マスコミ的「恐慌論」批判
「唯物史観」第32号 (十月社、1988年5月10日) 所収
北村巌
1983年からの帝国主義諸国の景気回復とその後の展開の中で、国際収支の不均衡の拡大や株価の急激な上昇、都市の不動産価格の急激な上昇と、一方における一次産品価格の低迷といった現象が現われた。これらの現象の1920年代との類似性によって、30年代のような「大恐慌」が迫っている、という「恐慌論」がマスコミをにぎわしている。ここでマスコミ用語として使われている「恐慌」とは、経済学の用語の恐慌とは異なり、30年代のような大恐慌のみを示していると考えられる。
マスコミは主に現象面での類似性に焦点をあてながら、20年代との比較によって「大恐慌の再来」をテーマとしている。そうしたブームの火付け役となったのは、2年程前に発表された東海銀行の「国際収支の不均衡と国際協調」というレポートであった。その後、経済雑誌やビジネス雑誌がさまざまに問題をとりあげてきている。中でも「大恐慌の再来」を強く警告するというかたちで何回か特集を組んだものに講談社の「NEXT」という雑誌がある。最近の88年1月号でも「大不況とインフレが同時に来る」という特集が組まれた。これらのマスコミ論調は大恐慌の兆しとみられる諸現象や諸矛盾を指摘はするが、本質には迫っていない。そして、処世術として個人的にどう切り抜けるか、という方策に結論を求めている。大恐慌への警戒心や 恐怖心を、資本主義体制の維持・延命のための思想攻撃に利用しているのである。
一 「国際収支不均衡」原因説
東海銀行のレポート「国際収支の不均衡と国際協調」においては、30年代の「世界恐慌」の原因を、20年代における国際収支不均衡の拡大に求め、現在の国際収支不均衡を是正することが「世界経済安定化」の最重要策であると結論づけている。
同レポートでは、まず、はじめに、86年4月1日付のウォールストリ―トジャーナル紙の記事を持ち出し、1922~29年の株価(ニュー ヨーク・ダウ工業株30種平均)を80年以降の株価と比較し、その類似性を指摘している。この指摘は現象的には当を得ていた。29年10月は、この類推からすると87年10月にあたるが、果たして株価大暴落は実際に起こったのであった。しかし、この類推のみで、暴落の必然性を述べることは不可能であろう。
同レポートの重要な点は、国際収支の不均衡拡大を世界恐慌の原因としているところにある。27年からのアメリカおよびフランスへの資本移動が、29年10月のニューヨーク株式大暴落をきっかけとする世界恐慌の原因となった、という見方である。同レポートでは世界恐慌の原因 をいちおう三点に分けている。
「ア、国際協調精神の欠如と黒字国アメリカの責任、イ、国際通貨制度による調整 (金本位制の限界)、ウ、急激かつ巨額の資本移動」である。
この観点は世界恐慌の条件として現象面を把える時、けっして誤りとはいえないであろう。しかし、問題なのは、恐慌の真の原因 (本質)に一切触れられていないことである。つまり、資本の過剰蓄積 (過剰生産力)という恐慌の真の原因についてである。
同レポートの見方に立てば、アメリカをはじめ各国が保護主義的政策をとらず、金本位制でない調整作用を持つ通貨体制が成立し、急激かつ巨額の資本移動が起こらなければ、世界恐慌は起こらなかった、ということになる。もちろん、これらの仮定は、20年代の時点で可能なものではなかったが、問題は現在である。国際協調が世界恐慌を防ぐ手段となるかということが問われるのである。
同レポートは、80年代の不均衡問題は「1920年代後半同様、世界的な産業構造、貿易構造の変化、一次産品価格の下落など」を背景としていると指摘している。さらに、「国際通貨制度の自動調整機能が働きえなかったという点についても、1980年代は、1920年代後半 と同様な問題を抱えている」とも指摘している。
1920年代は第一次世界大戦後の復興期であった。直接的な損害を受けなかったアメリカが、第一次世界大戦でのヨーロッパへの物資供給力の強化によって国際競争力の上でも優位に立っていた。そして、新鋭設備の導入による合理化が進展し、輸出をテコとした景気の盛り上がりが25~27年にみられた。国際収支面でもアメリカは巨額の貿易黒字と経常黒字を記録していく。
イギリスは、国際競争力の面で衰えが出始め、貿易収支は巨額の赤字となったが、海外からの投資収益やサービス輸出により、経常収支は黒字が維持された。
ドイツは賠償金支払いの重荷がかかり、産業合理化運動の展開などをテコに輸出振興策がとられたが、貿易収支は赤字基調にとどまった。
資本の流れとしては、巨額の経常黒字国であるアメリカが最大の供給者となり、その多くは証券投資の形態で他国に流出した。証券投資の場合、直接投資はいうまでもなく、貸付等に比べても流動性が大きい。証券市場が発達し、相当の売買が円滑に行なわれている場合はなおさらである。そして、アメリカの資本流出は27年に転機を迎え、28~29年にかけて流出額を大幅に減少させていった。その代り余剰資金は国内の株式へと向かい、アメリカの株価は、第一次世界大戦後3回目の上昇波動に入った。
このような資本の流れの変化は、イギリスやドイッからの金の流出を促すことになった。そして、29年10月のニューヨーク株価の大暴落をきっかけにして、アメリカ国内で金融恐慌が起こると、アメリカへの短 期資金の大規模な引揚げが始まった。かくして、イギリスやドイツからの金の流出は決定的な局面に達し、イギリスは31年9月に金本位制の停止に追い込まれたのである。
このように、国際収支の不均衡が拡大していたことが、アメリカの株価暴落をきっかけとする恐慌を国際的にも拡散し増幅させる条件となったことは疑いがない。しかし、第一に景気循環からみて、30年頃のアメリカが設備投資循環のピークアウトから低下に向かう時期にあり、かつ在庫投資循環からみても景気の後退は避けられない時期にあったことがもっとも本質的な要因である。
第二に、当時のアメリカはすでに主要工業生産において独占が形成されており、不況に対して価格を維持し、生産を大幅に削減することで危機を乗り切ろうとした独占資本の行動が、相乗的に生産の極端な縮小をもたらし、大量失業を生み出したのである。信用恐慌が実体経済に及ぼした悪影響は第3の要因として指摘しうるものであろう。
恐慌の国際的波及の問題についても、まず貿易関係による波及が考慮されなければならない。アメリカ、イギリス、ドイッともに、29年を ピークに大幅に輸出も輸入も減少していく。そうした貿易財の生産の縮 小の連鎖的作用こそ恐慌の国際的波及の幹である。
東海銀行レポートでは「貿易―投資バランスの崩壊」に恐慌の増幅の主因を求めているようであるが、仮に貿易―投資バランスが図られていたとしても、貿易関係による相互依存関係が高まっていた以上、生産縮小の相乗的連鎖作用の国際的波及は避け得なかったであろう。29年のアメリカの輸出のGNP比は6.7%であり、それが33年には4.3 %へ低下した。その後第二次世界大戦中には1時的に3%以下となった が、現在では8.9%(86年)にまで高まっている。日本は13.1% (86年) とさらに高く、貿易関係を通じた恐慌の波及の可能性は、29年当時より大きくなっていると言えるであろう。
また投資バランスといっても、その中身が問題である。どのような形態の対外投資が行なわれ、その残高資産がどの程度の規模になっていたかが重要である。直接投資、貸付、証券投資といった投資形態により、また投資物件の市場性などにより、その流動性はさまざまである。アメリカの対外資產負債バランスは84年末にはほぼゼロの44億ドルの黒字となっていたが、中身としては、資産面でヨーロッパ中心の直接投資 (2130億ドル) と中南米中心の貸付け (4456億ドル) と流動性に劣り、負債面では日本、ヨーロッパからの証券投資(3299億ドル)と流 動性の高いものになっていた。フローの面ではバランスが図れていたとしても、相互に流動性の高いものであればあるほど、通貨への信任や金利、インフレ率などの要因により、巨額の資金が急激に移動する危険性は高まるのである。
こうした事情にあるにもかかわらず、個別の金融資本の利害からは、 信用不安が高まれば資産の流動化を進めようとする力が働く。現在、ユー口市場では、発展途上国向けの貸付け債権の市場が形成されている。その取引高の規模からみて、発展途上国向け債権に流動性が出てきたと までいえないが、ほかにも株式との交換 (Debt-Equity swap) などにより流動性を高めようとする努力が続けられている。個別金融資本からみれば資産の流動化は自己の信用保持にとっては必要なことであるが、国 際金融体制からみれば不安定性を増大させる以外の何物でもない。貿易不均衡が、これらの国際金融市場の規模の拡大に寄与したことは 事実であるが、それは不可逆的な過程の触媒としての役割であって、貿易不均衡を是正すれば不安定性を増す国際金融市場の現状を解決することができるわけではない。東欧諸国のドル資金運用の場として生まれた ユーロ金融市場は、70年代の石油価格引上げに伴うアラブ諸国の大幅貿易黒字の発生により、その余剰ドル資金の運用の場として発展を遂げた。そして、アメリカ系銀行を中心にユーロ市場でのドル預金取り入れ、中南米諸国への貸付という資金の流れが起きた。83年からアメリカの巨額の貿易赤字も黒字国である日本やヨーロッパ諸国からのアメリカへの長期国債を中心とする証券投資を活発化させる要因となった。たしかに、貿易不均衡が国際金融市場を発達させた要因となったのである。
しかし、例えば、日本が内需拡大によって貿易不均衡是正を進めたとしても、国際金融市場の不安定性を解消することは無理であろう。それ以前に原油価格が50ドル程度に急上昇でもしない限り、900億ドル 規模の大幅な貿易黒字を解消することは困難であり、アメリカも180 0億ドルにのぼる貿易赤字を解消するのは至難である。それゆえに、赤字国に黒字国の資金が過不足なく円滑に還流することが必要になってくる。東海海銀行のレポートは、そのための国際協調が不可欠である、と唱っているのである。
しかし、国際協調で景気循環を停止させることはできない。好況期には金融政策のカジとりを協調的に運営することが可能だし、そのことによって資本の流れをある程度まで制御することが可能であろう。しか し、ブレーキのかかった自転車が倒れやすいように、好況から不況へ、恐慌へと向かう時には金融政策の協調は困難となる。自国の経済を優先させる利害が直接に衝突を始める。「国際協調」はほころびをみせるだろう。現在のわれわれがどの位置にいるのかについては後に触れたい。
ニ 「レーガノミクス失敗」説
マスコミ論調で国際不均衡の問題と並んで、あるいは関連して取り上げられるのが「レーガノミクスの失敗」である。ほんの3、4年前まで 礼賛的な論調が多かったことと比べると隔世の感がある。
アメリカの責任を強調する論客の1人として下村治氏がいる。下村氏は「所得倍増論」の池田内閣の有力な経済ブレーンであり、保守本流の経済政策を支えてきた人物である。下村氏は昨年「日本は悪くない」を出版して、アメリカにおける「日本たたき」 (Japan Bashing)に正面切って反論したが、その後も度々マスコミに登場して、「日本の内需拡大策は何の解決にもならない」と主張している。氏の主張は、現在の日米貿易収支の不均衡はアメリカの財政政策 (軍拡と大減税による財政赤字拡大)が原因であるとし、その解決として日本が輸入を増やすために、内需拡大策をとり財政赤字を増大させると、インフレを招くというのである。
下村氏もそうであるが、米国の貿易赤字拡大の原因について、「レーガノミクス失敗」説の論者の多くが、アメリカの財政赤字拡大を最たる原因に求めている。財政赤字の拡大が超過需要を生み輸入を増大させて 貿易赤字を拡大するのに寄与したというマクロ的効果は存在しているといえるだろう。しかし、この命題は二つの側面から検討を要するであろう。
一つは、経過としてレーガン財政政策をしてこうした超過需要を発生させる原因とさせた契機は何であったか、ということである。
レーガンは1981年1月2日に第40代大統領に就任し、「アメリカの新しい出発=経済再建プログラム」を議会に提出した。この政策プログラムの下に、8月には「経済再建税法」(ERTA)が成立した。同法は、個人所得税の累進性緩和(最高税率70%→50%) と設備投資税 (新設資本設備の加速償却 と投資税額控除の拡充) などを柱とし、サプライサイド経済学の主張を受け入れた 内容であった。軍拡政策で 軍事費も増大した(表1参 照)ために財政赤字は82 会計年度に1342億ドル (前年度858意ドル)と急拡大し、その後も83~86年度は2000億ドルを超える赤字が続いた。一方、貿易収支をみると輸入が急速に増加し、赤字が急拡大するのは83年になってからであった。景気の上昇によって初めて貿易赤字拡大につながったのである。しかも、この景気上昇の要因は、82年夏に起きた中南米諸国の利払い不能の危機に対してアメリカ金融当局が金融緩和によって対処したことで金利が低下し、その結果、高金利で抑えられていた住宅や耐久財 (乗用車など) の需要を爆発的に誘発したことにある。
二つには、こうしたアメリカの国内需要の高まりが輸入に結びついてしまう構造の問題である。アメリカの国内需要は82年価格で83年1594億ドル、84年2864億ドル増大したが、輸入もそれぞれ324億ドル、878億ドル増え、内需増加の4分の1が輸入に食われる恰好となっている。輸入に食われる要因はいくつかある。まとめれば輸入品に対する国内産業の競争力の劣勢ということになるが、ドル高が85年2月まで続いたこと、VTRにみられるように外国製品にのみ占有された新商品があったこと、アメリカ企業が部品調達を外国に求めたことなど、一般的にアメリカ企業が外国企業に国内市場で敗退したというだけにとどまらない事情もあった。そして、アメリカ多国籍企業 が、ドル高の下で海外へ生産拠点を次々と移動させたことは、「空洞化」 といわれる現象を作り出したのであり、たとえ財政赤字の需要超過創造の効果がなくなっても巨額の貿易赤字を生む構造を作ったのだといえる。現に87年度の財政赤字は1480億ドルに縮小 (しかも需要に結びつかない国債利払費が1386億ドル) したにもかかわらず、貿易収支は巨額の赤字が続いているのである。
為替レートの作用についてみても、85年2月以降ドル安が続き、マクロ的には貿易不均衡 の是正される条件は整っているはずであるが、改善の速度は緩やかである。ドル安の下で、アメリカ経済が「空洞化現象」を逆転させるには相当の時間を要しよう。
このように国際競争力が劣勢となり、アメリカ資本自体が海外に生產拠点を求める産業構造の基礎の上で、83年からの景気拡大がレーガノミクスをテコとして貿易赤字の拡大をもたらした、というのが真相ではないだろうか。
それでは、レーガノミクスはレーガン政権が偶然的に選択したものなのであろうか。80~81年頃のアメリカの経済情勢を振り返って検討してみたい。この時期の最大の問題はインフレと失業であった。アメリカの消費者物価は79年11.3%、80年13.5%、81年10. 4%と3年連続して二ケタの伸び率となった。失業も79年を底に増加し始め、81年には75年のピークを抜いた。そして83年2月には1155万人に達し、失業率も10.4%となった。特に若年層、黒人の 失業が著しく(16~19歳の男子黒人の失業率は83年8月に 53.8%にまで達した)、深刻な社会問題になっていた。暴動が多発した。インフレは同時に金利上昇をもたらし、アメリカ国内の需要を抑制し景気を悪化させた。こうした状況への資本主義的解決の方法として現われたのがレ―ガノミクスであった。インフレに対してはマネタリズムの理論に基づいてマネーサプライ抑制策をとって高金利を認め、実質金利を高めることで投機的在庫積み増しを抑制した。この効果は、とりわけ高騰していた一次産品に直接的に強く作用した。消費者物価もしだいに落ち着き年率5%以下の水準となった。
一方でサプライサイド経済学の理論的支えの下に大幅な設備投資減税を行ない、国内への投資活動を高めようとした。航空管制官ストライキへの全員解雇攻撃にみられる労働運動への弾圧や規制緩和による企業再 編などの促進といった合理化を進め、労働条件の切り下げを行ない、国内産業の利潤率を高めようとした。その結果、景気拡大期の84年には 税引後法人利益 (在庫品評価、資本減耗調整後)は1961億ドルと80年906億ドルの倍以上に高まった。この間に実質税率は、39%から32%へと低下している。
こうして83年からの景気回復は、インフレと高失業の克服かのように見えたのである。レーガン大統領は85年の年頭一般教書において自らの一期目の成果としてこう述べた。「4年まえ、われわれは、人々にいっそう大きな自由と、危険に挑もうとする刺激を与え、人々が稼いだもののいっそう多くを手元に残せるようにすることによってアメリカ経済を活性化すると述べた。われわれは約束を果たした。 そして偉大な工業の巨人はよみがえった。今夜、われわれは誇りにできよう。経済は25ヵ月連続のしかも34年間でもっとも力強い成長をとげており、3年間のイ ンフレは平均3.9%と17年間の最低となっている。また、2年間に 730万人の職が新たに創出され、以前にも増して多くの国民が職についているのである」
こうした自信に満ちた認識に立って、二期目のレーガン政権はその政策目標を「経済再建」から「成長と機会」にシフトさせていく。マクロ的には財政赤字と貿易赤字の長期的改善であり、ミクロ的には規制緩和 の一層の推進による国内の投資機会の拡大である。財務長官はリーガン (元メリル・リンチ証券会長)からベーカーへバトンタッチされ、それまでのドル高政策に転換が表われる。
ベーカー財務長官の下で、最初に手をつけられたのが為替政策であっ た。アメリカの増大する貿易赤字を為替レートの調整(ドル安)によって 削減していこうとする試みである。ドルは実効レート(他先進15ヵ国通 貨に対するドルの貿易量加重平均指数、80~82年=100)でみると、85年3月に136.9と最高値をつけた後、一貫して下落し、87年11月現在で90.0となっている。この2年半程の間にドルは約35% 切り下がったことになる。為替レートの調整による貿易不均衡の縮小という政策は、85年9月22日にニューヨークで開催された先進五ヶ国蔵相中央銀行総裁会議において帝国主義諸国全体の共通の戦略目標にして合意された。いわゆるプラザ合意である。このプラザ合意は、アメリカが日本や西ドイッに対して、いわば押し付けたものである。つまり、 為替レートの調整によって貿易不均衡に歯止めをかけるのでなければ、 輸入数量制限や関税引上げなど直接的な輸入抑制に踏み切るという手段に訴える、というアメリカ側の姿勢があったからこそ、日本や西ドイツはドル安政策に合意したのである。このプラザ合意によって各国は為替市場においてドル売りの協調介入を行ない、85年年末までに急速なドル安が進行した。円/ドルでは9月の240円台から年末には200円となって、一時的な小康状態となった。しかし、年明けに訪米した竹下蔵相(当時)が、「190円想定」というコメントを行なったため一気にドル安=円高が進み、86年8月には150円台となったのである。この150円台という水準は日本の輸出産業の最も国際競争力の強い分野(半導体など)の限界的採算レートと指摘された水準である。以後、円 /ドルや西ドイッマルク/ドル、スイスフラン/ドルなどは年率15% 程度のドル安のトレンドが続いている。
為替レートの政策的変更による貿易不均衡の改善という考え方は、それまで帝国主義諸国の、とりわけアメリカの国際通商政策に大きな影響を与えてきた「為替の変動相場制による自動調節機能」という「市場信仰」を否定するものである。85年2月のアメリカの大統領経済報告はこう述べていた。
「最近のドル高は、プラスとマイナス両面の影響を与えている。ドル が上昇するにつれて、国際市場で競争しているアメリカの産業のなかに は困難に直面するものもでてきた。こうしたドル高の悪影響のほとんど は、製造部門に集中している。というのもこの部門では、各産業をつう じて、貿易収支の落ちこみが拡大されたからである――(中略)―。
しかしながら、ドル高は、さまざまな点で有益であった。強いドルは、国際貿易にさほど巻きこまれない部門で生産と投資に刺激を与えた。国 際貿易での競争にさらされた産業でも、輸入品との競争のなかで、賃金 その他のコストの管理にまえにも増して注意をかたむけるとともに、工場や設備への投資に力をいれた」
このようにドルが高値をつけた85年初のアメリカ経済政策当局の認識はドル高のプラスとマイナスとほぼ同等の重さでみており、なだらかなドルの低下が想定されていたのであろう。しかし、85年は鉱工業生産の伸び率が落ち始め、景気停滞感が出てきたにもかかわらず、輸入は増え続け、したがって貿易赤字も増大した。ちなみに鉱工業生産指数の伸び率は84年12%、85年2.0%、86年1.2%であっ た。実質輸入の伸び率も84年23.0%に対して、85年第1四半期 ▲15.7%(前期比年率) と一時的に減少したが、第2四半期からは再び増大していった。こうした状況が、ドル安による貿易赤字拡大の阻止と、製造業中心にドル安メリットを受けさせることによって景気の落ち込みを回避するという政策選択を導いたと言えよう。
しかし、実効レートで35%、対円では50%というようなプラザ合意から現在に至るドル安によっても、アメリカの貿易赤字はめざましい改善をみせなかった。変動相場制に自動調整作用があるという考え方だけでなく、為替政策によって貿易不均衡の改善を図るという効果に対しても疑念が高まった。そのことは、日本や西ドイッに対する内需拡大要求となって表われた。その要求は日本や西ドイッの財政再建=緊縮を基 調とした財政政策の転換を迫るものであり、またアメリカ製品の輸入拡大策 (「市場開放」) を求めるものであった。
日本政府は86年半ばごろから、こうしたアメリカの要求に徐々に対応していく動きをみせた。でなければ一層のドル安に見舞われるからである。この時点で、輸出産業の困難性ばかりでなく、ドル債券やドル建 貸付の評価減により、銀行や保険会社などの利害にもドル安が大きく関 わってきたからでもある。86年秋の「前川レポート」、87年2月の 「新前川レポート」といった中期的な経済政策の枠組みが示されるとともに、87年度予算での大幅補正など財政支出の抑制基調に変化が表われている。
しかし、こうした政策によっても、日本の経常黒字を半減させるには5年間かかる、といわれている。数量的にはそうした改善しか期待できないから、価格による解決しかありえないことになる。例えば原油価格が1バレル50ドルになるといった想定である。しかし、それでもアメリカの貿易赤字は減らず、日本の黒字が原油輸出国の収入に振り替わるだけのことである。
こうしてみると、レーガノミクスがアメリカ経済の再生、その国際競争力の復活に成功したとはいえないことは明白である。その意味でレーガノミクスは失敗した、ということができる。しかし、その一方で、確かに現象的にはインフレと失業増大の加速に歯止めをかけてきたことも事実であり、80年当時にあってはレーガノミクスが資本のとりうる最良の道だったのである。しかし、そのことは、現在最大の懸念となっている貿易赤字と財政赤字の拡大、ドル暴落の危険の増大を導いた。矛盾 は形態を変化させながら拡大している。だから、レーガノミクスという 誤まてる選択が現在の問題を生み出したのではなく、70年代にインフ レと失業というかたちで爆発した矛盾が、レーガノミクスという媒介に よって、国際金融体制を揺るがし、アメリカの世界経済における主導権を脅かすような国際不均衡と通貨不安というかたちになって拡大されてきたのである。
下村氏の立場はそうした歴史的必然性を無視して資本主義の擁護の立場から「アメリカが悪い」と断罪しているのである。
こうした見方は排外主義的な気分を高める役割を果たしている。雑誌 「NEXT」88年2月号は「大量失業が迫る!」という特集で、その 巻頭記事を開発銀行調査役高橋伸彰氏の言葉で締めくくっているが、そこでは「大国には大国の行きかたがあってそこで行なうべきものは、ある程度のエゴ』の貫徹なんですね。たとえば、国内で使う鉄は絶対国民の手で作るんだと。それから牛肉も小麦も入ってきていい、しかし米は絶対許さないとか、極端ですがトヨタだけは外に出て行ってはいけないとか。エゴの代償をどこで払うといえば、経済協力とかそういうことで払っていけばいいんですね。企業が日本から出て行くことを野放図に 許していいのかどうか、いまこそ考えるべきときなんです」と語られている。
大量失業の原因は円高であり、悪いのはアメリカだ、ということで、 日本の資本主義の生き残りを追求する論理となってくる。そして「大国のエゴ」を正当化しようとする。こうした思想攻撃に対し、労働者階級の立場から資本に失業の責任を迫り、資本主義そのものの矛盾を暴露していく必要性が高まっている。
三 「90年恐慌」説
マスコミをにぎわしている「恐慌論」に、ラヴィ・バトラ教授の「9 0年恐慌」説がある。バトラ教授はプラバト・ランジャン・サーカーという哲学者の社会循環法則を資本主義の景気循環に当てはめようとする。その社会循環とは4つの「社会階級」=労役者、戦士、有識者、守銭奴が社会の主役を循環的に交代していくというのである。観念が歴史を支配するという考え方であるが、その観念が運命論的に循環していくというのである。本稿は、こうした観念的な俗流歴史観を批判することを目的としてはいないので、その件に関しては読者におまかせすることとしたい。しかし、この「社会循環法則」なるものを除いてみると、バ トラ教授の景気循環論は、貨幣増加の規則的循環という観点から考察されている。そして、それが「90年恐慌」の重要な根拠である。貨幣増加の規則的循環などの現象が、あたかも資本主義の景気循環の本質として扱われている。このことに批判的検討を加えてみよう。
バトラ教授はまずアメリカが独立以来、サーカーのいう守銭奴の時代 を経てきた、という。その論理は貨幣循環が支配階級である守銭奴の宿 命を左右しているから、というものである。そして「資本主義下の貨幣 供給は経済のみならず、社会のすべての変数の最も重要な決定因となる に違いない」とし、ミルトン・フリードマンをはじめとするマネタリズ ムの見解を支持する。そして、アメリカにおける貨幣増加が南北戦争を はさむ時期を除いて、30年周期の循環を成していることを示す。それは事実であろう。
ところが、バトラ教授は、どのように循環運動が行なわれるのかについては語らない。彼は、30年周期という規則性によって、「歴史決定論」の正当性を主張するのである。つまり、30年周期の規則的な貨幣増加の循環は、彼にあっては公理であって分析の対象ではない。彼は振り子が規則的に揺れるのを発見したが、何故、規則的に揺れるのかについては考えようとしなかった。「科学」の立場からすれば循環の規則性 は発見されてはいるが、説明されていないし、だから、今後もそうした循環の規則性が表われるかどうかについては知ることができない。
次に、バトラ教授はインフレの長期循環が貨幣増加の循環とほぼ一致していることを指摘する。数量的に必要以上の貨幣の増加が起これば、貨幣価値は下落し、物価の上昇として現象することは当然である。
ところで、こうした貨幣増加やインフレ率が長期的な循環を持っていることは、さまざまな論者によって従来から指摘されていたことでもある。バトラ教授の独自性は、この貨幣増加の循環、インフレ率の循環と「規制」の循環とを関連づけている点である。バトラ教授はまず規制を「民間部門の意思決定過程への政府介入」と定義づける。そのうえで、各年代 (10年ごと)に設立された新規の規制部局の数と連邦議会を通過した主要な経済法の数の両者を規制の程度の指標とする。そうすると、これまた30年周期の循環が表われ規制のピーク・ボトムは貨幣増加、インフレ率のピーク・ボトムと一致する。この関連性について、バトラ教授は次のような説明を行なっている。
「一つの可能な説明は、貨幣成長を促す諸力が、同時に政府による規制増加の必要性を生み出すということである。例えば、貨幣増加のピー クの多くは戦時期に見られた。1770年代、1860年代、1910 年代、および1940年代は、アメリカが主要な戦争に巻き込まれた時期であり、貨幣の増刷を通じて戦費が調達されたに違いない。他方では、こうした戦争が政府による経済統制の必要を生む。国防生産を容易に増強するため、民間消費が制限されなければならなかったからである。貨幣供給の高い成長と規制部局の主要な増加は戦時期と一致しているが、いずれの場合も生存の問題にかかわっていたからである。
同様に、1970年代には貨幣供給と規制が共に高まった。この年代に戦争はなかったけれども、両変数の増加を基礎づける諸力は同じであった。―(中略) ―以上の議論から示されるように、貨幣成長と規制が同時にピークに達 するのは、両者が戦争や介入主義的心情という同じ外生的な諸力に影響されるためである」
議論は、すっかり混乱してしまった。バトラ教授は貨幣増加や規制の循環の規則性よりも、戦争と介入主義心情の規則的循環を主題とすべきであった。つまり、経済的事象の中に規則的循環を発生させるエネルギ―とその形態変化の構造があるのではなく、外生的な戦争と介入主義心情が貨幣増加やインフレの要因だったのであるから、規則的循環は実は 戦争と介入主義心情という政治的事象のうちにあったのだ、ということ になる。しかし、バトラ教授は、南北戦争をはさむ時期に貨幣増加やインフレの循環の規則性が攪乱されたのは南北戦争のためだとも主張した のであるから、むしろ戦争は循環に対する攪乱要因と考えているように もとれる。この点が、30年周期という時間的規則性に何か神秘的な意味 (サーカーの社会循環法則!)を付与しようとするバトラ教授の弱点であろう。
規制の増大、減少といった傾向が、貨幣増加やインフレと関係していることは事実なのであるから、それは経済事象を基盤としてその相互作 用が歴史的に検討されるべきであろう。
ところでバトラ教授も1930年代のような大恐慌が貨幣増加の循環でみれば同質の時期と考えられる1960年代には何故、起きなかったのかという吟味を忘れたわけではない。1930年の30年前の190 0年には大恐慌はなかったが、1870年代、1840年代には恐慌が 起きている。
バトラ教授は1930年恐慌を深刻なものとした原因として、「富の偏在」を挙げている。1929年にはアメリカの上位1%の世帯が全体の富の36.3%を所有していた。20年代の初めには30程度であったのが高額所得者に有利な減税などや投機熱が、富の偏在、集中を加速し、29年には36.3%となったのである。バトラ教授は、こうした富の偏在が、景気後退時における金融システムの崩壊を招いたのだ、と指摘する。
これに対し、1960年代は上位19世帯への富の集中度は30%以下であり、景気後退が金融システムの崩壊につながらなかったというのである。そして、現在の80年代は20年代と同様に富の偏在、集中が 急速に進展している、と指摘し、大恐慌到来の予想を行なうのである。
このことは現象の指摘としては、大きな誤りを犯してはいないように思われる。日本においてもまったく同様の現象が起きており、富の偏在 が80年代に入って急速に進んだ、という事実は明らかである。しかし、この原因は単に労働者への搾取を強めたとか、減税で得をしたとかいうことではない。資本の過剰蓄積という問題を根本に持っている。そのために発生する遊休資本とその貨幣資本への転化、投機による資産価格(土地、株式、債券) の上昇といった一連の金融的現象が、一握りの独占ブルジョア ジーの手にあたかも富が急速に集中したかのような外観を与えるのである。これらの資産価格の上昇はその資産そのものが無価値であり、したがって当然、価値の蓄積ではない。資本の過剰蓄積から発生する遊休資本の増大、限界的利潤率の低下、利子率の低下といった現象が、資産価格の上昇を生み出す。その価格形成にはそれぞれの法則性があり、ここではその問題には立ち入らないこととする。しかし、資産価格の上昇という事態は、それが急激すぎるものであれば、独占ブルジョアジー全体の利害にはむしろ相反するものとなるのである。
とにかく、われわれはバトラ教授のいうように金融システムの崩壊の危険性が高まっているという事実は承認する。87年10月の世界的株価暴落はその一つの証拠である。幸か不幸か、この株価暴落はいまのところ大恐慌の引き金とはなっていないようである。しかし、株価の動向は、上昇にしろ下降にしろ、急速なものであればあるほど、金融システムに脅威を与えることになろう。
ところで、バトラ教授とは異なる理論による「90年恐慌説」がある。その最も典型的な例が、技術革新の循環 (コンドラチェフ循環)をあてはめる考え方である。この場合は60年周期である。
また、コンドラチェフ循環の当否を別にしても、設備投資循環のボトムが現在の在庫循環のボトムにやってくるため、そこでは深刻な不況が発生することが予想されている。少なくとも75年恐慌程度の恐慌が、設備投資循環からは考えられる。現在の好況の始まりがおおよそ87年 初だから、89年から90年ごろに不況が襲ってきても不思議ではない。しかし、こうした予測は、時間的規則性から導かれるのではない。 設備投資に関する循環、在庫投資に関する循環が、どのように進行しているのかという観測を基にしているのである。
一般的に循環運動という観点から運動を分析する場合、循環を生じさせる動因とその循環的形態変化が対象となる。 設備投資循環についていえば、利潤獲得と競争という資本の動因を基にして次のような循環を形成している。
こうした循環を観測すれば、その時間的規則性にこだわる理由はまったくないことがわかる。設備投資循環についてみれば、戦後では1961年と1970年、1985年ごろにピークを形成したとみられ、そのピーク間の長さは9年間、15年間で一定しているとは考えられない。在庫循環にしてもその時間的規則性は明確ではない。
以上のことからも明らかなように、何かの循環の時間的規則性を絶対的所与のものとして経済現象を説明する方法は、科学的とはいえない。資本の運動の状態をその要素から分析し、総合して把握していくことが重要である。
現在は、在庫循環でみると、設備投資循環のピークとともに迎えた83~85年の好況が終わり、86年の不況を経て、新たな好況期に入っている。しかし、設備投資は対GNP比ではピークアウトしており、次の不況期にはボトムに向かう可能性が大きい。そのことが、前に述べた ような「富の偏在」という条件の下で金融システムを大いに動揺させる可能性を持っている。
(1988・1・24)
参考文献
① 東海銀行調査部「国際収支の不均衡と国際協調」
② 安保哲夫「戦間期アメリカの対外投資」東大出版会
③ 吉富勝「アメリカの大恐慌」東大出版会
④ 「NEXT」87年1月号~88年2月号、講談社
⑤ ラビ・バトラ「マネー・インフレ・大恐慌」東洋経済新報社
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?