「仙台人」気質(2)政宗公の言葉が源泉か?
日頃、思想や哲学に関心を持っていると様々な偉人の名言に巡り合います。自分の場合は多くが外国の哲学者。ときに宗教、たとえば聖書の一文などから学ばせていただいて、日々の自分を律する助けにしています。
今回は珍しく戦国武将、伊達政宗公の言葉に巡り合いました。良い学びになりましたが、なぜか「仙台人気質」には、政宗公の珠玉の言葉が浸透していないように思えるのです。
現代仙台を見る限り、政宗公は多くの民?から崇められる存在。なのに、どうして?と不思議に感じて、勝手な解釈(邪推)をしました。
仁に過れば弱くなる
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と同じ思想ですが、さらに政宗公の名言は”公に尽くしすぎると私的な損失が生じる”と、分かりやすく具体的に表現しています。この名言も心に留めておきたい。
でも、先に触れた仙台人気質を改めて読むと、そこに「仁」「義」「礼」「智」「信」はあるのか正直って疑わしい。もしや結論(語尾)だけ覚えて、本質を失ってしまった誤解なのかしら?
弱くなってはいけない
固くなってはいけない
へつらってはいけない
嘘をついてはいけない
損してはいけない
仮設①: 安直な解釈に陥って「仁」「義」「礼」「智」「信」が置き去りになって、利己的な思想に陥った。
この世に客に来たと思えば何の苦もなし
上記の太字の部分には”先人が培った基盤の上で生かされている”という謙虚な姿勢を感じます。この言葉は、辛抱強く耐え忍ぶべきときや、自分の傲慢さを鎮めるときに思い出したいと思います。
しかし、この言葉も安直に考えると本質を見失う。
「この世の主人ではない」ことは当たり前。だけど主人じゃないなら何なんだ?と、社会に対する主体性を失ってしまうと大事です。社会人の責任、つまり公徳心を失うと隷属的な思想に陥る。
仮設②:隷属的な思想に陥り、物事に対して真剣に取り組まなくなります。
仙台人気質との関連
他地域では仙台人の評判が悪い。
北海道では開拓時代の経緯で「高圧的」とという悪評判が、岩手県とは江戸時代に県境を決める経緯で悪評判が立ったようです。その悪評判を真摯に受け止め、自分たちを客観的に学ぼうとする仙台市の試みが戦前にあり、昭和10年、仙台市教育会は教材として「仙台市民読本」を編纂したようです。
そこに記された仙台人気質が下記の箇条書きです。
上記一の”一般公衆に対する公徳心は甚だ幼稚”は前述の仮説①の利己的な思想と関連していそう。また上記四の”自分から積極的に物事をやろうという進取的の気性に欠けている”は前述の仮設②の隷属的な思想と関連しそう。
あくまで私の邪推の範囲ですが、政宗公の言葉が本質を失って、残った体裁が仙台人気質を作ってしまったのかもしれません。
なんて、邪推に過ぎないのに言い過ぎかしら?
ごめんねごめんね~ テヘペロ
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