。「輝ける道」という名前は、ペルー社会主義の創始者であるホセ・カルロス・マリアテギの演説に由来し、彼の言葉「マルクス・レーニン主義は革命への輝ける道を切り開く」というフレーズから取られました。

彼らはもともとペルー共産党の一派でしたが、武装闘争を追求するために分裂しました。そして1980年、民主主義体制を「ブルジョアの道具」として批判し、ペルー国家に対する「人民戦争」を宣言し、国家に対する武装攻撃を開始しました。それが数十年にわたる内戦の始まりです。
彼らの活動は投票箱を焼いたり、警察署や政府施設を破壊するところから始まりました。次第に活動を拡大し、インフラの破壊、政治家の暗殺、農村および都市部でのテロ行為に着手しました。政府の影響が及んでいない遠隔地の山岳地帯を掌握することを目指したのです。そのために、反対する地域指導者や国家の協力者とみなされた人物の暗殺、抵抗する市民への攻撃、見せしめの公開処刑や身体切断などによる威嚇など、過激な戦術を駆使しました。
1980年代半ばには、彼らは首都リマを含む都市部へも進出しました。一時、ペルー国土の3分の1を制圧したともいわれ、その影響力と暴力はペルー政府にとって深刻な脅威となりました。
アルベルト・フジモリの登場
このような崩壊寸前の国家的危機の中、フジモリ氏は「正直、技術、仕事」を掲げ、政権のエリートとも反乱軍のイデオロギーとも異なる選択肢を提示しました。絶望する国民の支持を得て、彼は変革の象徴として登場しました。
大統領選では、フジモリ氏は後にノーベル文学賞を受賞することになる作家マリオ・バルガス・リョサ氏と対峙しました。バルガス・リョサ氏は、社会や政治に関して積極的に発言する高い知名度を持った知識人でしたが、一般のペルー人の苦境から離れたエリートと見なされていました。一方、無名のフジモリ氏は庶民派としての立場を確立し、地方をトラクターで巡り、貧困や不平等に取り組むことを約束しました。結果は予想外のフジモリ氏の勝利。人々は、伝統的な政権エリートよりも、非伝統的なアウトサイダーを選んだのです。
「フジショック」と呼ばれたフジモリ経済政策
前政権であるアラン・ガルシアの政策は、左翼的なポピュリズムと国家介入主義に基づいていました。ガルシア政権は国家による経済管理を試み、重要産業の国有化や公共部門の拡大を通じて貧困層への支援を行おうとしました。これらの措置は、社会主義的な富の再分配を目指していましたが、実行が非効率的であったため、最終的にはインフレと経済の不安定化を招きました。
さらに、ガルシア政権は公共支出を賄うために過剰に通貨を印刷することに依存していました。この通貨供給量の増加は、経済成長や生産性に裏付けられていなかったため、インフレを悪化させました。1990年にはペルーの通貨はほとんど価値を失い、ハイパーインフレに陥りました。
ガルシア政権は国内の公共支出を増やすために、外国債務の支払いを減らす政策を取りました。その結果、IMF(国際通貨基金)と世界銀行は、ペルーに対する融資と支援を停止し、ペルーは国際金融市場で孤立することになりました。こうして、ペルーは極めて深刻な経済危機に直面していました。
これとは対照的に、フジモリ政権は自由市場原則と経済安定化を重視しました。大統領に就任するとすぐに「フジショック」と呼ばれる一連の政策を実施しました。フジモリ氏は補助金を削減し、国有企業の民営化を進めることで財政赤字を削減し、通貨供給過剰を防ぎました。また、インフレを抑制するために中央銀行の管理を強化し、国際的な融資を受けることで通貨の安定化を達成しました。これらの改革は当初、痛みを伴いましたが、最終的にはペルー経済の安定化をもたらし、インフレを収束させることに成功しました。
特筆すべきは、フジモリ政権が財政赤字削減を優先しながらも、農村部への小規模ながらも地域主導の開発に注力した点です。これにより、農村部で必要な学校や診療所、インフラ(道路、電気、水道など)が整備され、政府の過剰支出を避けつつ、地域住民の生活が向上しました。
フジモリ政権が農村支援に力を入れた背景には重要な理由がありました。反乱軍は毛沢東の「農村から都市を包囲する」という戦略を取っており、国家の影響が薄い山岳地帯や農村地域を支配下に置こうとしました。フジモリ政権は、農村部への支援を増やすことによって、地方にも国家の社会保障政策を浸透させ、農民の心を革命軍から引き離すことを目指したのです。
フジモリ政権の反乱軍対策とその問題
フジモリ政権の反乱軍対策は、ペルーが直面していた国家的危機から脱却するために重要な役割を果たしました。1980年代後半、ペルーはセンデロ・ルミノソ(「輝ける道」)やトゥパク・アマル革命運動(MRTA)などの過激な反政府勢力による深刻な治安の悪化に直面しており、政府は国家の存続を脅かす重大な危機にありました。フジモリ政権はこの状況を打破するため、軍事作戦と諜報機関の強化を中心に、多角的な反乱軍対策を採りました。
まず、フジモリ政権が取ったのは、反乱軍の拠点に対する直接的な軍事介入でした。反乱軍はペルーの農村部や山岳地帯を拠点としており、国家の支配が及ばない地域で勢力を強めていました。フジモリ政権は、これらの地域に軍を派遣し、反乱軍の拠点を一つ一つ制圧しました。この戦術には、軍の掃討作戦や反乱軍の指導者をターゲットにした精密な襲撃が含まれました。
また、反乱軍の活動を抑えるため、フジモリ政権は農村部への支援を増大させました。道路、学校、診療所の建設といったインフラ整備を進め、農村部での国家の存在感を強化することで、反乱軍に対する支持を削減しました。
フジモリ政権の反乱軍対策で特に重要だったのは、ペルーの国家情報局(SIN)の強化です。フジモリ大統領は、反乱軍の指導者やメンバーを特定するために諜報機関を再編成し、効率的な情報収集と分析体制を整えました。これにより、反乱軍のリーダーや重要なメンバーを捕えることができました。最も象徴的なのは、1992年に反乱軍センデロ・ルミノソの指導者アビマエル・グスマンを逮捕したことです。グスマンは反乱軍の創設者であり、その逮捕は反乱軍にとって壊滅的な打撃となり、その後の活動を大きく縮小させました。
一方で、SINの活動には非合法的な手段が多く含まれていました。反乱軍に対する監視や情報収集は時に過剰で、民間人や政治的対立者をターゲットにした弾圧が行われました。政治的に反対する勢力に対して情報機関を利用した圧力がかけられ、人権侵害が発生しました。特に反フジモリ政権の活動家や団体は監視や弾圧の対象となり、国家の権限が過剰に行使されたことが問題視されました。
また、フジモリ政権は反乱組織に対する取り締まりを強化するため、特別軍事法廷を設置しました。この法廷は迅速な裁判を目的としていましたが、反乱軍の脅威を早期に排除するためには効果的であったとされています。しかし、反乱者の取り締まりが強圧的であり、時には人権侵害をもたらしました。
「死の部隊(エスクアドロン・デ・ラ・ムエルテ)」と呼ばれる武装集団は、反乱軍のメンバーのみならず、反フジモリ政権に反対する支持者や活動家を暗殺することもあり、これらの行動は国際的な人権団体から強い批判を受けました。
フジモリ政権は、反乱軍の過激な暴力や暗殺活動に対抗するため、情報機関や軍を利用した監視や取締り、そして時には暗殺を行いました。フジモリ政権はこれらの行動を反乱軍に対抗するための「非常事態における戦争の一環」として正当化し、国家安定化のためには反乱軍のリーダーや支持者を排除する必要があったと説明しました。
また、フジモリ政権は反対派や政治活動家に対する監視や弾圧を、「共産主義的脅威」の阻止と正当化しました。彼は反フジモリ派や反政府活動家を「国家の敵」とみなし、彼らを取り締まることでペルー社会を「守った」と主張しました。特に冷戦の影響下では、共産主義の拡大を防ぐために必要な措置とされ、時には人権侵害も「一時的な必要性」として捉えられました。
さらに、アメリカや他の西側諸国から支援を受けて反乱軍との戦いを行っていたため、外部からの圧力や批判を軽視し、その支援を背景に行動の正当性を強調しました。国際的な批判に対しては、ペルーの国家安全保障と治安維持が最優先であり、外部の干渖を排除しようとしました。
フジモリ政権の人権軽視に対する批判は後に彼を犯罪者として捕らえる結果となりました。それにもかかわらず、フジモリ政権はペルーの国家崩壊を防ぎ、反乱軍の影響を抑えることに成功しました。そのため、その方法については今なお賛否が分かれています。
日本大使公邸占拠事件
1996年13月17日、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)という革命組織の武装したメンバーが、ペルーのリマにある日本大使公邸を襲撃し、青木大使をはじめとする日本大使館員ら622人を人質に取りました。彼らは、ペルーの左翼過激派組織で、1970年代に設立され、社会主義革命を目指して活動していました。
彼らは、ペルー政府が拘束している仲間の解放を要求し、またペルー政府に対して改革を求めることを目的に、日本大使公邸に押し入りました。事件の発生時、ペルー政府関係者や日本人外交官、商人、さらにはペルーの政府関係者や民間人などが大使公邸内にいたため、多くの人々が人質となりました。
橋本首相とフジモリ大統領はカナダのトロントで会談し、橋本首相は事件の平和的解決と事件解決への全面的支援を要請し、フジモリ大統領も橋本首相の要望に一定の理解を示した、とされています。
しかし、テロリストたちは自らの要求を譲らず交渉は難航し、ペルー政府は最終的に特殊部隊を動員して突入作戦を行い、1997年4月22日に人質を解放することに成功しました。この作戦は「神の手作戦」として知られ、反乱者たちは制圧されましたが、2人のペルー軍兵士と14人の全メンバーが死亡しましたが、人質に犠牲者は出ませんでした。

この事件を契機に、この組織はペルー国内での影響力をさらに失い、フジモリ政権は反乱軍対策を強化しました。また、ペルーの治安機関は、特殊部隊や諜報機関を活用して反乱軍の活動を効果的に抑制していきました。この事件は、国際的にも注目され、日本とペルーの外交関係においても重要な出来事となり、日本政府はペルーの治安回復を支援する姿勢を示しました。
分裂するレガシー
フジモリ政権は、ペルーの経済的な安定化と反乱軍(センデロ・ルミノソやMRTA)との戦いにおいて一定の成果を上げましたが、政治的自由の抑制や人権侵害、腐敗問題などが深刻な課題として残りました。この政権に対する評価は賛否が分かれています。
経済面では、「フジショック」と呼ばれる厳格な改革と農村部への社会的配慮を通じて、インフレの抑制や国家の財政再建を達成し、ペルー経済は安定しました。さらに、反乱軍に対して強力な軍事作戦を展開し、治安回復に成功しました。しかし、治安維持のために行われた過剰な弾圧や、民間人や政治的対立者をターゲットにした監視、人権侵害は深刻な問題となり、国際的にも強い批判を受けました。
首相のいない集合記念写真の意義
もし石破首相が墓参りの帰りに交通渋滞に遭わず、集合記念写真に間に合っていたとしたら、アルベルト・フジモリという日系人の元大統領について改めて思いを巡らせることはなかったかもしれません。しかし、実際には記念写真に間に合わないという事態が発生しました。将来も、この写真が語られるたびに、アルベルト・フジモリ氏や当時のペルーと日本が直面していた危機的な問題を振り返る機会になるとすれば、このことは日本にとって実は幸運な失敗だったと言えるかもしれません。
参照
ケイコ・フジモリ(1975年生まれ):ケイコ・フジモリは、アルベルト・フジモリ元大統領の長女です。ボストン大学およびコロンビア大学を卒業し、離婚した母親に代わり、大統領時代にはファースト・レディの役割を担っていました。
2006年の総選挙で国会議員に当選し、政治家としてのキャリアをスタートさせました。その後、2011年、2016年、2021年の大統領選挙に出馬しました。いずれの選挙でも決選投票に進む健闘を見せましたが、いずれも僅差で敗北しています(得票率はそれぞれ48.55%、49.87%、49.87%)。
「農村から都市を包囲する」:これは毛沢東が提唱した革命戦略です。センデロ・ルミノソ(輝く道)の設立者であるグスマンは、この毛沢東思想に強く共鳴していました。この戦略の核心は次の通りです。
「都市から農村に立脚点を移し、農民群衆を発動し農民を頼みとし、農村に根拠地を建設し、土地改革と各種建設事業を展開し、農民を主体とする長期の革命戦争を行い、革命の力を発展・増大させ、最後に都市を占領し、全国的勝利を得るというもの」(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)、井上俊彦訳)(http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2011-05/18/content_359047.htm)
関連サイト
ドキュメンタリー動画:"State of Fear: The Truth about Terrorism"(恐怖の地:テロリズムの真実)
本作は、NATIONAL GEOGRAPHICによる英語とスペイン語のドキュメンタリー映像です。ペルーの革命テロ組織「センデロ・ルミノソ(The Shining Path、輝ける道)」の誕生から、活動が山岳や農村地域から首都リマへ拡大し、最終的にフジモリ政権によって壊滅させられるまでの過程を描いています。また、フジモリ政権が得た人気とその裏に潜む恐怖政治や腐敗、そして人権運動の広がりによって独裁政権が崩壊するまでの経緯も取り上げています。約20年にわたるペルーの壮絶な歴史を、当事者たちへのインタビューを中心に追った作品です。(注意:死体や人骨が映し出される場面が含まれています。)
"'Transformative, for better and for worse’: what’s the legacy of Peru’s Alberto Fujimori" (良くも悪くも変革的:ペルーのアルベルト・フジモリの遺産とは?): 先の9月に行われたフジモリ氏の葬式の日における英紙「The Observer/The Guardians」の記事。壮大に行われた葬式に対して怒りを発する人権派や政治的に対立する人々の言葉や、逆に、フジモリ氏をペルー史上もっとも偉大な指導者と語る人々の言葉などを載せています。