声なき声を票にしたい
僕は、すべての人が社会参加できる社会、つまり誰も置き去りにされない社会を目指している。投票は社会参加の声である。投票しない人にも意志があり、声なき声が在る。福祉に携わる自分には無視できない声である。
声なき声に耳を傾けるということ
表出された言葉や行動を受け容れつつ、内心を想像するのが、声なき声に耳を傾けること。内心を決めつけて他者の聖域に土足で踏み込む事なく、内心に徐々に近づくべく工夫を凝らして、相手を尊重したコミュニケーションを重ねていく。その知的作業がエンパシーである。シンパシーが感覚的な共感の衝動であるのに対して、エンパシーは考察による共感の知的作業である。
エンパシーは脳運動、対話は協働
他者の立場に立って考える知的作業は脳の運動。運動はやっぱり疲れるからやったほうがいいとわかっていてもついつい避けて、怠けてしまう。それは身体運動も脳の運動も同じ。でもエンパシーについては怠けてはいけない。
なぜなら人は繋がりを求める動物だから。感覚的に共感する人だけが繋がると、同類ばかりの小集団ができるからである。それが一概に悪いわけではないが、ひとたび対立する思想が現れると、集団は自己正当化するために閉鎖的になり、自衛のために攻撃的になるのである。
そうなると、わかり合うための対話ではなく、正当性を勝ち得るための討議になり、正義対正義の戦いが果てしなく続く。結果、資本が豊かなものが勝ちつづけ、資本が乏しい順から滅びてゆく不毛な道に続くのである。
あらゆる考えを包摂した多様な社会の実現手段は対話に限る。
異論と擦り合わせる対話を重ねて熟議する。その熟議の先にジンテーゼの開発が起きるのだ。A or Bの二者択一ではない。互いの重要なところを両立するCを開発するには、対立する相手の考えを脳で理解するエンパシーが必要になる。互いの「こだわり」や「プライド」を捨て、相手を尊重したコミュニケーションに努めないと実現できないのだ。
対話とエンパシーはセットなのである。協働作業と脳作業の関係。
好きで選んだ無投票、と切り捨てるわけには行かない
無投票は「有権者が好きで選んだ行動」として、投票した50%だけで全体を決めてしまっている。有権者の20%弱の票しか得ていないのに、与党として国民の信を得たと全体を統御する。それは落選者に票を入れた30%だけでなく、声を上げなかった50%の有権者をも無視してしまうのだ。
声を上げられない人には、声を上げられない理由がある。それを好きでやってるとしても今の環境下での最善策であり、自分が自分らしく生きたくないという意味ではない。自分の思いを表出させる捌け口を持てない生きづらい社会である、と消極的な態度で暗示しているのだ。
自殺や引きこもりが増えていることも関係しているかもしれない。自責の念に苦しむ人もそうでない人も、この世に生まれ落ちたときには違いはない。環境がそうさせたのである。自責の念に苦しむ人が増えていることを、社会という環境の一部である自分が無責任に無視することは出来ない。
だれもが生きやすい社会を作る一手段として投票がある。投票で、声なき声を認める社会像を目指す政治家を選ぶ。しかし1人の力は1票しかない。たった1票。多くの当事者を救いたい思いを1票に込めても、しょせん1票は1票の力しか無い。声なき声と共存する政治にするには、声なき声を少しでもリアルな声にするしか、現状の選挙制度では手がないのである。
年齢や国籍などの理由で選挙権を持てない人もいる。施設から出れない人、単独行動が出来ない人、寝たきりの人は選挙権を持っていても投票が困難だ。投票したくても出来ない人たちと共存している社会に生きている自分、自分は投票権を持つ、という事実。それをどう考えるか。どうしたいか。
投票に行ける人は一人でも多く投票して欲しい。自分の思いを票にして欲しい。匿名の票にも政治を変える力があることを実感できると思うから。
一部の乱暴な生徒が調子に乗ってクラス全体を利己的に支配しないよう、「違うよ」と言ってあげる。それが民主主義なのである。